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着物販売の歴史をたどる

1 着物の売れる場所はどこか?

歴史に関心をお持ちの方は、洛中洛外図などで反物を売る店があるのをご存知かと思います。江戸時代前期ですでに大規模な呉服商があった京都です。その販売のノウハウは他地域のそれをはるかに引き離しています。その中でも注目すべき販売方法は、非常に早くから行商及び出張販売があったということです。

では、着物はどこで売れるのでしょうか?

それは経済的な余裕のある場所、大きく金銭の動く場所です。

北海道を舞台にした「北見のおばば」松田鉄也著(昭和57年)という書籍では、主人公である菊池トメの生家・恵比寿屋呉服店の販売の様子が描かれています。店は鰊(にしん)漁で潤う岩内にあり、鰊が取れれば着物が売れるという図式でした。顧客の一人が高井助右衛門という親方です。親方は船を持ち、網を持ち、漁人や労務者を集めて鰊漁を取り仕切ってしています。

助右衛門は、今年も鰊が大漁になる予想のもと「今日は前祝に恵比寿屋にいって、女達に着物でも買ってやろう」と、思い立ちます。女達というのは、妻・娘の他に2名の妾です。その他に召使の女が4名います。恵比寿屋では店主と妻がそれぞれの着物を選び、「そのうち本人たちを寄越すから仕立屋を呼んで縫わせてくれ」と助右衛門は言い渡します。

こうした販売の様子が、明治から昭和まで、急激に豊かになった日本中の各地で見られました。「金が入りそうだから着物でも買ってやるか」と日本中の親方や社長さんが言い、呉服屋が儲かったのです。

その着物の出どころはどこでしょうか?関東にも桐生・足利などの産地はありますが、やはり柔らかものと言えば京呉服です。各地に京都の着物が多数流れ込んでいったに違いありません。

3 京都から地方へ着物を売りに

今でこそ流通が発達し、今日注文したものが明日届くのは当たり前になりましたが、各地に支店のある大手の呉服商以外は、個々の商人がかついで運ぶしかありませんでした。小売の呉服店に卸す場合もあり、各地域を回って商を行うこともありました。この販売方法は、太平洋戦争以降の昭和期にもあり、京都にはいわゆる「かつぎ屋」を生業としていた方が多かったのです。

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また、呉服卸業と現地の小売業者との関係も変わってきました。為替送金などの発達がその理由です。卸業者は小売に見本を送り、小売業者の持つ白生地を預かり、染めて納品する仕組みです。注文生産なので卸業者は在庫を抱えず、小売業者も白生地を売ることができ、加えて質の高い京都の染織品を顧客に提供できたのです。

これを「誂え京染め」と呼んでいた会社もありました。各地の呉服小売店の店先表示や看板の「京染」はこの名残ではないかと筆者は考えています。

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卸業者も出張先で何もしないということはありません。現地に赴いて流行を伝えたり、顧客と直接話をして販促を行っていました。昭和30年以降は会社組織になって社員をかかえる卸業者が増え、各地に社員を派遣していました。北海道ももちろん出張先でした。九州は原色、北海道は柄の大きいもの、と好みに差異があり、それに応じた見本を準備したそうです。地方の展示会は、京都で販売しにくい商品を売る良い機会でもありました。

この個人レベルでの流通と会社レベルでの流通については、これからも調査を続けたいと思います。

【参考文献】
北見のおばば 松井鐡也著 時事通信社 昭和57年
京の四季 : 洛中洛外図屏風の人びと(岩波グラフィックス, 32)林屋辰三郎著   岩波書店, 1985

【注釈】柔らかもの:手ざわりの柔らかな着物。ひいては紬やお召などの織りの着物と区別し、綸子や縮緬・錦紗などの素材のものを指す。

【注釈2】参考画像は「京の四季 : 洛中洛外図屏風の人びと」に掲載された洛中洛外図屏風にあるものです。一口に洛中洛外図と言っても、現存するものについては、戦国時代の1520年代後半とみられる町田本(国立歴史民俗博物館蔵)・1540年を中心とする模写本(東京国立博物館蔵}、そしてここに展開される上杉本(上杉隆憲氏所蔵)の3本が初期と考えられるものです。上杉本(上杉隆憲氏所蔵)は、最近の研究で、作者は狩野元信(1467-1559)の周辺で、景観からみた作品の下限は天文12-18年(1476-1559)と考えられるに至っています。図から15世紀頃の京の賑わいが伝わってきます。

(昭和きもの愛好会代表理事:似内惠子)

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