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やすみの日のこと

仕事が忙しいと、日夜労働に明け暮れる平日のぶんの楽しみを、思い切り休日にぶつける、という過ごし方をするようになる。

今年のGW、私は地元である大分には帰らなかった。
あと1年という期限付きの東京生活のなかで、これから起きる出来事全てが、最後の◯◯、という意味をもって、押し寄せる。

最後のGWの前半は、大分から母が遊びに来て、私はあらかじめ予約しておいた飛びきりの宿と、旅行雑誌から断片的にかき集めた情報を頼りに、比較的混雑を避けた完璧なプランニングのもと、母を全力でもてなした。
ロマンスカーでたどり着いた箱根湯本の街並み、彫刻の森美術館のステンドグラスの美しさ、登山鉄道とケーブルカーとロープウェイ、海賊船で向かった芦ノ湖、どれもが非日常を感じさせてくれて、心がときめいた。

SNSには同世代の結婚した子たちが自分の子供の遊んでいる様子をアップしている一方で、27歳になった自分が、母親と心から童心に返って遊んでいることが我ながら滑稽に思われた。

誰かの母親という属性をもつことがない限り、どれだけ年を重ねても、自分が親の子である、という自分のなかの子ども属性のようなものは、変わらず在り続けるのかもしれない。

誰かの子を生み育てる、というプロセスが、今はなんだかとてつもない試練のように感じている。(今はそれを義務のようには感じていないけれど)

思い切り観光にシフトした前半に比べて、後半の4連休は比較的ゆっくり過ごすつもりでいたのだけど、あらかじめしておいた約束や直前に決まった約束が重なって、結局後半も、ずっとどこかに出かけていた。
普段会わない人に会い、色々な話を聞いた。
銀座のカフェパウリスタでコーヒーを飲み、新宿で観たかった映画を観て(レディプレイヤー1、最高だったので日本人全員見てほしい)、ゴールデン街でワインを飲んだ。
広尾のパン屋でモーニングをして、池のある公園で亀の行方を追った。子どもたちがザリガニ釣りに勤しんでいた。美しい公園だった。
お台場の肉フェスにも行って、最終日は手掴みでシーフードを食べた。

現実からの逃避という意味においては、我ながらよくできた休暇だったと思う。

そして連休最終日の夜、私は一人、宿舎に帰って、ユニクロのリラコを履いて、くたびれたBUMP OF CHICKENのライブTを着て、畳のうえに寝転がって、連休が始まる前のあの心の興奮がすっかりどこかへ行ってしまったことにひどく絶望している。
2DKの宿舎は一人で住むには広すぎて、このやり場のない寂寥感も、明日からの労働に対する悲しみも、消化されないまま宙を舞っている。

連休明けの通勤特急は混雑するだろうし、休み前に放り出して積み残したままの仕事は、変わらない形でそこにあるのだろう。
泣きたい気持ちで、休みの日には着ないオフィスカジュアル仕様のきれい目な服を、朝きっと起きられない明日の私の為にセットしておく。

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