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ノビコフ・プリヴォイ「バルチック艦隊の壊滅」→「ツシマ」
京急「横須賀中央」駅から徒歩15分、海に面した「三笠公園」に日本海海戦の旗艦「三笠」が据えられている。内部を見学すれば、とうじの士官室の様子や砲の艤装などがうかがえる。
1904・5年の日露戦争時、旅順周辺での陸海戦ののち日本海で日露の主力艦隊が対決し、日本側の圧倒的な勝利となった。
バルチック艦隊の一水兵だったノビコフの戦記は、当初「バルチック艦隊の壊滅」と邦訳されたが、のちに原書どおり「ツシマ」と改名される。
ノビコフの乗る戦艦「オリョール」を含む艦隊はバルト海を発したのち、主力はアフリカまわり、小艦艇はスエズまわりでマダガスカルに合流し、しばらく待機したのちインド洋を渡ってマラッカ海峡を抜け、日本を目指す。
とうじの船舶の燃料は石炭なので、船腹に大量に積み込まなければならなかった。三笠艦でも、船室との間1メートルほどのはば一杯に積み込んで、砲弾を受けた際には盾の役割を果たしたことが説明されている。
なにしろ地球をグルリとまわって来なければならないので、燃料のほかにも絶えず水や食料の補給が欠かせず、おまけに暑さにはめっぽう弱いロシア人にとって、高温の低緯度での航海の苦労はさぞかし大変だっただろう。
ロシアの水兵にはイギリス海軍と同じように毎日1カップのラム酒が配給されたのだが、士気が落ちるという理由で、指揮官は樽詰めのラム酒をぶちまけさせてしまう。甲板にはいつくばって海に流れ落ちるラム酒を啜る水兵の姿は滑稽ではあるが、最大の楽しみを奪われたかれらの士気ははたして・・
いっぽう帝国海軍は万全の態勢で日本海に待ち受けており、両者は対馬沖で決戦を迎えた。司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると、露側は一列縦隊、日本側はT字戦法をとって互いに砲撃しあうのだが、戦闘の状態がいまひとつわからない。
ノビコフの記述では、露側の砲撃は不正確ないっぽう日本側のは正確で、味方の艦艇がつぎつぎと沈められていった様子が描かれている。
敗北ののち、バルチック艦隊にわずかに残った艦艇は捕獲され、乗員たちは捕虜として日本各地の収容所で過ごすことになる。
日本の勝因は東郷平八郎(実際は参謀秋山真之)の作戦勝ちとされるのだろうが、露側の長い航海と指揮官に対する不満で疲弊しきった水兵の士気の低下が要因であることが読み取れるだろう。
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