見出し画像

サッカー備忘録

こんにちは!
伊藤崇人です。


自分ってなんかサッカーの事を喋るより、人間的な面だったり違う観点からの事を好む傾向があるんです。

なぜかというと、無意識でサッカーから逃げているというか、サッカーだけの人間になりたくないっていう思いが出てるんだと思います。そういった、少し斜に構えるところがいい方向に向いたり悪い方向に向いたりしてるって最近思います。


なので、今日は自分のサッカー人生を伝えたいと思います。少し長くなりますがお付き合いください!


まず、サッカーと触れ合い始めたのは保育園の年長くらいの時かな?クーパーコーチングスクールというところで初めてサッカーボールを蹴りました。

小学生になると仲の良かった幼なじみが入っていた小さなチームに入りました。その幼なじみがすっげぇ上手くてほんと憧れで、一緒にプレーできて幸せとか思ってました。

でもそのチームが小学3年生までしか担当してなくて、4年生から違うチームに行くことになりました。
そこで幼なじみがいくというクラブチームに自分もいこうとしたんですが、そこは家から距離があるからという理由で家から近いその近隣の地域の中じゃ強いと言われていたクラブチームに入りました。

そこでたくさんの仲間をつくりました。まず、人と接することがこんなに楽しいんだと思えたキッカケなのかもしれません。家族、子供ともに仲が良くてあ、サッカーやってて楽しいって感覚を覚えました。

でも学年が上がるにつれて、やはりある程度の強さが求められるので指導自体は厳しくなっていきます。

自分はかなりヘタクソで泣き虫でよく怒られて、悔しい思いをしながら食らいついて日々練習していました。


そして小学6年の秋で中学のforza'02というクラブチームのセレクションにいきました。
ここがサッカーにおいて大きい出会いなのかなと思います。

セレクションで50m走を測る時、めちゃその時は自分足速くて、それをみてくれたスタッフの方が良い印象をもって貰えた事で無事合格することが出来ました。

そして中学生となって、その時は中1にしては身体的有利や足の速さで悪く言えばフィジカル頼み、よく言えば特徴を思う存分発揮出来ていたので1年生の試合には良く出さしてもらっていました。

よし、このまま出続けて結果残し続けてやる。
当時は良い意味で根拠のない自信に満ち溢れてました!

forzaのサッカースタイル自体が当時はシンプルなサッカーをしていたため技量があまり必要とされていない、身体能力が高い選手が使われるという状況でした。(特にディフェンス)

当時、3バックのためマンツーマンで人にずっとついていくという役割が凄いハッキリしていたため、当時のチームのディフェンスには
跳ね返す力
タスク管理

が求められていました。

逆に言えばこの3つがあればある程度評価が貰える状況でした。

だから必死に声出して、ヘディング練習して、死ぬほど走れない自分は数々のフィジカルメニュー(10周走、練習終わりに照明消えてる中1000m走、ポストに向かってショルダーチャージ、スライディングでゴールラインからハーフラインをインターバル)にガムシャラに食らいついていきました。

でも中学2年の春先かな?試合に出れなくなりました。

なぜかというとシステムの変更とサッカースタイルの変化に自分がついていけなかったからです。

システムも4バックになって、ボールも以前より大事にしていこう。という方針になりました。組織として大きな変化であったし自分としても転機だったと思います。

今まで教えられた事をやってきて、試合に出るというサイクルに変化が訪れました。

4バックだと主にゾーンディフェンスになるためマークの受け渡しになり、プレスの掛け方も人ではなくスペースを消したりゾーンを限定して守る守備を求められることになりました。ビルドアップも今は当たり前の用語となってますが、当時は?だらけでした。
ただでさえ下手なのにボールを大事に回すにはどうしたらいいんや、と一時期混乱状態でした。

なので試合でミスを連発。
試合には使ってもらえなくなりAチームにはいたんですがベンチを温めることだったりベンチ外の時期が続きました

そしてついにBチームに落ちることになりました。

その時、中2だったかな?反抗期真っ盛りで。
出てる奴らの光景をみてサッカーなんのためにやってんだろとか、中学の同級生今遊んでんのかとか、親にもその態度が出ていたのか怒られる毎日。

あーもう嫌だ。全部、投げ捨てたい

と思って1人心を閉ざしていた時期もありました。

forzaは基本やらない奴は見切りをつけるというシビアな世界でした。
だからこそ自分で考える場を提供してくれていました。

学校の先生からある日、今のままでいいのか?と言われました。
当時、学校生活も良くはなかったため担任の先生が声をかけてくれました。

今のままでいいのか、、

確かに外から見るとダサいよな。とか思ったりしました。思春期でしたが諦めるのが1番ダサいことなのかなとそこで確信しました。

負けてたまるか、クソが。

そこで自分自身、人間的に1つ壁を乗り越えたと思っています。

かといって結果はそう簡単についてきません。
必死に出来る事は全てやりました。口から血の味するくらい走りました、声も誰より出しました。それでも出れなくなってから公式戦に使ってもらうことは1度もありませんでした。


そして、高校に進学。
進んだのは武南高校でした。

当時プリンスリーグ2部制の時で細かいパスサッカーで異彩を放っていた武南高校。

親と試合を観に行っていてあっ、ここでサッカーしたい。サッカー上手くなりたい。というどうなりたいとかこういうことしたいっていう自我が15歳で初めて芽生えました。

しかし、いざ入ってみるとまぁ大所帯。
部員数は300ちょいいたと思います。

ここで試合に出るには300分の11っていうことか、、といったない頭で必死に計算しました。

コートもハーフコート1面。中学ではフルコートが当たり前のような素晴らしい環境でやれていたので、中学と比較して環境面のギャップをかなり当時感じていました。


ほんで同期の選手自体も上手いやつばっかで。みんな俺と同じでパスサッカーが魅力的に感じて入ったんだなって思うやつばかりでした。

そんな同期から日々、勉強させていただいてました。

中学時代はあまり意識していなかった上下関係。
学校が1〜6限あってそこから部活、そしてそこから居残り練習。1年時は疲労困憊の状態が毎日続きました。

でも良い意味で自分達の代は負けず嫌いだったり、自信家な奴らばっかで練習から激しい削り合いや言い合いが絶えない毎日でした笑

自分は言われる側だったり止める側が多かったですね笑

でもそんな仲間のおかげで勝ちに対する貪欲さ、闘うことといった競技においての大事な事を目に見える形で見せてもらい自分も触発されて刺激的な日々を過ごしていました。

それのおかげかU-16の埼玉県リーグを無敗優勝することができました。アルディージャ、レッズといったJ下部もいる中で優勝した事はかなりの自信となっていました。自分自身も全部には貢献できませんでしたが試合に出る機会が多々ありました。

しかし高校2年になるとAとBとそれ以外という立場がはっきり別れることになりました。
自分は最初それ以外でした。AとBの振り分ける前に、ある不祥事でスタッフからの信頼を失ってしまいました。


まず、そこで親やスタッフたくさんの人に迷惑をかけてしまいました。それが虚しくて、悔しくて。

俺はここで試合に出るために埼玉まで来てるんだろ。
何してんだ。

そこで自分の中で迷惑かけた人達にサッカーで恩返しするしかない

という明確な動機が生まれました。

A、B、その下にもなると試合は組んでもらえずメンバーもやはりサッカーに対するモチベーションは人それぞれ。自分から観てやる気のない人、現状維持を大事にしてそうな人はたくさんいました。それでもここで埋もれてたらいけないと思って、試合というアピールの場が限りなく0に近い中で出来る事は全力で1日の練習をやるしかない。その考えで過ごしていました。

そんな時、Bチームにようやく合流できました。

でもマンモス校のBチーム。
やはり実力がある人達がそろっていたし、モチベーションもみんな高い。ちゃんと試合が組める環境。
どうやってここでまず試合に出てアピールするか。

でもレベルの高いところでやるのは楽しいし日々刺激的でした。その時あまり感じられていなかった感覚が心地よかったのを今でも覚えています。

しかし試合には出れず、やはり練習するしかない日々でした。

そんなある日、ある遠征のメンバーを決めるためのAとBごちゃ混ぜの紅白戦が行われました。

よし。やったろ。
そう思い望んだ紅白戦。自分でも驚くほど良いパフォーマンスで試合にも勝って、その日の最後にメンバー発表があって自分は無事遠征メンバーに選ばれAチームに初めて合流することができました。

憧れのA。
精鋭されたメンバーと一緒にいきなり試合が出来る。

なおかつ同い年の2年がAに上がっていた人数が多かったためそこと一緒に戦える嬉しさもありました。

遠征が夏頃行われていたんですが、スタメンのセンターバックの人がちょうど夏前のインハイ予選の試合で怪我をしてしまったこともあり

試験のような感じで自分がスタメンのポジションを任されることになりました。もちろん先輩にも同じポジションの人はいたんですが自分を使ってもらったのは本当に今でも感謝しています。


でもやはり実力は1番下で試合中のミスもセンターバックなんですが1番多いし気を遣ってプレーは消極的。

やはりAは求めるプレーレベルも高く、それぞれのポテンシャルが段違いでした。埼玉のトップレベルの環境に身を置いてヒリヒリと痛感しました。

ただその中で通用するところもあって。
それが中学時に散々練習してきたヘディングだったり空中戦でした。

足元は相変わらずヘタクソで頭も悪いけど、
通用する部分はありました。

遠征後、リーグ戦が始まり、監督にも死ぬほど怒られ続けて戦ってる相手が時折、監督なのかなってくらい憎い時もありましたが、ある意味それが反骨心のようなエネルギーに変わってくれたり、周りの同級生や親の励ましの言葉のお陰でスタメンとしても使い続けてもらったり、Aチームに食らいついていくことがギリギリ出来ていました。

ただギリギリだったため自分がどうしたら認めてもらえるか考えた時、試合中わからない事があったら先輩に聞いたり、同期のやつに聞いたりしてコミュニケーションを意識的にとりました。ただ、監督には聞けませんでした。


チーム自体も無事にリーグ戦も負けが少なく上位で順位をキープしたまま迎えた選手権。

はじめての選手権。先輩達にとって最後の大きな大会。それに出る事になった時、その時いつもみていた応援側がいつもより大きく見えて頼もしくすごい力強かったんです。本当に。

初戦勝って、迎えた2回戦。

VS浦和東です。埼スタ第4グラウンドはネットをたくさんの人が囲んでグラウンド内から外が見えないくらい超満員でした。

前半0-1、後半1-0で延長戦へ。
激闘でした。激闘の末に1-2で負けてしまいました。

試合後何故か涙は出ませんでした。今までこういう大事な試合負けると泣いてたんですが初めて試合後涙がありませんでした。

試合後に観客へ挨拶に行って着替えるために荷物置き場へ。
その時、先輩達が泣きながらたくさん声をかけてくれました。
ありがとう、よく闘ってくれた。


その時ブワーってなんか負けた悔しい感情だとか先輩の最後の大会で負けてしまった情けなさなど感情が入り混じって出てきて
それと同時に大量の涙が出てきました。悔しかった。

もう負けたくない、そう思いました。


その後のリーグ戦再開後、俺は試合にまた出る事が出来なくなりました。


パート2に続く




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?