劣性の遺伝子くん


「僕は、劣性の遺伝子くん。自分でくん付けするのもどうかと思うが、単に『劣性の遺伝子』だけでは、なんだか教科書に出てきそうな堅苦しい感じがするので、自分でそう呼ぶことにしている。僕はさまざまな情報を持ったうちのひとつで、きみの思考の一部を、内側から請け負っている」


体内にもて余したエネルギーがふとしたはずみで外側に発露しそうになるとき、遺伝子くんはわたしに語りかけてくる。

「ああ、きみは今日も自分をよりよく見せようと、手入れし易いだけでお洒落とも思わない洋服で着飾って、ランチで特に食べたくないものを思い通りでないスピードで食べて、同僚の着地点を見失った話に適当な複数のパターンの相槌を打って、さも会話をしている風、目の前の人の話を聞いている風を醸し出しているけれど、じっさいは昨日見た淫夢について考えているな。


そもそもだいたいきみがそうであるように、他人だってきみのことを大して見ていない。
たとえば今日の昼、スカートにうっかり牛乳をこぼしてできたしみのことをさっきから気にしているようだけど、そんなの一番気にしてるのはきみだけだ。きみにとっての些細な不幸は社会にとっては何の効用もない。生産性もない。考えるだけ無駄だと思わないか?

自己とか他人とか、内側とか外側とか、そういう難しいこと考えなくていいんだよ。人間は相互に関係しているんだ。きみが見ている内側は、他人から見た外だ。それぞれは膜のように個々の間に存在していて、双方向性があって…」


さっきまでぶつぶつと聞こえていた遺伝子くんの声が、わたしを尋ねる電話のコールで、ふと遠ざかる。よそいきのトーンにチューニングされた声が、喉から勝手に出る。

宙を泳いでいた視点が目の前のPCのデスクトップに合って、乱雑に起動されたままの複数のアプリケーションたちが、スクリーン上に折り重なってこちらを見ていた。こなさなければならない今日のタスクを思い出す。
仕事には簡単に優先順位がつく。順番に消化して、じっと社会で機能し続ける、よどみない歯車となる。

磨耗してゆく日々のなかで、遺伝子くんの声は、いつか聞こえなくなるのだろうか。
それはそれで、少しさみしい。


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