なぜ「逃げる」ことが大事なのか?

己が分を知りて、及ばざる時は速やかに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己が誤りなり。

兼好法師「徒然草」

「痛み」はなぜあるのか?

痛みという感覚を好ましいと思う人はあまりいません。しかし、であるにも関わらず、私たち人間をはじめとした霊長類がこの感覚を備えている理由はなぜなのでしょうか。生物は、進化のかなり早い段階で「痛み」という感覚を備えるようになったことが知られています[1]。

これはつまり、生物の進化という過程において「痛み」という感覚を持っていることが、個体の生存・繁殖に関して有利に働いたということです。この示唆を上下にひっくり返してみれば、痛みの感覚に鈍くなるということは、その生物の生存・繁殖にリスクをもたらすということになります。

さて、一般に日本では「痛み」に代表されるネガティブな感覚・感情に対して「我慢する」ことが美徳だと考えられていますね。深刻な事故が相次いでいるにも関わらず、なぜか一向に廃止される気配のない小学校の組体操に関する指示書を先日読ませてもらったのですが、デカデカと「痛いのはみんな同じ、弱音をはかない」などとトンデモナイことが書いてある[2]。

このようなことを平気でいう人は、なぜ生物が「痛み」という感覚を進化の過程で持つに至ったのかということを今一度考えてみてはいかがでしょうか。

「痛み」を感じない人は長生きできない

世の中には「痛みを感じない」という人がいます。これはもちろん「我慢強い」という意味ではなく、疾患として「痛覚の神経を持たない」という意味です。そして、とても気の毒なことですが、このような疾患の持ち主は長生きできない、統計的に短命であることが知られています。

普通の人なら痛いと感じるようなことでも平気でやってしまい、火傷したり骨折したり脱臼したりしているのにそれに気づかない。痛覚がないのですから当たり前です。

仕方がないので、なにが危険なのかを「知識」として与え、気をつけるように注意する、何かに触れたら怪我をしていないかをチェックするといったことを指導するわけですが、現実にはそこまでやったとしても長命は望めないことがわかっています。

立っているときに足が痛いので少し体重を移動する、あるいは寝ているあいだに背中が痛いから寝返りをうつ、といったことすら「痛みの感覚」がないとできず、知らず知らずの間に普通の人なら当たり前に避けられる過度な負担を身体にかけてしまうのです。

これを逆にいえば、私たちは普段、きわめて巧妙かつ無意識のうちに「痛み」を避けており、それが健康の維持に重大な影響を与えている、ということです。

どんなに知識として「なにが危ないのか」を理解させ、適応させようとしても、普通に「痛み」を感じる人ほどには長生きすることはできない。この事実は非常に示唆深いと思います。「痛み」はとても大事なサインであり、生命にとって重大な危機のサインだということです。

「逃走」は生命維持のための最も有効な戦略

危機に直面した生物は「戦う」か「逃げる」かのどちらかの選択を瞬時にします。

では人間はどうかというと、多くの場合はこの二つのオプションを取るよりも「じっと耐える」「なんとか頑張る」という選択をします。多くの人間が採用するこの選択肢を選ぶ動物がいない理由はなんだと思いますか。

実に単純でそのような選択をした生物は絶滅してしまった、ということです。つまり、危機に際して「じっと耐える」とか「我慢してやり過ごす」というのは、個体の生存という観点からは非常に不利な「悪いオプション」だということです。

私たち日本人は幼少期から「逃げてはいけない」という規範を叩き込まれます。しかし考えてみれば、生物の生存戦略として最も広範囲に用いられている戦略が、人間の世界において厳しく戒められているというのもおかしな話です。

なぜ、私たちは「逃げる」ということをネガティブに考えてしまうのでしょうか。このような規範が社会的に淘汰されずに今だに残存しているということは、「逃げない」という規範に社会システムを効率的に機能させる合理性があったということでしょう。

なぜ「逃げないこと」が礼賛されるようになったのか?

理由は二つあると思います。

一つ目の理由は「逃げる人」が出てくると、自分の選択に自信が持てなくなるからです。これは転職の局面を考えてみればわかりやすい。同期入社の中から転職者が出てくると「自分もこのままでいいのか」という一抹の不安にとらわれることになります。この不安を払拭するためには「逃げる」ことを戒めるというのが一つ目の理由です。

二つ目の理由は、逃げる人が出てくると他の人の負担が増えるからです。コミュニティを維持するためには何らかのルーチンワークが必要になります。この仕事をコミュニティの構成員で割り振って分担することになるわけですが、ここで逃げる人が出てきてしまうと他の人が逃げた人の仕事を肩代わりしなければなりません。これはコミュニティのメンバーにとっては大きな負担になります。なので「逃げてはいけない」ということが規範化されるわけです。

確かに、ある場所から逃げれば、そこで担っていた役割は他の誰かに肩代わりしてもらうことになります。これを心苦しく感じて「逃げてはいけない」と考えて頑張り続けてしまう人が多いのでしょうが、その結果として心身を壊してしまっては元も子もありません。上手に「逃げる」ことは戦うも上で極めて重要な能力になります。

「逃げる」は最高の戦略

これが最も端的に現れるのが軍事における「撤退」の局面です。例えば疑心南北朝時代に編まれた有名な兵法書「兵法三十六計」の最後には「走為上=走るを上と為せ」という項目があります。

これはつまり「逃走は最善の策である」という意味です。有名な孫子の兵法にも同様のメッセージがあって、つまり「勝ち目がないとわかった時には損失を最小化するために迅速に撤退する」のは戦略的に極めて正しいということです。

一方で、これをなかなかできずに国を滅亡の寸前まで追い込んでしまったのが旧日本軍のエリート軍人達でした。太平洋戦争の戦死者はおよそ300万人と推計されていますが、死者の多くは最後の一年に出ています。

これは一般人の犠牲者についても同様で、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下などはすべて1945年3月以降のことです。1942年のミッドウェー海戦で主力空母を四隻失った時点で講和をしていれば、あそこまで大きな犠牲は出さずに済んだはずです。これもまた「逃げる」ことが上手にできなかったことで生まれた悲劇ということができます。

パラノとスキゾ

特に現代のようなVUCAで先読みの難しい社会では、多くの人が人生のどこかで「逃げる」というオプションを取らざるを得ない局面がやってくると思われます。思想家・評論家の浅田彰は著書「逃走論」の中で、フランスの思想家ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著による「アンチオイディプス」のなかで用いられた「パラノ」と「スキゾ」という概念を援用しながら、不確実性の高い世界において「逃げる」というオプションを持っていることの重要性について次のように指摘しています。

さて、もっとも基本的なパラノ型の行動といえば、《住む》ってことだろう。一家をかまえ、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財をうずたかく蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子供の尻をたたいて、一家の発展をめざす。このゲームは途中でおりたら負けだ。《やめられない、とまらない》でもって、どうしてもパラノ型になっちゃうワケね。これはビョーキなんだけど、近代文明というものはまさしくこうしたパラノ・ドライヴによってここまで成長してきたのだった。そしてまた、成長が続いている限りは、楽じゃないといってもそれなりに安定していられる、というワケ。ところが、事態が急変したりすると、パラノ型ってのは弱いんだなァ。ヘタをすると、砦にたてこもって奮戦したあげく玉砕、なんてことにもなりかねない。ここで《住むヒト》にかわって登場するのが《逃げるヒト》なのだ。コイツは何かあったら逃げる。ふみとどまったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。家財をためこんだり、家長として妻子に君臨したりはしてられないから、そのつどありあわせのもので用を足し、子種も適当にバラまいておいてあとは運まかせ。たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ。とくると、これはまさしくスキゾ型、というワケね。

浅田彰「逃走論 スキゾキッズの冒険」

 浅田彰の指摘には二つのポイントがあります。

一つは「パラノ型は環境変化に弱い」という指摘です。この点については本書でもすでに指摘した通り、現在、企業や事業の寿命はどんどん短くなっています。この状況を個人のアイデンティティ形成と紐づけて考えてみるとどうなるか。職業というのはアイデンティティ形成の最も重要な要素ですから、一つのアイデンティティに縛られるということは、一つの職業に縛られるということになります。

一方で、会社や事業の寿命はどんどん短くなっている。この二つを掛け合わせて得られる結論は、すなわち「アイデンティティに固執するのは危険である」ということです。堀江貴文氏は近著「多動力」において「コツコツやる時代は終わり」「飽きたらすぐ止めろ」と訴えていますが、これも「パラノ」より「スキゾ」が大事だという指摘として読み替えることもできます。

私たちは「一貫性がある」「ブレない」「この道ン十年」みたいなことを、手放しで賞賛するおめでたいところがありますが、しかし、そのような価値観に縛られて、自分のアイデンティティをパラノ的に固持しようとすることは自殺行為になりかねません。

「逃げる」ことの重要性

浅田彰が指摘するポイントの二つ目が「逃げる」という点です。浅田彰は「パラノ型」を「住むヒト」と定義した上で、「スキゾ型」を「逃げるヒト」と定義している。「住むヒト」に対置させるのであれば、「移住するヒト」とか「移動するヒト」という定義の仕方もあるのに、そうはせずに「逃げるヒト」という定義を用いている。

ここは非常に鋭いと思います。「逃げる」というのは、別に明確な行き先が決まっていなくとも、とにもかくにも「ここから逃げる」ということです。このニュアンス、つまり「必ずしも行き先がはっきりしている訳ではないんだけど、ここはヤバそうだからとにかく動こう」というマインドセットが、スキゾ型だと言っているわけですね。

よくキャリア論の世界では「自分が何をやりたいか、何が得意なのかを考えろ」とよく言われます。この点はすでに拙著「仕事選びのアートとサイエンス」にも指摘したことですが、私はこんなことを考えるのはほとんど無意味だと思っていて、結局のところ、仕事は実際にやってみないと「面白いか、得意か」はわかりません。「何がしたいのか?」などとモジモジ考えていたら、偶然にやってきたはずのチャンスすら逃してしまうでしょう。

行き先などは決めていないままに、「どうもヤバそうだ」と思ったらさっさと逃げる、というのがニュータイプの行動様式になる、ということです。もっと目を凝らし、耳をすまして周りで何が起きているのかを見極める。先に挙げた浅田彰の抜粋では「たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に関する勘、それだけだ」とありますが、これは筆者が前著「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」において、「積み上げ型の論理思考よりも、大胆な直感が大事だ」と指摘したのと、同じことです。

周囲が「まだ大丈夫」と言っていても、「危ない!」と直感したらすぐに逃げる。ここで重要になってくるのが「危ないと感じるアンテナの感度」と、「逃げる決断をするための勇気」ということになります。往々にして勘違いされていますが、「逃げる」のは「勇気がない」からではありません、逆に「勇気がある」からこそ逃げられるんですね。

「どんどん逃げる」ことで社会が良くなる

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