耳が遠いから聞こえること feat.からだの稽古

先日おばあちゃんの家に行ったのだけど、そこで話すこと聞くこと、共にいることについて、思い至るところがあったので書いてみた。
僕が今やっているからだの稽古や「生きる味わい」と呼んでいることについても、雰囲気がわかるかもしれない。最近そこに興味を持ってくれる人もちらほらいるから、そういう人もよかったらお読みください。
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昨日おばあちゃんの家に行った。卒業祝い。二人で祝った。
おばあちゃんは耳が遠い。だから、時々苛立って大声でゆっくり耳元に話すことがある。でもそうするのは嫌な気持ちがするし、不躾だ。そういう会話の仕方をする人を目にした時は、なんだかな、と思うし、大声で関わらないにしてもヒソヒソと「あの人は耳が遠いから」と話しているのをみるのも大嫌いだ。

昨日おばあちゃんと話していたら、耳は遠いけど、全部の会話が聞こえづらいわけではないみたいだということがわかってきた。
言葉の意味内容を情報伝達的に伝えようとすると、届きづらい。だけど、おばあちゃんとの場を共有して、温度感のあるところから言葉を発すると、聞き取ってもらいやすいみたいだ。たぶん、言った言葉自体は聞き取りづらくても、俺が言わんとしていることが伝わって、そこから、言葉も推測ができて、何を言っているのかわかりやすいんじゃないかと思う。
似たような話で、友人が異国の地で人と出会って、違う言語同士だけど通訳を介さなくともなんか言ってることがわかって、家に泊めてもらうほど親しくなったと言っていた。おばあちゃんに言葉を聞き取ってもらえるとき、これと近い感じで会話しているのではないかと思う。

言葉の持つ力は、意味内容の情報伝達に留まらず、意味内容以前に自他の間に発生する場をやりとりしていくものでもあるのだと思う。場が共有されるから、音声以前の「声」が届き、「言わんとしていること」が伝わるのだと思う。私たちは可聴域だけでものを聞いているわけではない。「声」という言葉だって、「私の声を聞いてほしい」と言うとき、可聴域の話をしているのではないことは明らかだ。
私の言わんとしていることを聞いてほしい、私とあなたがここにいるという出来事を、ちゃんと感じてほしい。意味内容的な情報として認識するのではなく。
それは認識以前の、身体における感受の話だ。

おばあちゃんの耳の遠さは、意味内容の情報伝達から捉えれば、物分かりの悪さでしかない。だから私たちは時に物分かりの悪さに苛立って、こっちの言っていることを聞かせようと大声でゆっくり耳元で、これでもか!と話す。
けれど、耳の遠さを、感受的な場の共有から捉えれば、それは感受を高めるための非常に明確な道標になる。意味では伝わらない。からこそ、言わんとしていることから話す道筋が明らかになる。こちらの声が丁寧に届く。

耳が聞こえる自分だって、意味内容で自分の言いたいことを伝えようとしても、いつももどかしく思う。
言葉の意味は、すでに言語体系の中に存在する共有知識だけど、今ここで自身が感じていることは、今まさにここで感じていることであって、類似した意味を用いて近似的に表現することはできても、感じていることそれ自体を意味で表現しきることはできない。今ここに、自身の身のうちでしか存在せず、まだ誰にも共有されていないことは、すでに共有されている知識をいくら組み合わせても届かない。
でも、私の声を聞いてもらえたと感じる瞬間もある。そのときは、意味内容を認識的に理解してもらえたというより、この身のうちの出来事を、それとして見とめてもらった、という感触があるように思う。意味を聞いてもらったのではなく、声を聞いてもらった。意味を通じては言い切れない「言わんとしていること」を聞いてもらった。言葉にしようとも身をよじることしかできない、そのよじりを共有できた。

言葉はうた(詩や歌)から発生したのではないか、という話を聞いたことがあって、その歴史的な真偽は知らないけれど、個人的な経験からすれば、きっとそうなんじゃないかと思っている。出来事に触れて、つい「ああ」と声が漏れる。時に歌いたくなり、詠いたくなる。言葉の力は、身体的な感受から発生していて、言葉の生命はそこに宿っているのではないかと感じる。

耳の遠さは、感受のやりとりの道標になっていた。老いはそのまま衰えと直結されちゃいがちだけど、衰えているのは意味内容の認識的情報伝達であって、その分「言わんとしていること」の感受は際立っている。衰えているのではなく、言葉の生命に迫って行っているのだとしたら、老いることは余計なものを捨てて、大事なことに出会い直すプロセスなのかもしれない。余計な力が衰えて、生命が熟してくる。その一環としての情報認識の衰えと、感受の際立ち。

余談だけど、昨日おばあちゃんの運転する車に乗っていて、危なっかしいなと思ったし、テレビやネットで高齢ドライバーが目の敵にされているのもどこかわかる気がした。けれど、人のための車や道路であって、車や道路のための人ではないのに、車や道路のために高齢者が目の敵にされるのなら、おかしいのは車や道路だ。車や道路の速さや滑らかさから高齢者の運転を捉えれば、危険運転・迷惑運転だけど、老いることがそういった速さ・滑らかさを不要なものとして捨てていくプロセスで、それが生命に迫っていくことなのだとすれば、高齢者ドライバーを「危険運転・迷惑運転」と捉える観点は、生きること・死んでいくこととはかけ離れた技術への固執にすぎないのではないか。車や道路の速さのおかげで私たちの生活が成り立っているのは確かだけど、それに固執したら、生きていく上で避けられない老いは不幸でしかない。老いることが不幸であれば、どんなに若い人間だって今老いつつあって、行く先全員不幸だ。だからこれだけ整形とかアンチエイジングが流行っているのだろうか。むしろ老いることの力・衰えることの力に目を向けた方がいい。


おばあちゃんと、のんびり話した。聞き間違えて、すれ違って、時々出会って。その場の共有がうれしい。
おばあちゃんが左手や左足の末端が痺れて握りづらい・動かしづらいと言っていて、自分もちょうど最近正座の時の足の痺れを観察して探究していたから、俺がおばあちゃんにやれることやってみようと思って、おばあちゃんと手を合わせてみた。おばあちゃんの手を感受する。これもまたコミュニケーションで、もちろん意味以前の、そして言葉以前の、からだの声を聞くこと。これはからだの稽古でやっていること。
感じているとどうやら、おばあちゃんが頭で思っている手や動かし方の通りに、実際の手が動きたいわけではなさそう。

からだが動くとき、トレーニングのように頭でからだを操作的に動かすやり方だけではなく、例えばワクワクして堪えきれず走り出してしまうときのように、からだは自ら発生的に動くことができる。頭で操作して手を動かそうとすると、手の側は操作されるモノ的な存在になる。でも、からだはモノじゃなくて生き物だから、感受性があって、いきいきと自ら動き出すことができる。手の側はモノ的な扱いに嫌な思いをしているのかもしれない。まるで私たちが人として尊重されていない時に嫌な思いをするように。ここではわかりやすく比喩として「思い」という言葉を使っていて、もちろん実際に手が「嫌だなあ」と口にするわけではないし、触っている感触はそんな「思い」を抱えている、っていう感じとはまた違うのだけど、なんにせよおばあちゃんの手は、操作的に・モノ的に扱われるのとは違う存在の仕方をしようとしてはいた。その仕方のあらわれ方が痺れだと感じた。それは手の声、言い分。

操作的に動かそうとする観点からすれば、その言い分は「動かしづらさ」であり、「痺れ」という嫌なもの・鬱陶しいものなのだけど、手の観点からすれば、動きたい方向があって、こっちに発生的にいきいきと動きたいのに、操作的に抑えられていて消沈、という感じ。おばあちゃんの思う手への想定と、実際の手の発生が行き違っている。

おばあちゃんと手を合わせながら、手の発生を捉えていた。痺れは頭による操作が効きにくいところ、つまりからだが操作をあまり受け入れていないところだからか、発生が早い。消沈しているところも、耳を傾けると思いもしない発生が起きてくる。操作側の想定にとっては奇想天外なんだけど、でもこんなフレッシュに動き出してくるんだ。老いたから動かせない、と言うけれど、本当にそうなのか。歳を重ねた分だけ頭の操作的な想定が習慣化してくるから、その分からだがそれに反旗を翻しているだけで、「老い」と「動かせない」とを因果関係で直接結びつけるのは早計なんじゃないかと思った。武術家なんて、おじいさんになるほど洗練されていく人いるもんね。おばあちゃんの頭の想定では老化でくたびれているけれど、からだは思っていた以上にフレッシュ。もちろん年の若い俺よりはフレッシュではないけれど、それもくたびれというよりは、経験の重なった厚さという気がする。じんわりしている。

そんな感じを味わって、発生が一段落した感じが出てきたから、合わせていた手を離して、終える。おばあちゃんに手の握りを試してもらったら、さっきより深く握れるようになっている!うれしいね。おばあちゃん曰く、痛みはあるけれど、動かしやすくなったとのこと。
動かそうとする操作側の願望が一方的にからだを動かすんじゃなくて、からだ側の都合も聞かれて、頭とからだが協力し出したのかもしれないね。

おばあちゃんは溌剌としてきて、日頃通っているヨガ教室でやっていることとか謡曲の稽古とかを嬉しそうに教えてくれた。楽しそうでなにより。
ただ、ヨガ教室でおばあちゃんは、身体が凝って痛いところをグリグリとほぐすようなことをやっているようで、そのときおばあちゃんのからだはモノ的に扱われているように見えたから、「痛いところを痛めつけるようにグリグリするんじゃなくて、痛いところがちょうど心地よく感じるような圧に加減してやるといいんじゃない」と伝えた。痛みの側にも都合や言い分がある。

帰り際に、左足の痺れも含めて、おばあちゃんの背中に手を当てて帰ってきた。


今朝、おばあちゃんからこんなメッセージが来た。

「私はいつも独り善がりで、相手の気持ちを、ゆっくり聞くことがない。それは耳が遠いせいとばかり思って、何度も聞き直すことが出来ません。
相手と対になって時間をかけて、反芻する(牛のように) だから、昨日はとても良い日でした。ゆったりとした気持ちが夜まで続き、寝付きも良く、朝までぐっすり眠り、夢も見ませんでした。肩の力が抜けたようです。一人で頑張りすぎですね。修平くんの言うことが身に染みました。有り難う。
家族や身近な人がそれぞれの生き方で困ったときは助け合う。たまには、お互いに思い合い食事して健康を確かめ合う。そのように考えたら、気が楽になりました。
また合いましょうね。」

嬉しいメッセージ。
おばあちゃんは日頃不眠で悩んでいるから、昨日ぐっすり眠れたと聞けてとても嬉しい。
耳が遠いことも不眠も、「理想の健康状態」から眺めれば解決すべき問題になってしまう。でも、おばあちゃんは問題として生きているわけじゃない。「理想」は概念であって、おばあちゃんではない。おばあちゃんは今ここにいるおばあちゃんでしかない。その地点から一緒に過ごすと、自ずとなにかが整ってくるのかも。
俺は俺で、ここ数日卒業とか諸々忙しくて気が立っていたのが、おばあちゃんのじんわりとした経験の厚さに触れて、落ち着いてきた。その日暮らしみたいな貧乏を生き抜いてきたたくましさを、少し受け取った気がする。自分ひとりでは生きていけないこと、でも、それは思いやりに寄りかかることじゃない。かといって自分ひとりで頑張ることでもない、言葉にすれば禅問答のようだけど。
他人がいてくれるから、自分自身にくつろぐことができる。
それを自立と呼ぶのかもしれない。


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