知性で「悲観的世界観」をばら撒く専門家に抗おう

自分の収入・知名度・社会的地位を高めるために「人間の本性は悪だ」「世界はどんどん悪くなっている」といった「人間観の呪い」「世界観の呪い」を撒き散らす人がいます。これはなかなかイメージしにくいかも知れませんが、人文科学系の学者や研究者が典型です。

具体例を挙げた方がわかりやすいですかね。たとえば「日本の若者の性的モラルが崩壊している」といったことを声高に撒き散らす人がいます。女子高校生による売春の横行、いわゆる「援交」や「パパ活」などの現象がそういった主張のエビデンスになっているわけですが、しかし本当にそうなのか?

実際の統計を調べてみれば、売春関係事犯の検挙件数は昭和61年の一万三千件をピークに減り続けており、現在はその1/20以下になっています。統計を取り始めて以来、かつてこれほどまでに売春関係事犯の検挙数が少なかった時代はありません。

内閣府男女共同参画局ウェブサイトより転載https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r02/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-06-13.html

このデータを確認するだけでも「若者の性的モラルが崩壊している」というのはかなり眉唾な指摘・・・平たく言えば耳目を集めるための「ホラ」だということがわかります。

かてて加えて、そもそも「性的な規範」には民族別に大きな差があり、何をもって「モラルの崩壊」とするかも微妙な問題です。たとえば宮本常一の「忘れられた日本人」を読むと、20世紀前半まで、日本人の性的モラルは欧米のそれに比べて遥かに鷹揚であったことがわかります。

特に農村においては夜這いは日常茶飯事でしたし、今でいう乱行パーティのようなものがしばしば行われていたようで、それが抑揚の少ない日常生活においてスパイスのような役割を果たしていたことが窺われます。

民族が長い年月のあいだに醸したモラルというのはそう簡単に上書きできるものではありません。明治以来、文明開花の掛け声のもとにさまざまな規範が強制的に導入されたわけですが、多くの領域で、それは水面の上に掲示された規範と、水面の下に隠された規範というダブルスタンダードという形で残存しています。つまり「性的な鷹揚さ」自体を一種の「遅れ」と見なすこと自体が、西欧中心的モラルの立場からの一方的な見方だということも言えるでしょう。

ということで、よくある「人間の本性は悪だ」とか「社会はどんどん悪くなってる」といった言説には気をつけなければならない、ということですが、今回の記事では、こういったハタ迷惑な言説の中でも「極め付け」と言える例を取り上げて説明します。

取り上げたいのは、おそらく歴史上の心理学実験としては最も有名なあの実験、すなわちスタンレー・ミルグラムによるアイヒマン実験です。これほど人間観を歪めたハタ迷惑な研究もないと思います。実験の内容についてすでに知っているという方は実験内容を説明するパラグラフは読み飛ばしてもらって結構です。

まず、新聞広告を出して「学習と記憶に関する実験」への参加を広く呼びかけます。集まった人から選ばれた二人の被験者がクジを引き、一人が先生役、一人が生徒役となり、これに白衣を着た実験担当者が加わります。

役割が決まったら三人一緒に実験室に入ります。実験室には電気椅子が設置されており、生徒役の参加者は電気椅子に縛り付けられます。先生役は最初の部屋に戻り、電気ショック発生装置の前に座ります。

この装置にはボタンが30個付いており、ボタンは15ボルトから始まって15ボルトずつ高い電圧を発生させる・・・つまり最後のボタンを押すと450ボルトの高圧電流が流れるという仕掛けになっていると説明されます。白衣を着た実験担当者は「誤答のたびに15ボルトずつ電圧を上げるように」と先生役の参加者に指示します。

実験が始まると、生徒と先生はインターフォンを通じて会話します。生徒は時々間違えるので、電気ショックの電圧は徐々に上がります。75ボルトまで達すると、それまで平然としていた生徒はうめき声をもらし始め、それが120ボルトに達すると「痛い、ショックが強すぎる」と訴え始めます。

しかし実験はさらに続けられます。やがて電圧が150ボルトに達すると「もうだめだ、出してくれ、実験はやめる、これ以上続けられない、実験を拒否する、助けてください」という叫びを発します。電圧が270ボルトになると生徒役は断末魔の叫びを発し始め、300ボルトに至って「質問されてももう答えない!とにかく早く出してくれ!心臓がもうダメだ!」と叫ぶだけで、質問に返答しなくなります。

この状況に対して白衣を着た実験担当者は平然と「数秒間待って返答がない場合、誤答と判断してショックを与えろ」と指示します。さらに実験が進み、電圧が345ボルトに達すると、生徒の声は聞こえなくなります。それまで叫び続けていたのが、反応がなくなる。気絶したのか、あるいは・・・・しかし白衣の実験担当者は容赦なく、さらに高い電圧のショックを与えるように指示し続けます。

この実験で生徒役を務めているのはあらかじめ実験者側で決まっているサクラでした。常にサクラが生徒役、応募してきた一般の人が先生役になるようにクジに仕掛けがしてあり、電気ショックは発生しておらず、あらかじめ録音してあった演技がインターフォンから聞こえてくる仕掛けになっていたわけです。

しかし、そんな事情を知らない被験者にとって、この過程は現実そのものでした。会ったばかりの罪もない人を事実上の拷問にかけ、場合によっては殺してしまうかもしれない、という過酷な現実です。

さて、読者の皆さんがこの被験者の「先生」の立場であったら、どこで実験への協力を拒否したでしょうか。ミルグラムの実験では、40人の被験者のうち、65%にあたる26人が、痛みで絶叫し、最後には気絶してしまう(ように見える)生徒に、最高の450ボルトの電気ショックを与えました。

どう考えても非人道的な営みに、これだけ多くの人が、葛藤や抵抗感を示しながらも、明らかに生命の危険が懸念されるレベルまで実験を続けてしまった、というのがミルグラムによるこの実験の「一般的に知られた起結」です。

この実験は新聞やラジオやテレビにこぞって取り上げられ、当時28歳の助教授だったミルグラムは一躍「時の人」となります。ニューヨークタイムズは「被験者の65%が苦痛を与えろという命令に無批判に従う」という見出しをつけて実験を大々的に紹介しています。

ミルグラムとしては「しめしめ・・・」と思ったことでしょう。仕事というのはなんでもそうですけどタイミングが大事ですね。この実験の行われた時期は、国際的な注目を集めていたナチス戦犯のアドルフ・アイヒマンの裁判とほぼ重なっています。

念のために説明しておけば、アイヒマンというのはナチスドイツにおいて、ユダヤ人を虐殺するプロジェクトの責任を担った人です。この裁判を通じてアイヒマンは一貫して無罪を主張していました。「自分は命令に従っただけで別に悪意があったわけではない」というのがその理由です。

つまり「権威に従っただけで悪意があったわけではない」という人物が数百万人を虐殺するプロジェクトを指揮したという時、その人物に咎を認められるのか?という哲学的な問いが全世界に突きつけられていたまさにその時、ミルグラムの実験は行われたわけです。

さて、ここまで読まれた皆さんは、ミルグラムの狙い通り「普段は善良に見える人であっても、権威に指示されれば悪魔のように振る舞うのだな」と素直に実験の結果を解釈されたと思います。実は私自身もその一人で、大学生の時に読んだ心理学の教科書でコロリと騙されました。

しかし、あらためて考えてもみてください。実験が行われたのは名門中の名門として知られるイェール大学です。そのイェール大学において、公募された実験参加者が、イェール大学の科学者が見守っている中、一般人を拷問にかけ、殺してしまうかも知れないよう状況を、実験の参加者は本当に疑問に思わずに素直に信じたと思いますか?

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