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崇高な"クレド"を掲げる友人へ

本日は中学の頃からの友人の演奏会であった。彼のオーケストラの演奏会にはこれまでにも何回か足を運んだ。僕は音楽に関しては全くの無知ではあるが、自分が見たり聴いたりしたものを、感覚的に抽象的な表現で言語化することは比較的得意である。もちろん、それぞれの楽曲には主題があり、作者の込めたメッセージが含まれているが、純粋に感じたことを簡単に述べようと思う。

1曲目はシベリウスという作曲家の作った曲が演奏された。日本的な旋律と西洋的な旋律が混在していることが印象的であった。西洋の文化ならではの音を感じる一方で、日本的な馴染みのある音も感じられた。後半のバイオリンの演奏の仕方は、日本の琴を連想させる。響き方は全く異なるが、曲の流れに新しいリズムを加える効果があるように感じた。なぜ曲を聴いて一部を「西洋的」あるいは「日本的」と区別できるかは、いささか自分の感性を疑ってはいる。なぜならそれは、曲とは何の関係もない情報を脳がリンクさせて認識している可能性があるからだ。今回の演奏を聴いていて、なおさらそう思った。特に過去に見た映画やドラマの、映像と音楽の影響力は大きい。

2曲目はチャイコフスキーの曲が演奏された。それぞれの楽章である言葉が頭の中に浮かんだ。第1楽章では、「母なる大地」と「自然」というイメージが強く残った。バイオリンの強くそして重層な音が大地の動きを表現する地鳴りに聴こえ、天変地異を連想させた。天変地異が起こって更地と化した大地に、新しい自然の命が芽吹くというイメージが湧いた。第2楽章は、ただただ「優雅」な印象であった。いかにも陽気で明るいエレガントな雰囲気である。第3楽章は「冒険」という言葉が浮かんだ。様々な困難に直面しながらクライマックスを迎える、そんな印象である。第4楽章はまさに悲愴感が漂っていた。暗闇の中で一筋の光が閉ざされていくような曲の最後が印象的である。

以上、簡単ではあるが感じたことを素直に文章化した。演奏中は出来得る限り音楽に集中しようと試みるものの、なかなか難しい。会場で音楽を聴くことは、それ以外の場所でイヤホンを通して曲を聴くこととは全く異なる。会場ではその曲の波動および周波数を全身で感じる。「聴く」という感覚ではない。したがってすべての時間で集中しようとするとかなり大変だ。むしろ、感じるままに身を委ねる方が良いのかもしれない。

いずれにしろ、上記の文章は、長い曲での特定の一部分を身体で感じた時に浮かんだ言葉に過ぎない。したがって、その楽曲全体について示しているのではないことは明記しておこう。これはあくまで僕が印象に残った部分を言語化しただけの文章である。

2021年8月15日

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