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最強の庄田さんのお笑いは「作者を持たない」

最強の庄田さんがユニークであるのは、彼のお笑いが制作の観点から生まれるものではないという点に集約できるかもしれない。

制作の観点から生まれるお笑いというのは、たとえば漫才・コント・テレビ番組に一般的に見られるような、作り手があらかじめイメージした通りに進行するお笑いのことである。

制作が作者が前もって知覚しているイメージやモデルに沿って進められるのに対し、彼のお笑いはその意味が完全に明らかになるのは、ようやくその活動が終わってからである。つまり、彼のお笑いは後ろから眺めた場合に完成するものであって、それは「作者を持たない」からである。

これは、たとえば、ギターをかき鳴らす男の登場は、彼がほふく前進を開始した段階では全く予想できなかったし、砂浜で背負い投げされ始めた段階ではそれが感動作品になるとは誰も想定していなかったことを思い出せばわかりやすい。彼はお笑いを前もって用意しようとはせず、ただ何か新しいことを始めることによって奇跡を呼び込んでいく。

Youtubeにおける彼のスタイルは、制作の観点からお笑いを眺めようとする人間(つまり、笑いは作り上げるものであるという確信を持つ人々)には決して真似できないものとなっている。ちなみに、昨今の芸人がお笑いを制作の観点から眺める傾向にあるのはおそらく二つの要因がある。まずは、賞レースに高い尊厳が与えられていること。次に、芸人が学歴を持ったことで頭でっかちになってきたこと。

さらに、テレビ局も制作を好んでいる。彼らが制作を好み、プリズンクイズチャンネル的な笑いを好まないのは、単に、制作の方が信頼できるからである。つまり、制作は作者があらかじめ結果を決めているため事前に面白さが保証される。しかし、これは逆に考えた場合、面白さに上限を作ることにもなってしまう。ここで最強の庄田さんの場合を考えると、彼のお笑いは「作者を持たない」ので、事前に面白さを保証することはできないが結果に上限も持たない。0か100かというのはこのような構造による。

なるほどたしかに笑いをコントロール可能とするために制作の観点は重要なのだろう。

しかし、実をいえば、この救済手段は笑いの本質そのものを破壊してしまうとピーマンは思う。

お笑いを制作しようとする人間の根源にあるものは恐怖である。彼らは自分自身の生身の面白さにいまいち自信が持てないためお笑いを作品化しようとする。これと違って、最強の庄田さんの場合は作品ではなく「人間の作品」である。つまり、彼のお笑いはwhatではなく常にwhoであり、俗っぽくいえばニンがある。ちなみにニンという言葉が感覚的な表現と思われているのは、ニンが「ニンとは~である」と断定的に定義づけられるものではなく、「ニンとは~ではなく~でもなく」というふうに否定的に定義づけられる言葉であるからに他ならない。それはそもそもニンがwhatではなくwhoであるという単純な理由によるものだ。

特に、最強の庄田さんはニンのかたまりみたいな人だ(彼はwhoだ)。whatの観点から見た場合、彼は空っぽに見えるが、彼の空っぽはwhoの観点から見れば一つの到達である。気球がその中の重りを投げ下ろすことで上昇していくみたいに、最強の庄田さんは積み減らすことでwhoを研ぎ澄ましているのだ。

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