エモい、は自分専用の"最高"

エモい。

きれいな自然に触れたとき、夜景を見たとき、絵画、文学に触れたとき、リップヴァンウィンクルの花嫁を観終わったとき、
一言目、とりあえずエモいという風潮ありませんか。私も言います。

語彙力がない人がうまくそれを表現できないときに、しばしばこのエモの出番が来るので、ヤバイとかマジに類する便利な日本語かと思っていませんか。
だけど、このエモは深い言葉だと勝手に思っていて、実は素敵なんじゃないかって思っています。

今日はみなさんにこの、エモい、エモ、を感じてほしいと思って書きます。

エモい、は
emotional(エモーショナル)の頭をとって、そこに「い」をつけて形容詞化したものだ。
語義からすれば、感情を突き動かすものがエモの対象になるだろう。

だったら、「最高」「ヤバい」に代替されて然るべきかと思われがちだが、実はそうでないと主張したい。

舞浜の夢の国にグループで行っておしゃれなポップコーンを食べてインスタ映えする写真を撮ることを、エモいという人はあまりいない。
これは明確に「最高」であり「ヤバい」なのである。
しかし、その帰りに、その一日を思い出しながら聴く音楽はエモいに他ならない、と思う。

みんなで映画に行くことは最高かもしれないが、映画を観た感想はエモいと表現できるだろう。

私の最近エモかった話をしよう。
スピッツの30周年ツアーに参加したことだ。久しぶりに生で見るスピッツで、しかもその演出とセットリストが自分好みだった。(ここまでが最高)そして、ライブの最後に流れた『1987→』を聞いたとき、泣きそうになった。(ここがエモ)

スピッツに感動するほど好きな曲はたくさんあったが、『1987→』にはスピッツ30年の歴史を感じて、それがまっすぐ自分の心に刺さってきて、自分のいままでのことがフラッシュバックして…
よくわからない気持ちになってしまった。どれくらいエモかったかというと余韻で家までの6km余りを地下鉄も使わず歩いて帰ってしまうほどだった。

つまり、エモいとは自分専用の"最高"なのである。目の前の最高が心の内にあるものと共鳴してエモいになるのである。

だから、"最高"は共有できても"エモい"は共有できない。
みんなでレミオロメンの『3月9日』を聞いても思い出すのはそれぞれの卒業式であり、同じ卒業式に出ていても抱くものは人それぞれだからだ。

3月はとにかくエモくなる月であることは間違いない。特にこの、大学卒業間近の1番エモいときを精一杯楽しみたいと思うのであった。



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