鷲田清一「聴く」ことの力ー臨床哲学試論|No.444

ここでふと思いだすのが、詩人の佐々木幹郎がかつてわたしに語ってくれたことばだ。東京駅近くの古いホテルのバーで会ったとき、たまたま「棄てられる」経験の話になった。ひとりの女性をめぐる三角関係のなかで、ついに女に選ばれなかった男の経験のことである。このときこの詩人は、「噛みきれない論理」ということばを口にした。ひととひとのあいだのことで、噛みきれる論理をじぶんは信用しない、「棄てる」側ではなく「棄てられる」側の、噛んでも噛んでも噛みきれない論理しか信用しないというのである。噛みきれること、それは「割る」といいかえてもいいだろう。理(ことわり=言割り、それも精密に精密に分析すること、それがその限界にぶち当たったその場所ではじめて、ほんとうの意味で「かんがふ」ことがはじまる、とわたしはこの詩人のことばを受けとめた。このことからも、考えの内容でなく「かんがふ」ことばそのもの、雑巾を捩じるようにして絞りだされたそのことばが、ある種の手ざわり、ある種の重量をもつことが見てとれるようにおもう。
鷲田清一 「聴く」ことの力ー臨床哲学試論


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