【水は低地で澱みます 4】Cちゃんのチマチョゴリ
「こんにちは」の挨拶に苦々しそうな目線を向けてくる大人。その大人の横で、チマチョゴリを着たCちゃんは少し困った笑顔で小さく手を振ってくれる。
日曜日になると、大人たちと連れ立って歩くCちゃんに遭遇することがしばしばあった。在日の多い地区ではあったが、チマチョゴリを着てる子供を見かけるのは日曜日のCちゃん一行ぐらいだ。
小学校1~2年、Cちゃんと同じクラスだった。そのころ私はまだ日本語が下手くそで髪も天然パーマ。「私は馬鹿で髪がもじゃもじゃで顔が化け物のようにグチャグチャだから嫌われるのだ」と思い込むようになるほどのひどいイジメにあっていた。イジメる側の中心は在日と同和の子たちで、日教組教師たちは当然助けてくれない。それどころか加担さえする。
そんな中、Cちゃんだけが誰に対しても「やめぇや!」と私へのイジメに抗議していた。ある時などは「先生はおかしい。いつもイジメだめって言ってるのになんで!なんでほっとくんですか!」と小さな体をふるわせて担任の教師に噛みついた。私はその真横に座って、立ち上がった彼女の顔を綺麗だなあと見上げるだけだった。
クラスにはヒエラルキーが出来ていた。女子のボスは在日の子。男子のは同和の中で比較的成功した家の子。その取り巻きもほとんどが在日か同和の家の子だ。最下層には、同和でも在日でもない私がいた。
どの子供が「同和」や「在日」の家の子だとなぜわかったのか。それは、被差別教育に熱心だった担任が普通の授業を潰してまで行っていた同和教育の時間に起きた珍事のおかげだ。
同和と在日を持ち上げ、そうではない日本人を極悪人のように下げる内容の話を重ねられ、素直な子供たちは同和や在日であることを誇らしく思ったのだろう。クラスのお調子者が「同和(部落)のやつ手ぇあげて。ハーイ」とやった。続けて、どういう言い方をしたか正確には覚えてないが在日についても同様のことをした。(「家がチョーセンのやつ手ぇあげて」という言い方だったような気もする)。実にクラスの半数以上が同和もしくは在日の子であり、私は自分をいじめている中心グループの連中が全員そうであるのを素早く確認した。動揺する教師の表情も見逃さなかった。
在日の子であるCちゃんは、聡明な顔の通りの子供で、勉強も運動も何でも2~3番手でできる。彼女が一言物申せば、日頃は女子の言うことを聞かない男子軍団でさえも「なんやねんうるさいなあ」と渋々さがる。他に容姿・勉強・運動神経と三拍子トップで揃った女子がいたのだが、一目置かれていたのはCちゃんであった。
3年生になるとCちゃんとは別のクラスになった。廊下で会うと少し立ち話をして、必ず「大丈夫?いやがらせされてへん?」と私を心配してくれた。「Cちゃんのご両親は日本人が嫌い」という話をうちの母が他の子の親から聞いてきたのはその頃だ。「だから日曜日に会っても向こうのお父さん嫌そうな顔してるんやね」と母と二人で納得したが、真相はわからない。
Cちゃんの父親がその地区の在日コミュニティーでは力のある人物だというのを知ったのは、もう私がイジメられることの無くなった高学年になってからだ。その頃になると私はイジメられっ子から一転、男子に混ぜても上位3人に入るほど喧嘩の強い悪ガキに変貌。Cちゃんからは私を避けたい雰囲気が出ており、会っても軽く挨拶するだけになってしまった。心の中ではCちゃんに何かあれば全力で戦うと誓っていたのだが、その機会もないまま卒業、今に至っている。
私は強烈に「嫌朝鮮半島」な人間である。在日の子たちにイジメられた経験上「嫌在日」でもあるのが正直なところだ。それにも関わらず、在日の人たちが自らのルーツを大事にすることそれ自体には何ら嫌悪はなく、チマチョゴリを着ている姿を見ると柔らかな気分にさえなれるのは、「在日の子」Cちゃんの存在ただ一つのおかげである。
現在の私は仕事柄、人に生活保護を受けることを勧めることがある。私の思想信条とは切り離して、在日の人にも必要とあらば強く勧める。そんなとき、脳裏に必ず綺麗な色のチョゴリを着て歩く子供が現れる。私の精神の一部になっている彼女がどこかで幸せに暮らしていることを願ってやまない。