通勤電車



自らを正しく目的地に輸送する方法が分かった後は余白。

内側について考え始める。



私は通勤電車の無害な構成要素でありたい。

この秩序がどこまでも続きますようにと思う。できれば、私のたどりついたことのない終点まで。それまで、どうか誰も死にませんようにと思う。

たとえば誰かがこの鉄の箱に飛び込んだりすると、箱をうごかす人や箱にのっている人たちが一生懸命築いている、混沌の中の正常は、容易く崩壊する。

どうか正常を崩さないで。

それは液晶に浮かぶ記号のような死であって、誰の心にも引っかからずに、正常が復帰した段階で忘れられる。その人は社会の中で2度死ぬ。1度目は電車にぶつかって、2度目は電光掲示板の類から消滅して。そんな悲しいことがありませんようにと私は時々この件を思い出して真顔で祈る。

手は合わせない。ただ自分の前にあてがわれたつり革を掴んでいる。



内側について考える方法はあれこれあるのだけど、大多数の人が実践しているのは音楽。

通勤に慣れないころは、なるべく外部から正しい情報を得ようと、視覚、聴覚を鋭敏にしていた。しばらくすると、多少の混沌があっても、視覚からの情報があれば、自分が下りるべき駅、つまりこの景色が現れるとつぎの駅で降りなければならないということがわかってくるので、

その間、聴覚は宙ぶらりんになる。

それで、持て余した聴覚を好きな音楽で埋めて慰めている。

内側について考えるのに、音楽のジャンルはあまり関係ない。

ただ自分だけに聞こえているという事実が大切である。



いつも注意深く音楽プレイヤーの音量を気にしているのは、音漏れしている人というラベルを周囲に勝手に貼られたくないから。

他人と不可避的に共有する朝の数分、急速に忘れていくその誰かの人生の中であったとしても、音漏れしている人、という安い記号を、自分の意図しないままに付与されて出演することは避けたい。

内側が漏れている、というのは、ただならぬ恥ずかしさだと思う。

おそらく、好きで音を漏らしている人はそんなにおらず、ただその人にとって心地よいとされる音量がイヤホンの許容範囲を飛び越えてしまったというだけなのだけど、ほかのマナー違反の類よりも、本人がこの漏らしに無自覚であることが多いのが、事態をさらにややこしくしている。

善意のお漏らしである。

誰だってできるだけ心地よい匿名性の中にいたいはずで、マナーはその匿名性を守るためにも存在するのだ。



「思考を再定義してください。」

ときどき、失敗したグーグル翻訳のような言葉が脳内に響く。思考の再定義。立ち止まったまま進む世界。位置エネルギーの暴走。

電車は駅を進むごとに多くの乗客を飲み込んでゆき、乗換駅手前の車内は、この密度の外側に一刻も早く出たいという人々の静かな熱気ではち切れそうになる。私もその静かな熱気の一部となる。

乗換先の電車めがけて突進してゆく人々の足はしなやかで、柳より強く鉄より脆く、自由なように見えて不自由だ。


今日も私は内側のことを考えながら、目的地へ的確に輸送される。

明日も正常の誤差の範囲内を縫って、予定どおりの朝を予定どおり迎えられますように。



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