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沖縄・嘉手納 B52墜落事故から50年 沖縄の置かれている状況は何もかわっていない

嘉手納飛行場B52戦略爆撃機墜落・爆発事故

 昭和43年(1968)11月19日午前4時18分、沖縄・嘉手納飛行場でベトナム爆撃に出撃する米空軍B52戦略爆撃機が離陸に失敗し墜落した。さらに搭載していた大量の爆弾が爆発を続け、キノコ雲が発生した。犠牲者こそ出なかったものの、爆風により周辺住民や民家にも被害を出すなどした他、事故は付近住民はもちろん、沖縄県民を恐怖に震え上がらせた。

[B52墜落事故現場の様子(読谷バーチャル平和資料館)]

ベトナム戦争とB52

 当時、B52は嘉手納飛行場からベトナムに向けて出撃、かの地で空襲を繰り返し、多くの人命を奪っていた。そのため周辺住民は、嘉手納一帯に響き渡ったB52の墜落・爆発による爆音、あるいは爆風や地響きから、「ベトナム戦争の報復攻撃がおこなわれた」と思ったという。さらに立ち上るキノコ雲から、核戦争の開始を思ったそうだ。
 事故と反戦への思いから、これを機にB52の撤退や米軍基地の撤去を求める運動が展開され、米軍施政下から脱却を目指す声も高まり、ゼネストなども企図された。
 このころ、B52はベトナム戦争のみならず、核兵器搭載中のB52の墜落やB52からの核兵器の落下などの事故も世界各地で頻発していた。そして発生した嘉手納飛行場におけるB52の墜落・爆発事故。沖縄の人々の恐怖と怒りは当然のものであった。

[B52撤退を求めるゼネスト(沖縄タイムス社『写真記録沖縄戦後史』)]

日米密約とB52

 こうした沖縄の人々の運動の成果もあり、昭和45年(1970)以降、B52はタイに移転することとなった。日本政府は今後のB52の沖縄への飛来を否定するが、実際は日米両政府が沖縄復帰後のB52の沖縄飛来を容認する「密約」を交わしていた。
 また沖縄では、伊江島での核兵器の低高度爆撃訓練中における模擬核兵器誤射事件や、那覇での核ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」の誤射事故なども発生しており、いつ沖縄で核爆発や放射能汚染が発生しても不思議ではなく、いつか沖縄が核戦争に巻き込まれる可能性があったが、日米両政府は沖縄復帰後も有事においては沖縄へ核の持ち込みを認める「密約」を交わしていた。
 日米両政府は常に「密約」によって事態を隠ぺいし、沖縄の人々をだまし、沖縄に基地負担を押しつけてきたのである。

[沖縄返還以降の昭和47年(1972)10月、嘉手納飛行場に飛来した103機ものB52(沖縄県公文書館【資料コード:0000137481】)]

復帰後50件の米軍機墜落事故

 今月12日には、沖縄県大東諸島付近海域において、自衛隊と共同巡航訓練を行っていた米海軍機FA18戦闘攻撃機が墜落する事故が発生した。幸いにも2名の搭乗員は緊急脱出し命に別状はなく、民間人の犠牲者などもいなかったそうだが、一歩間違えれば大事故になっていた。
 沖縄復帰以降、米軍機の墜落事故は50件にものぼる。つまり沖縄では年に一度は米軍機が墜落している計算となるが、沖縄以外の日本の他の都道府県で、年に一度は米軍機が墜落しているような都道府県はあるのだろうか。沖縄の過重な基地負担がここにあらわれている。沖縄の置かれている状況は、本質として50年前のB52墜落・爆発事故当時とかわっていないのだ。
 日本政府は沖縄の基地負担軽減のため、地位協定の改定はもちろん、在沖米軍基地を大幅に縮小させ、事態の根本的な解決に向けて努力するべきだ。

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