とあるお通夜の話

「場数を多く踏むべきではないのだけれど、まあ…言われなくても最低限のマナーくらいは知ってるよね?」

と、問われているようなライフイベント。それがきっと、「通夜」の正体。

私から見て親戚、親等でいうと1桁の人が亡くなり、その通夜へ参列した。



生まれてから30余年、私自身誰かの通夜に参列した回数も1桁だ。
いや、そこは多くても笑えないし、かといって少なすぎても、物を知らないなと思われる。実に微妙だ。

通夜も宗派や家々によってやり方が違うので、あくまでも私が感じたことを書く。

何時から通夜が始まるという時間の前に、遺族席側の参列者は、別室で食事をする。時間にして夕方5時半くらい。
どういう心境で食べればいいのだろう。ご飯をおかわりするくらい豪快に平らげるのも変だし、かといって残すのも何だかなと思い、結局全部食べた。

そもそもこの喪服というものも着慣れていない。着ているのではなく、着せられている感が満載だ。

トイレにて用を足し、手を洗っていると、別の親戚の人に会った。つい、
「こういう服って、着慣れてないんですよね」
と口にすると、
「着慣れない方がいいよ」
と返ってきた。ごもっともである。

遺族席と一般席とがあり、今回は遺族席。
何度も書くが、こちら側に座るのも数えるくらいだし、出来るなら少ない方がいい。

何食わぬ顔で座ってはいるが、実際は見様見真似である。

読経の時間は、どういう姿勢でいたらいいのか。目を閉じていても、眠っていると思われても心外だ。背筋だけは伸ばして座っていた。

焼香。
「ここの家は○○(宗派)です。そこではこうこうこういう作法ですが、参列者それぞれのやり方で構いません」
というアナウンスがあったのも印象的。
前に座っている人のやり方をこっそり真似てみようと思っていたが、端に座っていたので、まさかの私が最初だった。見様見真似で。

その人が亡くなってから通夜までの時間は決して長くなかった。
か、さすがなもので、形式に沿って通夜は粛々と進められた。お坊さんの話であり、故人の簡単な経歴の紹介であり。

遺影の前で親族の集合写真、というものもあった。

通夜が終わり、一般参列者の見送りが終わると、ついさっきまで悲しみに溢れていた場には長テーブルと椅子、そして食べ物・飲み物・酒類が運ばれてきた。ここで食事か。あくまでも、ついさっきまで悲しみに溢れていた場である。
まあ、これはこういうものなんだと思い、運ばれてきたものを戴く。

このあと、こちらに残れる人は翌朝までこちらに泊まり、翌日の告別式・出棺という流れになるのだが、時間の関係上、私達家族は先に帰らせていただいた。

と、通夜一つとっても、知らないことばかりだった。
いや、知らない方がいいのかもしれないが、「そんなことも知らないの?」と思われるのも心外。といったライフイベント、それが通夜なのかもしれない。

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