#056 いま必要なのは「モノのイノベーター」ではなく「コトのイノベーター」

「モノ」から「コト」へ、あるいは「役に立つ」から「意味がある」へと、価値の源泉がシフトしつつあるこの時代において、小林一三ほど最適な経営者のロールモデルはない、と思っています。そう、あの阪急グループの事実上の創始者である小林一三です。

小林一三は慶應義塾を卒業したのち、三井銀行に入行しますが、ここでは全く芽が出ず、左遷に次ぐ左遷の末に「三井にいても先は知れている」と、バンカーとしてのキャリアを諦め、34歳の時に、当時は全くの無名だった関西の弱小私鉄「箕面有馬電気軌道」に転職します。30歳を超えてからの転職は現在でもリスクが大きいと考えられていますが、当時にあって、しかも銀行とはまったく無縁の鉄道事業に身を転じているわけで、よくぞ思い切ったものだと思わざるを得ません。

しかし、このキャリアは小林一三本人にとっても、また関西社会にとっても、あるいは日本全体にとっても、素晴らしい僥倖だったと言わざるを得ません。というのも、もともとからアートの感性に恵まれていた小林一三が、のちに経営者として大成するためのサイエンスの計数感覚を、この銀行時代に身につけることができたからです。禍福は糾える縄の如し、ということですが、本人が「堪え難き憂鬱の時代」と述懐する銀行員時代もまた、のちの大経営者、小林一三を生み出すための欠くべからざるレシピだった、ということになります。

話を戻しましょう。弱小の鉄道会社の経営者になれば、当然ながら乗降客数の向上を当たり前に考えるわけですが、沿線の人口、つまり市場規模は自ずと決まっているわけで、意識は「顧客単価をいかに上げるか」に集中することになります。事実、当時の鉄道経営者はことごとくこの論点に思考をフォーカスさせていたわけですが、ここで小林一三はまったく別の論点を設定し、とてつもないアイデアをひねり出します。

それはつまり、沿線の土地を買い占めてそこに住宅を建て、これを当時は着物の売買でしか用いられていなかった「月賦」、つまりローンによって販売することで、当時勃興しつつあった「中間大衆層」を沿線住民として呼び込み、沿線の人口を爆発的に増大させる、というアイデアでした。つまり「顧客単価を上げる」よりも、まずは沿線の持つ「経済圏の価値」を拡大させようとしたわけです。十年以上を銀行の事務職で過ごしてきた人間が、よくもまあこんな素っ頓狂なアイデアを思いついたものです。

おそらく、当時の鉄道のプロの目には、鉄道事業に乗り出したものの、鉄道そのものには目を向けず、しきりに沿線の野原を歩き回り、土地を買いまくって、住宅工務店や金融機関との提携に奔走している小林一三は、きっと不可解を通り越した哀れな存在と映ったことでしょう。

しかし、結果的にこのビジネスモデルは大当たりし、乗降客数はうなぎ上りの上昇していくことになり、箕面有馬電気軌道の企業価値もまた爆発的に上昇していくことになります。話はここで止まりません。鉄道事業が軌道に乗った段階で次に小林一三が目を着けたのが「百貨店」でした。この件については興味深いエピソードがあります。

三井銀行時代から百貨店事業に関心を持っていた小林一三は、鉄道事業が軌道に乗った段階で、鉄道のターミナルビルを百貨店にするというアイデアを、当時の松屋呉服店の経営者に相談したところ「絶対にうまくいかないから止めろ」とアドバイスされた、というのですね。曰く「百貨店事業は極めて特殊でシロウトが手を出してうまくいくようなものではない。君も経営者として成功したのだから晩節を汚すようなことはせず、鉄道に専念した方が良い」というものでした。

その理由について、小林一三は「一々ごもっとも」と感じたようですが、結果的にこのアドバイスを無視します。理由は、当時の百貨店が集客のために莫大な金額を投資していたからです。当時の百貨店は、顧客のために送迎のタクシーを無料で手配していました。また、集客のためのイベントや広告も積極的に展開していました。これらは全て「百貨店に来てもらう」ための費用として使われていたわけですが、なぜそんなことをやっても事業が成り立つのか。小林一三の出した答えは非常にシンプルでした。「儲けがそれだけ大きいのだな」。

さて、翻って考えてみれば、鉄道のターミナルビルには集客の必要がありません。三越や松屋にやってくる顧客数以上の客が、毎日乗降客としてやってくるのです。ということは既存の百貨店が行なっている集客のための投資が丸々必要なくなる、ということになります。この投資分を顧客に還元し、手頃な値段で買えるようにすれば、いかなシロウトの商売といえども勝機はある、というのが小林一三の見立てでした。果たせるかな、結果はご存知の通り、このビジネスモデルは大当たりし、鉄道駅ターミナルビルを用いた百貨店・流通ビジネスは、他の多くの企業に模倣されることになります。

さらに加えれば、土日・休日の乗降客数を確保するための娯楽として宝塚歌劇団や東宝を設立し、さらには乗降客数の激減する夏場のお盆の時期に、逆に旅客数を爆発的に増大させるためのアイデアとして、全国の高校野球が一堂に会して雌雄を決するという夏場の大イベント=全国高校野球選手権を構想するなど、とにかく「鉄道」という事業がもたらす外部経済性を徹底的に活用することをやったわけです。

さて、ここまで読まれて気づいたでしょうか?それはつまり「モノ」を作ることで大きな富を生み出した日本の名経営者の多くと異なり、小林一三はその生涯を通じて、一度も「モノ」を作らず、ひたすらに「コト」を生み出して事業を想像してきた、ということです。イノベーター型の経営者がハバを利かせる日本において、小林一三は珍しいプロデューサー型の経営者なのです。そして、この「モノからコト」へ「役に立つから意味がある」への転換は、まさにこれからの日本が目指さなければならない方向です。

ではそれがなぜ可能だったのか?端的にいえば、小林一三には「実現したい生活文化があった」というコトです。それは、風光明媚な田園地帯に居住し、休日には歌劇や映画を楽しんで、百貨店で買い物をして家族で夕食を食べて楽しむ、という生活文化です。その生活文化の全体構想があったからこそ、小林一三は「一鉄道事業の経営者」という枠組みを超えた巨大な存在になりえたのです。

モノは文明に、コトは文化に連なります。モノを提供して生活を豊かで安楽にするという「文明化」によって、日本企業の多くは発展したわけですが、これ以上の「便利さ」「安楽さ」が求められていない状況において、相も変わらずに「モノによる文明化」を目指しても大きな富が生まれるコトはありません。今こそ「より豊かな生活文化」を構想し、それを大きな富の創造に繋げた小林一三のようなアントレプレナーが待たれる時代なのではないでしょうか。

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