2014年度学士論文「お笑いライブで芸人と観客が経験することとは」

*しょっぱいパンがガチで書いた卒業論文です。留年して2年かけて書いた渾身のお笑い論です。社外人類学のゼミの教授はやたら褒めてくれたので、結構ちゃんと書けてます。

読んでくれ!

そしてしょっぱいパンとお酒飲みながらこういう話をしてくれ!


概要

 本稿はお笑いライブにおいて芸人と観客とが一体となって同調する姿を描写しきることを目的としている。まず、一般的なお笑い評論で前提となっている「観客は、芸人が披露する絶対的に面白いネタを、ただただ受動的に観るだけ」という認識は誤りではないかと問いかける。実際にお笑いライブに足を運べば、「笑い声」によって主体的に芸人のネタに介入するいきいきとした観客の姿がみえるはずだからだ。

 この観客の「笑い声」を、過去の笑い研究から理解していく。 「笑い声」の「ははは」という反復する音声は、生きたリズムを刻み、うねりを生じさせ、同調を引き起こす。これを「リズムによる同調」と捉える。また、笑いは<いまここ>における認知的移行を表示する機能を持つと考えられる。そのことから、笑い合う集団は、<いまここ>において「認知における同調」を体験していると捉える。お笑いライブでは、「認知における同調」と「リズムによる同調」との2つの同調が芸人と観客同士で行われ、快楽が生み出される。

 お笑いの舞台に上がる芸人は、この2つの同調を起こすため、様々なワザを披露する。基本的なワザとして、「認知のズラし」「共感の喚起」「<いまここ>の演技」が上げられる。これらは「認知における同調」の達成に関与する。さらには、「テンポの変化」などのワザは「リズムによる同調」の高まりを志向している。ただし、お笑いライブでしばしば生じる「拍手笑い」は、ここまでの笑い理解では語りつくせない。「拍手笑い」は笑いの表示機能を超過したときに生じる現象だと言える。そして、「拍手笑い」が起きているときにこそ、2つの同調はピークに達するのである。

 


序章 笑う観客

 本稿の目的は、お笑いライブにおいて芸人と観客とが一体となって同調する姿を描写しきることだ。しかし、お笑いライブにおける観客の姿を、本稿を読むほとんどの方々は具体的に想像できないだろう。今日では、お笑いのネタはテレビ番組の中で観ることが主流であり、実際にライブ会場に足を運ぶのはごく限られたお笑い好きだけだからだ。お笑いライブを観た経験がない方は、ぜひ一度本稿を読むのをやめ、ただちにどこかしらで開かれているお笑いライブに足を運んでみてほしい。テレビでお笑いを観るときには味わえない快楽を経験できるはずだ。

 まず、お笑いライブ会場に行くと、たいていは「思っていたよりも小さい会場だな」という感想を抱くはずだ。たいていのお笑いライブで使われる会場は100席以下、大きくても200席ほどのことが多い。開演すると、まずMCが登場し、「前説」と呼ばれる時間に入る。MCは、たわいのない話や観客とのコールアンドレスポンスをすることで、会場の雰囲気をあたためる。その後、芸人が登場してネタを始める。芸人が次々を繰り出すボケに対して、観客の笑い声も次第に大きくなっていく。ピークに達すると、観客の笑い声は会場全体に割れんばかりに響き渡る。そのとき観客は、陳腐な表現ではあるが、全ての参加者が1つになったように感じる。この一体感から生じる快楽はテレビでは味わえない。

 私は幸運なことに、観客としても、舞台上の芸人としても、その喜ばしい一体感を経験したことがある。そして、残念ながら一体感がまったく得られないお笑いライブにも何度も立ち会ってきた。観客がくすりとも笑わず、芸人はその観客の反応に動揺し、台詞を噛んだり、飛ばしたりする。その芸人の様を見て、さらに観客が冷めていく。そんな悪循環が永遠と続く。興味深いのは、同じ芸人が同じネタを同じような客層の集まるお笑いライブで披露しても、とあるライブでは観客として一体感を得ることができ、またとあるライブではまったく一体感を得ることができないことがあるということだ。こういった事態は、「誰もが笑う絶対的に面白いネタ」があると考えている限りは、描写しきれない。

 本稿では、お笑いライブで観客、芸人が経験する一体感とそこから生じる快楽の正体を探り、どのような条件下でその一体感が生まれるのかを解き明かしたい。第1章では、そもそも笑うとはどのような発生条件を持ち、どのような表示機能を持つのかを探る。第2章では、笑うときになぜ快楽を感じるのかを、「同調」という観点から解き明かす。第3章では、芸人が笑いを起こすワザに着目しながら、お笑いライブにおける事態を描写する。


第1章 笑いの表示機能


第1節 過去の笑い研究

 お笑いライブにおける事態について論じるための前段階として、そもそも「笑う」とはどういった行為なのかを明らかにしたい。

 過去の笑い研究の古典として、ベルクソン(1900)の笑い論が挙げられる。彼は、笑いを起こすものは、柔軟さがある生物的な状態からかけ離れた、「機械化されたこわばり」だと考えた。その例として「たどたどしく話す」ことや、「つまづく」ことが挙げられる。そして、人は、「機械化されたこわばり」を「矯正」するために笑うのだと論じた。この笑い論は、非常に限定的に笑いを理解しているように感じる。お笑いライブの観客は、わざわざ笑うために足を運んでいる。その観客が、芸人のボケに対して「矯正」するために笑っていると考えるのは非常に無理があるだろう。ベルクソンよりも、日常会話やお笑いライブにおける様々な笑いの発生を包括できる笑い論として、ショーペンハウアー(1819)を挙げたい。彼は、次のように笑いを定義している。「笑いが生じるのはいつでも、ある概念と、なんらかの点でこの概念を通じて考えられていた実在の客観との間に、とつぜんに不一致が知覚されるためにほかならず、笑いそのものがまさにこの不一致の表現なのである。」これを、安部(2005)の言葉を借りつつ説明すると、ある<概念A>を想定していた際に、「実在の客観」がそれと<共通の条件>を有しつつも、異なる<概念B>であったとき、「不一致が知覚」される。この不一致が笑いを引き起こすということだ。このように、意味のズレが笑いを引き起こすと考えるならば、ベルクソンの笑い論よりもはるかに多くの笑いが生じた事象について説明できるように思える。しかし、ショーペンハウアーの笑い論も、ベルクソンのそれと同様の大きな欠陥を孕んでいる。それは、外部的な可笑しさ、つまり笑いの缶詰(谷2004 p.21)を前提にしているということだ。それは、「実在の客観」という表現からも明らかだろう。しかし、私たちはユーモアやジョークのような笑いの缶詰が存在しないときにも笑うことがあり、逆に笑いの缶詰を前にしても沈黙することがある。そういった事態を、今まで挙げてきた笑い論は語ることができない。これでは、「絶対的に面白いネタによって、観客はただただ受動的に笑わされている」という認識を覆すことはできない。

 この問題を乗り越えたのが、谷の笑い論(2004)だと考える。谷の笑い論は、笑いの発生条件が自己の認知過程にあると捉えた点で、「笑いの缶詰」を前提とする過去の笑い論と大きく異なる。


第2節 認知の表示としての笑い 

 では、谷の笑い論(2004)を詳しく見ていきたい。谷が定義する笑いの発生条件と笑いの機能を著作から抜粋した。

 

笑いの発生条件(笑いの本地):

Ⅰ先行発話者の発話を契機にしてであれ、発話しつつふとそれまで想定していなかった想定の浮上を契機にしてであれ、先行時点では想定もしていなかった<いまここでのわたしの想定:p>の設定のもとで、自己の認知環境の非予期的な移行を経験する

Ⅱその<自己の認知環境での非予期的な移行>経験を、基礎レベルでの事態:不一致としてとらえ、その知に関する自他間の非対称性を視界におさめる

Ⅲ会話の参与者が暗黙裡に相互批准しているとみなされる協調原則を遵守しようとするモードにある

笑いの機能(笑いの本願):

Ⅰ認知的自己表示機能:{<わたし>は<いまここ>で、基礎レベルでの事態:不一致の知に関する自他間での非対称性という視界のもとにある}という自己の認知的事態について自己言及的表示をすることで、<わたしだけが知っている、他者が知らないわたしの想定>がなんであるかを間接的に示唆する

Ⅱ相互行為上の自己表示機能:暗黙裡に相互批准しあっているとみさなれているコミュニケーション上の協調原則に<わたし>がしたがっていることを表示しているのである。

 

 ここで述べられていることを、谷が挙げていた、「奇妙な老眼鏡を勧める話」という日常会話において笑いが発生した事例にあてはめて説明したい。

 

Ex.奇妙な老眼鏡を勧める話

中庭で、若い男性:山田と、中老のすでに老眼となった女性:高橋、そして他の若い女性:吉田が、バドミントンをしていた。バドミントンの玉は、テニスと違い、高みからゆっくり落下してくる。老眼の人には近くの距離感がつかめず、高橋はよく空振りをして、その都度悔しそうな顔をしていた。とろこで以下の会話は、バドミントンを終えて、コート脇で、ネットを畳んでいるときのものである。

山田:高橋さん、高橋さんは老眼ですか。

高橋:はい老眼です。

山田:あのー、老眼鏡で、小さいレンズが下にはまったものがありますね。

高橋:はいあります。わたしももってます。

山田:その小さいレンズが上についたのがあったらいいのに。

高橋:えっ

山田:だって上から落ちてくる玉をうまくキャッチできる

高橋:くやしーい

吉田:    ははは

 

 この話において、高橋と吉田は、山田の話を最初<奇妙な眼鏡購入の勧め>だと想定する。しかし、「だって上から落ちてくる玉をうまくキャッチできる」という発話によって、山田が話していたのは<勧め>ではなく、<からかいともとれる機知>であったことを知る。このとき、<勧め:p>から、<からかいともとれる機知(~p)へ自己の認知環境の非予期的な移行を経験する。これが笑いの発生条件Ⅰに該当する。

 しかし、高橋と吉田が非予期的な移行を経験したかどうかを、この時点で山田は知ることができない。高橋と吉田は、自分の非予期的な移行を知らない山田を視界におさめる。これが笑いの発生条件Ⅱに該当する。

 これまでの過程を経て、吉田は、自分の非予期的な移行を山田と高橋に間接的に示唆するために、笑う。これが、笑いの表示機能Ⅰに該当する。

 吉田は笑うことを選択したが、沈黙することで自分の非予期的な移行を隠蔽するという選択も当然考えられた。吉田が笑うことで自分の非予期的な移行を伝えようとしたのは、山田、高橋との会話の協調原則を遵守しようとするモードにあったからと理解できる。そして、笑うことで協調原則に自分が従っていることを表示したのだ。これが、笑いの発生条件Ⅲと笑いの表示機能Ⅱに該当する。

 これまで説明してきた谷の笑い論[1]は、笑いの発生条件を自己の認知過程にあると捉える。この笑い論であれば、お笑いライブにおいて、芸人が意図したように観客が笑わったり、笑わなかったりする事態などに言及することができる。すなわち、笑いの缶詰を前提とする笑い論では不可能であった、「笑い声によって主体的にネタに介入していく観客」の描写が可能となった。

 

第3節 残された問い:笑いの快楽性

 谷の笑い論は、お笑いライブにおける事態を描写するに足ると考えられる。しかし、大きな問題が2点ある。1点目は、笑うことに伴う快楽性を無視している点だ。お笑いライブにわざわざ足を運ぶ人は、笑いたいから来ている。笑うという行為に、快楽が伴うことは自明であろう。もし、笑うことの快楽性に言及しなければ、お笑いライブの存在意義までも曖昧なものとなってしまう。2点目は、笑いの特殊性が論じきれていない点だ。この問題は、「笑い」と「驚き」の差異に関する議論において浮き彫りとなる。谷は、「笑い」と「驚き」はどちらも認知における非予期的な移行に起因すると言う点で非常に近いと論じる。その上で、笑い声が「はっはっは」という驚きの音声の反復であることに着目し、以下のように「笑い」と「驚き」を分けた。

 

笑いは[{<基礎レベルでの事態:不一致をわたしが知っている>ことを他者は知らない}ことをわたしがしっている]ことを他者は知らない・・・という、<自他間の知の非対称性にある事態>認知の反復を引き起こす状況に起因する。一方驚きは、想定世界における非予期的な移行に留まる。

 

 この説明から、「笑い」と「驚き」では、そもそも言及しようとしている対象が異なるということは分かる。「笑い」は自他間の知の非対称性に言及し、「驚き」は非予期的な移行に言及する。しかし、下記のような日常会話における事態を考えてほしい。

 

大学生A:卒業論文の製本ってどこでできるんだっけ。

大学生B:国立駅前の文具屋で安くしてもらえるよ。

大学生A:文具屋って大学通り沿いにある?

大学生B:いや、やよい軒の隣にある・・

大学生A:あっはいはいはいはい。あそこか。

 

 この場合、大学生Aは<大学通り沿いの文具屋>という想定から<やよい軒の隣の文具屋>へと非予期的な移行を経験している。そして、大学生Aは、「あっ」という「驚き」

によって想定の非予期的移行を示唆する。ここまでは谷の理論で捉えられるが、問題としたいのはその直後の「はいはいはいはい。」という発話だ。これは<自他間の知の非対称性にある事態>認知の反復に言及している発話だと考えられる。つまり、「驚き」の発話と、それに付随する「はいはいはいはい」という発話は、「笑い」の表示機能と一致する。これは、「笑い」は他の発話で代替可能であることを示し、その特殊性を否定する。

 私は以上2つの問題点、すなわち1)笑うことの快楽性の無視、2)笑いの特殊性に関する説得力の弱さは互いに繋がっていると考える。笑いの「はっはっは」という反復する音声の特徴から笑いの特殊性を改めて考えることは、笑うことの快楽性の発見に繋がるのではないだろうか。また、笑うことの快楽性を見つけることは、笑いの特殊性を確立することに繋がるのではないだろうか。

 

 


第2章 笑う快楽

 

第1節 笑い声とうねり

 笑いの快楽性と特殊性を発見するために、笑い声の持つ「はっはっは」という反復する音声的特長について考えたい。その足がかりとして、野村(2010)の「うねり」に関する議論を見ていく。野村は、マクタガードの時間論を取り上げ、時間は自然のものではなく人間が意図的に区切ることで得た創造物だという前提のもと、時間を以下のように分類した。

 

・A系列の時間_心理的時間...過去ー現在ー未来が想定される意識の世界の時間。一定ではない。

・B系列の時間_物理的時間...社会で統一的に用いられる客観的な時間。直線的で等間隔、方向性を持つ。

・C(D)系列の時間_非時間...時制や方向性もない。針のない時計。収穫以前で目的性が付与されていない。

・E系列の時間_対話的時間...自ら刻む生きた時間。

 

 このなかで、E系列の時間こそがここで取り上げたい時間だ。これは、心臓の鼓動、脈拍、まばたき、舞やダンス、祭りや祝祭などが例として挙げられる。時制、方向性を持たず、一定でない。生きていることを示すリズムと変化があるのみだという。そして、最大の特徴は同調化だ。シンコペーション(普通と違うところにリズムのアクセントをおく)による不等間隔なリズムを折り合わすと複雑なポリリズム(複合リズム)が形成される。これはうねりを作り、時間がゆがむ感じを与える。それが同調と、快感を与える。

 野村は、このうねりを参加者に体験させるため、12、3人ほどの参加者をいくつかのグループに分けて拍手をするという簡易な実験を行った。

 

(いくつかのグループに分かれて、それぞれが違う拍子を叩く。二拍子、三拍子、四拍子、クラーベのリズム[2]など。そのあと全体がいっしょにそれぞれのリズムで手拍子をする。)

ミサチータ:他の音の特徴がだんだん聞こえてきて、その中に自分の手拍子の音をはめていくっていう、そういうはまっていく、はめていってはまっていくっていうのの気持ちよさとか感じて......。

森岡:手拍子に最初注目したけど、手拍子は別にどうでもよかった。むしろ体全体がのっかっていくという感じ。

山口:上半身と下半身がつながって、足の動きと手が、全然考えないとできなかったのが、あるとき突然、スムーズに動くような。

ミサチータ:余裕が出てくると自分が(リズムに)合った瞬間とかっていうのがわかるんですよね。それがとても気持ちいいし、その瞬間が同調した瞬間。自分の中だけで、足と手が合う、それも一つの同調なんですが、プラス、周りと同調できると、一番いいかなぁと。今のでそれが気持ちいいと思ってもらえればそれで良かったんですが

 

 このように参加者は、自分の体全体が繋がり、同調していく感覚を体験した。また、この簡易な実験の参加者は体験出来なかったようだが、クラーベのダンサーであるミサチータが言うには、次第に周りの人々との同調を感じるようにもなるのだという。

 このように拍手によって同調が生まれるのであれば、笑い声によっても同調が引き起こされていると考えられることもできるだろう。笑い声の音声的な特徴を再び考えたい。「ははは」や「ほほほ」、「ふふふ」など、同じ音を反復するという点では、すべての人で共通しているが、反復のリズムや音程は各個人によって大きく異なる。この異なるリズム・音程の笑い声がポリリズムを形成したとき、笑い手は同調=生きた時間を感じ、快感を得るのではないだろうか。

 

第2節 「リズムによる同調」

 笑い声は、生きた時間を刻み、同調を引き起こすのではないかという仮説を立てた。しかし、笑い合う人々が同調するということを科学的に実証する実験を行う設備も技術も筆者は持ち合わせていない。そこで、笑い合う以外の場面において、人と人との相互関係に「リズムによる同調」があると考える研究を紹介したい[3]。笑い合う人々に同調が起きるという考えが決して突飛な発想ではないことを示せるだろう。

 まず、50年代半ば、バードウィステルによってフィルムに撮影され、精緻に研究された「喫煙シーン」では、会話する2人の人物が互いに動きを同調させていく様子が描写されている。グレゴリーという訪問記者がドリスという女性にインタビューしている長い会話の一部であり、次のように進行する。

 

カメラにフィルムを詰め替えて撮影を再開したため、ドリスとグレゴリーはもう一度ソファーに腰をおろす。二人はそれぞれドリスが注いだ自家製ビールのジョッキを手にしている。ドリスはグレゴリーから自分のジョッキに視線を移し、次にグレゴリーが持っているマッチを見る。彼女は右手でジョッキを二人の前のコーヒー・テーブルの上において、左手で煙草を口にもっていく。グレゴリーは「あの子は四歳半にしてはすごく頭が良いよ。だってあの子の描いた絵ときたら、四歳半にしては上出来だ」と続ける。彼は話しながら紙マッチを開いて一本とりだし、上蓋を閉じてマッチを握る。そして話を終えると同時に火のついたマッチを彼女の口のところへもっていって煙草と接触させる。ドリスは煙草に火がつくまでグレゴリーによるマッチの操作と呼応した動きをする。彼女は「どこの母親も自分の子供は利口だと考えてると思うけど、私はちっとも心配していないの、子供の知的能力は」と話す。「子供の」と「知的」の間には八分の三秒のずれがあり、「知的」と「能力は」の間にも同じずれがある。グレゴリーが「いや彼はとても利口だ」と話し始めるが、彼の最初の言葉とドリスの「能力は」という言葉とその前のためらいとの間には切れ目がない。ドリスは話している間に、右手をテーブルの端からすべり落とし、手をソファーの後ろ側に落とす前にちょっと左側に手をやって靴のひもを直す。この動作やその瞬間的な変化は、依然としてグレゴリーの動き(ドリスの煙草に火をつけた後、マッチを消して灰皿に棄てることでおしまいになる空中に三角形を描く動作をする)と呼応している。

 

 モンタギューは、このバードウィステルによるフィルム研究は「完全に拍子が合って調和した過不足ない動き」、「無意識であるにせよ高度に様式化された二人舞踏」を明らかにしていると説明した。これは、日常会話においても、無意識的に「リズムによる同調」が行われているを示している。

 また、エドワード・T・ホールの研究は、運動場の子供たちは一人の「指揮者」のもとで、一定のリズムに従い動いていることを示した。

 

最初は彼らの様子は、たくさんの子供たちがそれぞれ好き勝手なことをしているように見えた。だがしばらくすると、われわれは一人の小さな少女がほかの子供たちよりもよく動くのに気づいた。注意深く調べてみると、彼女が運動場全体をとりしきっていることが判明した。......われわれは次第にグループ全体が一定のリズムにしたがって同時に動いているのを知った。最もよく動きまわる活動的な子供がリーダーとなって運動場のリズムを編成しているのだ!

 

 この研究も、「喫煙シーン」と同じく、日常生活における「リズムによる同調」の一例だと捉えられる。

 また、W・Sコンドンの実験では、会話する二人に取り付けた脳波記録装置のペンは完全に一致した。コンドンは、文化内における相互作用とは誕生とほとんど同時に作動し、その後文化による調整をうける「ボディ・シンセサイザー」に支配されていると結論を出した。この見解によれば、個人間のコミュニケーションとは互いに「別々のメッセージを送りあう孤立した存在」ではなくて、その文化の全構成員が共有するリズミカルなパターン構造に互いに参加する方法であるということだ。

 このように、人と人とが対面した際に「リズムによる同調」を行っていることを明らかにした先行研究は多く存在する。では、なぜ人はリズムによって同調するのか。モンタギューは、生活のリズムを教え込むのは幼少時の体験だと説明する。胎児の脈拍(毎秒約40)と母親の脈拍(毎秒約70)とがシンコペーションのリズムを作り出していることが研究により明らかになっているということだ。「羊水に浸って二つの心音の響きを聞きながら、胎児は早くも深遠な生存のリズムに調子を合わせている」とモンタギューは述べている。また、野村(2010)は、明石(2009)[4]の遺伝子研究をもとに、ヒトの全てのゲノムに時計遺伝子があるために、リズムによって同調するのだと説明する。明石は、体の中に頑丈な体内時計があると論じる。体内時計はヒトから細菌に至るまで細胞内に存在し、この時計は時計遺伝子が作り出している。ほとんど全ての細胞で働いている時計遺伝子は体のリズムをつくっているが、それらを統括している中枢の時計が頭部にある視交叉上核という箇所で、全身の時計をまとめている。ここで重要なことが2点ある。1つは、たんぱく質をつくる時計遺伝子の活性変動、つまり発現リズムが体内時計の実態であるということだ。つまり、この時計の正体はリズムだということになる。2つ目は、この体内時計は、光でリセットされることだ。体外のリズムと同調することが可能であり、それによって朝明るくなると目覚めるなど、同調が可能になる。(p.118)この2点の特長により、個人は周囲とリズムによって同調することが出来るということだ。

 これまで、日常生活において無意識的に「リズムによる同調」があるとする研究をみてきた。しかし、お笑いライブは「リズムによる同調」を意図的に作り出す営みであると捉えられる。お笑いライブと同じく、意図的に「リズムによる同調」を作り出す営みとして、祭りが挙げられる。ここで、北村(1989)の祭りの「盛り上がり」に関する研究に注目したい。北村は、町ごとに太鼓を叩きながら行進する祭りを実験対象に選んだ。参加団体のうち、A町は他の祭り参加者の多くが「最も盛り上がっている」と認めている。A町は担ぎ太鼓を用いており、他の町は台車に太鼓を乗せている。祭りの映像をもとに、町ごとの太鼓のテンポを計測した。その結果、1)担ぎより台車の方がテンポの変異が大きい2)台車の方がテンポが遅いということが分かった。このことから北村は、台車太鼓は演奏者の思い通りにテンポを設定できるが、担ぎ太鼓は歩行リズムの支配下にあるため、テンポは歩行の影響を受ける。すると、循環的フィードバック過程の成立にもとづく同調のエスカレート=「盛り上がり」が発生したと考えた。

 この、祭りの他にも、ダンスや音楽などは、「リズムによる同調」を意図的に作り出す営みであると考えられる。そして、それらと同じように、お笑いライブも「リズムによる同調」を意図的に作り出す営みであると捉えられると考える。

 

第3節 認知における同調

 笑い合うことが「リズムによる同調」を作り出す営みだと論じてきた。このように、笑い合うことは同調を引き起こすことが目的であるとする笑い論として、北村(1989)を紹介したい。北村は「対面相互作用におけるコミュニケーション」において、ことばによらないコミュニケーション(nonbverbal communication)への研究を論じている。ことばによらないコミュニケーションとは、従来の言語中心的な「送り手が暗号化したメッセージを受け手が解読する」というコミュニケーションへの理解では語りつくせないものを指す。例えば、握手という行為は、どちらがメッセージ送り手でどちらが受け手であるかを定めることができない。このような、ことばによらないコミュニケーションは、「自分の働きかけとそれに対する自分の反応との関係について社会的な慣習性を意識し、自分がある行動を起こすことによってある『できごと(event)』が生起したと考えられるようになると見通した上で行動する」ものとして理解できる。ゴッフマンは「送り手は同時に受け手であり、受け手は同時に送り手なのである」と述べている。さらに、岡本夏木『子供とことば』では、子供の発達は対話が出現するまでに、「情動の共有」、「対象の共有」、「テーマの共有」と、連続的に観測されることが明らかにされている。このことから、コミュニケーションの原型とは「参与者同士が、社会的慣習に基づいて、ある種の共有関係に入る」であるとした。北村はこの立場から、従来の笑い論を否定する。「笑い合う」=eventであり、日常的に私たちは「同調的に笑い合うというできごとが生起したのか否かという基準でまず認識する」という。もし生起されれば「笑う」ことの理由は特に詮索されない。生起しなかった場合(一方が笑いかけ、一方が笑わない)ときのみ、「笑う」理由は詮索される。つまり、「笑う」理由は実は重要ではなく(もしくはほとんど存在せず)、握手と同じように、生起することが目的であると考えられる。

 ここまでが北村の考えであるが、このコミュニケーション理解は、先に取り上げたW.Sコンドンの「ボディ・シンセサイザー」という考え、つまり「別々のメッセージを送りあう孤立した存在」ではなくて、その文化の全構成員が共有するリズミカルなパターン構造に互いに参加する方法であるという考えとも非常に近い。この2つのコミュニケーション理解は、人と人とが対面した際に起こる「リズムによる同調」に注目したものだと言える。

 この北村らのコミュニケーション理解でお笑いライブを捉えてみたい。すると、お笑いライブの芸人と観客は「笑い合う」eventを生起するという目的で一致した集団であると考えられる。eventを生起することによって同調・「盛り上がり」を感じる集団ということだ。しかし、この理解では大きな不都合が2つ生じる。まず、1つに、お笑いライブとダンス、音楽を区別して語ることができない点だ。これらはすべて、「リズムによる同調」を引き起こすeventである。その性質において、まったく同じ営みだと捉えられてしまう。しかし、私はダンスや音楽にはない、お笑いライブ独特のなにかがあると経験から確信しており、そのなにかを描写したいのである。2つめの問題点は、お笑いライブにおいても同調が達成されるときと、失敗に終わるときがあるということを説明できない点だ。序章でも述べたとおり、非常に幸福な同調を感じるライブもあれば、芸人と観客とがまったく噛み合わないまま終わるライブもある。もし、お笑いライブに集まった芸人と観客とが、「リズムによる同調」のみを志向する集団であれば、一度ウケたネタをただひたすら繰り返し上演すれば、その度に幸福な同調を引き起こすということになる。しかし、そんなことをすれば観客はすぐに飽きてしまうことは目に見えている。

 この2つの問題点から、北村らが論じるコミュニケーション理解でお笑いライブを捉えることはできないと考える。確かに、笑い合うことは単なる情報の伝達だけを行うということではなく、「リズムによる同調」を引き起こす営みだ。しかし、その「情報の伝達」も、笑い合うことの大切な機能であることは忘れてはならない。

 ここでもう一度、谷の笑い論に立ち返って考えてみたい。谷は、笑い声の特徴は<即時性>と<切り上げのよさ>だと述べている。(谷 pp.22-24)<即時性>とは、例えば「そhっ、そhっんなこhとhって、あるってわけ!」といったぐあいに、単語の音節単位にまで笑いが入りこんでくることを示している。<切り上げのよさ>とは、いくら笑い声をたてようと、次の時点ではあたかもなにもなかったかのように、続きの発話に立ち戻ることを示している。笑いと異なる感情表現、例えば「泣き」を考えると、「あーん」、「わー」など長い呼気として発せられる。このことから、<即時性>と<切り上げのよさ>は、他の感情表現にはない、「笑い」の特徴だという。そして「笑い」は、その<即時性>と<切り上げのよさ>によって、自分の<いまここ>における認知の非予期的移行を表示するというのだ。 

 この谷の笑い理解をもとに考えると、「笑い合う」集団は認知の非予期的移行を<いまここ>において共有するということになる。これを、「笑い声」による「リズムによる同調」と分けて、「認知における同調」と捉えられるのではないだろうか。お笑いライブは、「リズムによる同調」と「認知における同調」の2つを生起するという点で、「リズムによる同調」のみを生起するダンスや音楽、祭りなどと区別できる。また、「認知における同調」を生起できるかどうかは非常に不確定である。このことから、幸福な同調が起こるライブと同調が起こらないライブがあることも理解できる。このように、2つの同調を定義することで、お笑いライブにおける事態を詳しく記述することが可能となった。


第3章 お笑いライブにおける事態


第1節 お笑いライブと日常会話との差異

 これまでに、第1章では、笑いの発生条件と表示機能を谷の理論を元に理解した。第2章では、さらに笑いの特殊性と快楽性を探った。その結果、笑いは「リズムによる同調」と「認知における同調」を生み出すと考えた。この章では、いよいよお笑いライブにおける事態を考えていく。しかし、ここで問題となるのは谷の笑い論をお笑いライブにそのまま当てはめることができるかということだ。谷の笑い論は、日常会話において笑いが生起される事態を説明するものだった。しかし、お笑いライブは意図的に笑いを生起させようとする営みであり、非常に特殊な事態であると考えられる。お笑いライブにおける笑いの発生の仕方を詳しくみていきたい。そのために、フィールドワークとして実際にお笑いライブに観客として参加した際に観測した事象を挙げていく。

 まず、お笑いライブにおいて、観客が笑い声を自ら抑制する事例を考えたい。ヨシモト∞ホールで行われた「彩~irodori~East Live」[5]における、インポッシブルによるコントを紹介したい。このネタの序盤、強烈な見た目の2人がオーバーアクトぎみに話を展開していく。しかし、下記の引用で分かるとおり、明確なボケ[6]はない。すると、私の席の前に座っていた女性客は、おかしみを感じ、身体を震わせているものの、笑い声を発さずに、隣の女友達に抱きついていた。もちろん、その他のネタにおいて、芸人がボケを発した際には、その女性は他の観客と同様に笑い声を発していた。このことからこの女性客は、あえて自らの笑い声を抑制するという選択を行ったと考えられる。


<画像省略>

  インポッシブル 左:井元(大統領役) 右:蛭川(SP役)

大統領:この国は腐っている。だから私が、大統領として誓う。この国を変えてみせる。だがそのためには、あなた方、人民一人ひとりの、力が必要なんです。

SP:なに?スナイパーが大統領を狙っている?どこだ、どこにいるんだ!?・・危ない!!ドン!ぐわ!ドン!ぐわ!

大統領:大丈夫か!?


 もう1つ、観客が笑い声を抑制した事例として、同ライブの企画のコーナーを挙げたい。企画とは、その日ネタを行った芸人が登場し、テーマとなっていることをこなしていくものだ。バラエティ番組のようなものをイメージしていただきたい。この日のテーマは「音を鳴らしちゃだめ」というもので、音を鳴らさずにブーブークッションに座ったり、お菓子の袋を開けるというものだった。この企画中、マジカルラブリー村上が、ブーブークッションを指して、「くそなるやつじゃん」と発言した。この発言は、他の芸人が発言しているなかで行われたので、観客のうち全員がこの発言に気がついていたとは考えにくい状況であった。すると、私の前方の女性客が「くそなるやつじゃん」という発言を小声で反復した。それに対して、隣の女友達が「なにそれ?」と言い、2人で小さな声で笑った。ここにおいて、女性客は「くそなるやつじゃん」という発話におかしみを感じており、それを隣の友人と共有し、笑うに至っている。しかし、2人だけに聞こえるほどの声量での笑い声に留めており、明らかに笑い声を抑制していたと考えられる。

 これまでに、2つの笑い声が抑制された事例を見てきた。このとき、なぜ笑い声は抑制されたのかを考えていきたい。谷の理論では、笑いとは認知における非予期的な移行を経験した上で自他間の知の非対称性に言及する行為だった。笑いを抑制した女性客の視点から考えれば、2つの事例のどちらにおいても、女性は芸人の発言や演技によって認知における非予期的な移行を経験し、芸人・他の観客と自分との間にある知の非対称を視界に納めた。しかし、笑いの表示機能は、あくまで知の非対称性を間接的に示すにとどまる。この事例のように、明確なボケが表示されていない場合では、女性客が芸人のどんな発言・演技によって、どのような非予期的移行を経験したのかを他の客や芸人に伝えきることはできない。そこで、笑い声を抑制することが選択されたと考えられる。もし、このとき女性客が抑制せずに、大きな笑い声を発したとする。すると、それは他の観客にとって雑音となり、会場全体による「認知における同調」を妨げる恐れさえある。

 笑い声ではないものの、お笑いライブにおいて、観客が自由な発話をした事例を挙げたい。NON STYLE のさいたまアリーナにおけるライブ[7]では、漫才の途中である観客が唐突に「きゃー」という歓声を上げた。これに対し、NON STYLEの2人は、漫才の流れから脱線し、この歓声について言及を始めた。この歓声への言及は、笑いの誘発に繋がり、そのまま元の漫才へと戻っていくことが出来た。しかし、もし2人が歓声への言及をまったくせず、そのまま漫才を続けていたらどうなっていただろうか。おそらく多くの観客は、歓声の正体を探ることに気がとられてしまい、漫才への集中を切らしていただろう。

 

井上:電話で注文を受けてピザ焼いて配達する。そいつピザやって言うねん。

石田:お前名探偵コナンか!

井上:そんな名推理してへんわ。(きゃー)

石田:ん?(笑い声)

井上:井上:どした?

石田:なにがきゃー?

井上:めっちゃコナン好きな人が

石田:コナンの大ファンがいましたよ。(笑い声)

井上:多分な。

石田:ええ。

コナン聞けたー!

石田:ええ。

井上:コナンもしくはホームセンター江南が好きか。(笑い声)

石田:ああ、そっちか。関西圏の人かな。

井上:かもしれん。

石田:そんなんどうでもええ。・・・でもね僕やりたいアルバイトがあるんですよ。

 

 もう1つ、観客の自由な発話の例として、立川談志の落語における事例を挙げたい。談志は、観客の「面白くないよ」[8]という野次に対して下記のように反論し、最後には落語をやめて退場してしまう。


観客:あんまり面白くないよ。

(笑い声)

談志:あ?なに?うなぎが面白くない?

観客:頑張ってください。

談志:よくいるんだよ、あんまり面白くないっつってね。プログラムのどこに面白いなんて書いてあったっつんだよ。

(笑い声)

談志:知るもんかそんなもの。ずばっといくけどね。何気なくいった台詞かもしれないけどね、俺の落語否定するなら聞かないほうがいい。他の落語家と桁が違うんだからこんなもの。

(笑い声)

談志:馬鹿には分からない。馬鹿は腹立つだけです。馬鹿には面白くないだけですこんなもの。

観客:頑張ってください。

談志:なに?頑張ってくれなんて今まで頑張ってねえと思ってんの?

(笑い声)

談志:あー・・もうやめよう。ばかばかしいや。・・もういいだろ?ここまでやったんだから。

(笑い声)

談志:気分が萎えちゃう。それほど観客と俺との間にはラリーしてるんだよな。猛烈なるラリーを。無言のうちに。全部汲み取って。うん。切られたよそれを。おしまい!

(拍手)


 まず、お笑いを論じるにあたって、落語を例に出すのはどうかと思われるかもしれない。しかし、寄席において、漫才は落語の前の前座として同じ舞台で演じられることが多い。このことからも、芸人と観客との関係性という点では、漫才と落語は近いと考えられる。したがって、落語における今回の事態は、漫才にも通じるものがあるに違いない。

 さて、この談志の落語における事態だが、一見して、観客の無礼な野次に談志が怒ってしまっただけのようにも思える。しかし、談志の最後の台詞は興味深い。「それほど観客と俺との間にはラリーしてるんだよな。猛烈なるラリーを。無言のうちに。全部汲み取って。うん。切られたよそれを。」。この台詞から、談志は自分の落語は、ただ一方的に観客に話すものではないと考えていることが分かる。観客と話し手との猛烈なるラリーという相互関係を、「面白くないよ」という野次が妨害してしまったのだと述べている。

 ここに挙げた、NON STYLEと立川談志の事例によって、観客の自由な発言は芸人と観客との相互関係を阻害し、同調の妨げとなるということが分かる。つまり、お笑いライブにおいて、観客には同調を志向する笑い声を発することのみが求められており、その他の発話は抑制することが暗黙の了解となっているということだ。このことから、日常会話を下敷きにした谷の笑い論は、お笑いライブを語るにあたっては、限定的に用いることになると考える。


第2節 過去の漫才研究:概念のズレの導出

 谷の笑い論は、お笑いライブにおいては限定的に適用できると述べた。具体的にどういうことか、過去の漫才研究として、安部(2005)の議論を挙げながら説明したい。安部は「漫才における「フリ」「ボケ」「ツッコミ」のダイナミズム」において、ダウンタウンの漫才を言語学的に分析している。安部は、ショーペンハウアーらと同じく、ズレが笑いを引き起こすと論じている。すなわち「構造的には『異なる二項の概念の対比』を有し、その対比が「『異質である』と理解主体が判断した場合にのみ、そこに『おかしみ』を感じる、というわけである」。

 こうした、ズレの笑い論は、笑いの缶詰を前提としているとして、第1章で批判した。しかし、お笑いライブにおいては、芸人のボケ=笑いの缶詰が起因となる笑い以外は抑制されるということが分かっている。このことから、お笑いライブにおける笑い理解としては、このズレの笑い論を適用しても問題がないと考えられる。

 この概念のズレは、谷のいう笑いの発生条件Ⅰの<先行発話者の発話を契機にしてであれ、発話しつつふとそれまで想定していなかった想定の浮上を契機にしてであれ、先行時点では想定もしていなかった<いまここでのわたしの想定:p>の設定のもとで、自己の認知環境の非予期的な移行を経験する>を引き起こすものだと捉えられる。

 この概念のズレを引き起こすために漫才師は「フリ」「ボケ」「ツッコミ」の3つの発話を行うと安部は論じる。それぞれの発話の機能を次のように説明している。

「フリ」=ボケの先行部分でおかしみを効果的に伝達する表現(主に共通の条件、概念Aを設定、導出)。

「ボケ」=おかしみの構造図を完成させる表現(主に概念Bを設定、導出)。

「ツッコミ」=ボケの後続部分でおかしみを効果的に伝達する表現(おかしみの図の存在を伝達する)。

 安部は、例としてダウンタウンの漫才の一部を用いて概念のズレを説明している。

 

(誘拐犯=松本が、被害者の親=浜田に脅迫電話をかけている場面)

松本:(電話)お前とこの息子な、オレとこで預かってんねん

浜田:(電話)え!

松本:預かってんねん

浜田:いや!

松本:驚くことあらへん、あんたが朝預けてっ行ってん(電話をきるしぐさ)

浜田:なにを言うてんねん!

 

 この漫才における概念のズレを図示すると次のとおりになる。つまり、松本の誘拐をほのめかす発話「オレとこで預かってんねん」などが、マエフリとして、共通の条件と概念Aを導出し、「あんたが朝預けて行ってん」という発話がボケとして概念Bを導出している。浜田の「なにを言うてんねん!」という発話は、ツッコミとして、おかしみの図の存在を伝達している。

共通の条件:子供を預かっている理由、概念A:誘拐した、概念B「あんたが朝預けて行ってん」預けた

 

第3節 お笑い芸人のワザ:「認知における同調」の誘引

 ここまで、安部の漫才研究をもとに、漫才における発話が概念のズレを作り出していく仕組みについて説明してきた。ここで疑問となるのは、漫才を作る芸人たちは、どこまで意図的にこの概念のズレを作っているのかということだ。概念のズレの構造を効果的に作ることは、観客の認知における非予期的な移行を誘引する。それは、お笑いライブでの「認知における同調」の達成に貢献する。したがって、芸人がどこまで意図的に概念のズレを作っているかを捉えることができれば、芸人のワザがどこまでお笑いライブにおける同調の発生に影響を与えるかを知ることができるということだ。

 そこで、漫才作家が芸人を志す人に向けて書いた、漫才のハウトゥー本を読み解くことで、芸人のワザを探りたい。秋田實[9](1972)は『笑いの創造』において、笑いを創り出す方法を、以下の9つに分類した。

1)洒落、2)誇張、3)感違い、4)期待の失望、5)結果・原因、6)道理・屁理屈、7)本末転倒、8)矛盾、9)繰り返し

 ここで注意したいのは、秋田はこれらを漫才を作る上で、意識的に捕らえるために分類しているに過ぎないということだ。つまり、この9つが、笑いを創り出す方法の全てであるということではない。「漫才の魅力はわれわれの日常におけると同じように、雑談の楽しさ面白さである」「漫才の笑いのお手本である日常の雑談」と秋田は述べているが、秋田は日常会話において笑いを生み出すものを収集し、近いものでカテゴリー分けしたのである。また、4)期待の失望は3)感違いの種類の1つであったり、これらは同じレベルにあるものではない。決して網羅的で体系的な分類ではないということだ。

 網羅的ではないとはいえ、漫才の生まれた頃の漫才作家である秋田が提示した笑いを創り出す方法は、漫才の基礎だと言ってもいい。この9つの方法を安部の理論で捉えられたならば、漫才の作り手は意図的に概念のズレを作り出しているということの証明になるだろう。 下記には、秋田が9つの方法を説明するために上げた例となる会話を引用した。その会話を安部の理論で捉えたとき、<共通の条件>、<概念A>、<概念B>に相当するものは何かを考え、列挙してみた。

 

1)洒落

Ex「その魚おいしそうですね」

  「いいアジだ」

→共通の条件:あじ 概念A:味 概念B:鯵

2)誇張

Ex「君とは、ずいぶん古い知り合いやなア」

「もう5、600年になるやろう」

→共通の条件:付き合いの長さ 概念A:5,6年 概念B:5,600年

3)感違い

Ex「君、スポーツ、好きか?」

「まだ食べたことがない」

→共通の条件:スポーツ 概念A:する 概念B:食べる

4)期待の失望

Ex「君、僕の兄貴はね、何千人もの人間の上に立って働いてるんだぜ」

「へえ、大したもんだね」

「なアに、大したこともないが、墓場の草刈をやってるんだ」

→共通の条件:人の上に立つ仕事 概念A:管理職 概念B:墓場の草刈

5)結果・原因

Ex「運のいい男もいるもんだね、死刑の宣告を受けた男が助かったんだって」

「そいつは命拾いだな。一体どうして・・・?」

「死刑執行の前の日に急死しちゃったんだって」

→共通の条件:死刑を免れた 概念A:生きている 概念B:死んだ

6)道理・理屈

(成る程なあ)道理/(そんなアホな)理屈

Ex細君「あなた、お湯を沸かしてよ」

夫「おい、水を沸かして、お湯にするのと違うのかい?お湯より先に、ご飯を炊いたら、どうだい?」

細君「私、ご飯はようたきません。お米をたいてご飯になら、できますけど。」

  →共通の条件:炊く対象、概念A:ご飯、概念B:お米

Ex主人「けしからん。このわしに一言の相談もなしに、断髪してしまうなどとは、実にけしからん。」

細君「あなただって、あたしに相談なしに、禿げてしまったじゃありませんか」

→共通の条件:相談なしにしたこと 概念A:断髪(主体的行為) 概念B:禿げる(生理現象)

7)本末転倒

Ex主人「こら、馬鹿な、その湯は四十五度もあるんだぞ、そんな熱い湯に入れてたまるものか」

細君「だって、こんな赤ん坊に温度が分かるもんですか!」

→共通の条件:赤ん坊を熱湯に入れた理由 概念A:間違い 概念B:確信「赤ん坊は何も分からない」

8)矛盾

Ex母親「お祈りしながら、眼を開ける子がありますか?」

子供「どうして、僕が目を開けてることが分かったの、お母ちゃん?」

→共通の条件:お祈り 概念A:子供だけが目を開けていた 概念B:母も子も目を開けていた

9)繰り返し

Exある一人の中年の女が、道路の左側から右側へと自動車の方向を転じ、すぐさま他の自動車にぶつかった。相手の運転手、自動車から外に出て、怒っていった。

「あなたは何故合図しなかったのですか?」

「だって私は、いつだってここで方向を変えるのよ、お馬鹿さんね。」

→共通の条件:合図を出さなかった訳 概念A:間違い 概念B:習慣からくる確信

 

 このように、9つの全ての方法において、概念のズレの構造を示すことができた。このことから、漫才を作る芸人たちは概念のズレを引き起こす構造を意図的に作り出していると考えることができる。ここで谷の論じた笑いの発生条件を思い出して欲しい。笑いの発生条件は3つ存在した。安部の論じる概念のズレは、3つのうちの笑いの発生条件Ⅰにおける認知の非予期的な移行を誘発すると述べた。しかし、安部の理論では、笑いの発生条件Ⅱ、Ⅲに該当する部分はなかった。

 元祖爆笑王[10](2008)の出版した『漫才入門』[11]には、この笑いの発生条件Ⅱ、Ⅲに該当すると考えられる芸人のワザが言及されている。漫才の演じ方について述べられている部分を引用する。「『やらされている』漫才はつまらない。」「話の流れの中で『突っ込んじゃった』『ボケちゃった』というのが面白い」「漫才は台本ではない」(pp.8,9)「『今起こっている出来事』として話しているかのように見せなきゃいけない」(p.134)このように、繰り返し、漫才は<いまここ>で実際に起きている会話のように演じることの重要性が語られている。この<いまここ>の演技は、谷の言う笑いの発生条件Ⅱ[12]を満たすために欠かせない技術であると捉えることができる。このことは、<いまここ>の演技を行わなかったときの芸人と観客との関係を考えると分かるだろう。<いまここ>の演技を行わなければ、芸人が予め漫才のネタを考えてきたということが観客に伝わってしまう。それは同時に、芸人は観客が非予期な移行を経験することを予め承知していることさえも、観客に伝わってしまうということになる。このとき、芸人と観客との間に「知の非対称」は生まれない。つまり、笑いの発生条件Ⅱが満たされないということになる。

 次に、『漫才入門』では、「共感」させることの重要性が繰り返し語られていることに触れたい。共感という言葉について、以下のように説明している。「共感って言うのは、見ているお客さんが、『そういうことあるよな』『分かる分かる』と納得する・・・それが共感」(p.48)そして、共感させることは、漫才の基本的なテーマだという。「漫才の基本的なテーマ・・・一番の土台は、『お客さんの共感を得て笑いを取る』ということです。」このように共感させることは、谷の言う笑いの発生条件Ⅲ[13]を満たすために欠かせない技術だと考えられる。日常生活において、人と人とが対面して話すとき、協調原則に従わなかった場合、会話の参与者の関係は悪化する恐れがある。さらに最悪の場合、相手からの攻撃を受ける可能性さえある。しかし、お笑いライブにおける芸人と観客とはほとんどの場合赤の他人同士である。そのうえ多くの場合、芸人は舞台の上におり、距離的にも芸人と観客とは離れている。また、観客同士は対面していないため、お互い交わることは少ない。そのため、観客は芸人や他の観客と協調原則を遵守することが、日常会話のときよりも強制されていない状態であるといえる。そんなお笑いライブという特殊な状況下において、芸人が観客を協調原則に従わせるためにできることは、共感させて、人と人との親密な関係性を意識させるほかないと考えられる。

 このように、谷の笑いの発生条件を満たすために行われていると考えられる芸人のワザが、漫才のハウトゥー本から読み取れる。これは、芸人は「認知における同調」を引き起こすワザを有しているということを表している。第4節では、「リズムによる同調」を引き起こす芸人のワザを論じていく。


第4節 お笑い芸人のワザ:「リズムによる同調」の誘引 

 『漫才入門』では、テンポや間の取り方の重要性を述べられている。(p.136)これは、「リズムによる同調」を考える上で大切であると考えられるので、以下に引用する。


お客さんとの呼吸を取りながら・・・要するに「今の話はお客さんにちゃんと伝わってるか」を常に気にしながら、ちょうどいいテンポで漫才を進めていくことが大事だと思いますね。

そして、セリフとセリフの間に、適切な「間」を取ることも重要です。ボケの種類によっていろんな「間」があるので、いつも同じだけ「間」を取ればいいってわけじゃない。本当に0コンマ何秒かの「間」の加減で、笑いの量も変わってきます・・・

 

 また、芸人が自らの漫才のリズムに関して述べているものとして、ナイツ塙のインタビュー記事を以下引用する。[14]

 

塙 それはですねー、漫才のスピードっていうのは「広さ」によるんですよ。だから、DVDでは(独演会場の)250人の人が一番聞き取りやすいように作っています。DVDで見る人のことを考えてネタを作ったり喋ったりはしていないんですよ。お金を払って舞台を見に来てくれた人のためのものなので。

─── なるほど。

塙 でも、テレビの場合はまた違ってきて、テレビを見ている人を意識して喋るので、やっぱり速くなるんです。でも、それはいまだに難しいですね。漫才って、お客さんが近いか遠いかでも、スピードを変えなきゃいけないんで。

─── じゃあ発表する「媒体」で変えるというよりは、箱のサイズとかお客さんとの距離で変えているんですね。

塙 そうですね。球場の広さによってピッチングを変えるピッチャーみたいな感じですね。「今日の審判はココを取るな」っていうのと一緒で、漫才も「今日はここで笑うな」っていうのがなんとなくわかって、「じゃあ今日はスピードちょっと遅くした方がいいな」とか。ホントそんな感じです。

 

 以上の記述から、芸人が、観客の反応や会場の大きさにあわせて漫才のテンポや間を決定していることがわかる。しかし、漫才のスピードを変えると言っても、それは非常に微細な差であり、測定しづらい可能性は大きい。以下、大きさが異なる会場で行われたナイツの漫才における笑いが起きた数を計測し、比較する。

 

「ナイツ独演会 其の二」

2011年9月2日(DVDで視聴)

「ナイツ独演会~浅草百物語~」

2012年9月15日(DVDで視聴)

「ナイツ独演会 主は今来て今帰る。」

2013年11月4日(DVDで視聴)

国立演芸場(全席300席)

「遊園地で落語と漫才! らんらん寄席 文治&ナイツ」

2014年11月22日

日テレらんらんホール(全席1000席)

前方100後方100席ほどしか埋まっていなかった


笑いが起きた回数

「2011年独演会」17分54秒中139回  

「2012年独演会」16分45秒中 95回

「2013年独演会」17分40秒中112回

笑いが起きた回数

17分30秒中85回

 

 

 日テレらんらんホールで行われた漫才の方が笑いが起きた数は少なかった。しかし、ボケ数はネタによる振り幅が大きく、広さとの相関関係は分からない。次に、より顕著に大きさの異なる会場で行われたNON SYLEの漫才を比較する。

 

NON STYLE NON COIN LIVE in さいたまスーパーアリーナ

2012年12月23日(DVDで視聴)

さいたまスーパーアリーナ(1万2100人)

単独ライブ「東京にて」

2007年8月19日(DVDで視聴)

ルミネtheよしもと(全席458席)

笑いが起きた回数

10分37秒中74回 

笑いが起きた回数

10分14秒中68回

 

図 上が「さいたま」、下が「東京にて」

<図省略>

 起きた笑いの回数は「さいたま」の方が多い。しかし、図を見ていただきたい。これは、各漫才の音声を示したものである。横軸が時間の経過であり、縦に波形が盛り上がっている箇所で音が生じていたことを示している。波形を見れば分かるとおり、完全な沈黙=大きな間が「さいたま」には度々見られる一方で「東京にて」の方では常にどちらかが話を進めている。会場の大きい「さいたま」での方が漫才のスピードは遅かったと言える。これは、観客の笑い声が始まってから終わるまでに長い時間がかかるので、それを待つために漫才のスピードを遅めていると考えられる。

 大きな会場での笑い声の生じ方について、バナナマンはラジオ[15]で下記のように述べている。

 

(中野サンプラザで行われた「マジ歌LIVE」について)

設楽:3000人くらい入るんだよね。

・・・中略・・・

設楽:コントだとさ、あそこの会場でやろうとは思わないけど。

日村:(笑い)

設楽:音楽だとね。やっぱあのくらいのがいいんだろうなと思って

日村:ちょうどいいのかも知んないよね。確かにコントだときついね。

設楽:まあね。

日村:ああゆうとこでやったことあるよね。でもね。

設楽:時間差が生まれちゃうんだよね。

日村:そう、ウケる時のね。

設楽:昨日もそうじゃん。しゃべりのところとかだと、ちょっと時差が「どぅやぁぁああああ」って。「どん!」じゃないんだよね。あのやっぱ狭い小屋だと笑いがぱっと行くからドン!ドン!

日村:前から徐々に受けてくんだよね。ずばりね。広いとこはね。

・・・中略・・・

日村:コントは難しいね。

設楽:まあそうとこでやるの得意な人もいるかも知んないけど、俺らは300くらいのキャパがちょうどいい。

 

 バナナマンのこの説明から、大きな会場では、笑い声が波のように広がっていくため、小さな会場とは異なる間の取り方が必要であることがよく分かる。

 また、笑い声に漫才の会話がかき消されないように、笑い声が収まるのを待つことは「笑い待ち」と呼ばれている。『漫才入門』では、この笑い待ちの正しい仕方が述べられている。

「何かセリフを言ったときに、お客さんの笑い声がありますよね。その笑い声が落ちきるところの入り口ぐらい・・・完全には笑い声が終わらないぐらいのタイミングで、次のセリフを続ける」(p.146)このことから、笑い声が波のように広がる大きな会場ではその分、笑い待ちをする時間も長くなり、漫才のスピードが遅くなる。これは、一般的に言えることであり、例にしたNON STYLEが特殊ではないと考えてよいだろう。

 では、笑い声を待つために会話の間をつめないにも関わらず、なぜ「さいたま」はこんなにも笑いの回数が多いのか。最も笑い声が集中していた箇所では、ほとんど同じ言動を繰り返す、押し問答のような会話がされていた。繰り返しであるために、フリとなる台詞が必要なく、そのため非常に短いスパンで笑いが連発していた。

 

(最も笑い声が起きる間が短かった箇所 6:00から6:31までのくだり)

井上:見たことあんのかレジで財布ごと渡してる奴

石田:無いに等しいです

井上:ないやろ絶対(笑い声)

井上:なにちょっとあるかもっていうの含ましてんの(笑い声)

石田:無いに等しいです(笑い声)

井上:いや無いやん

石田:なかったような気がします(笑い声)

井上:いいや無いやん

石田:じゃあ無いという方向で(笑い声)

井上:えやる気ある?

石田:あると思ってもらって大丈夫です(笑い声)

井上:回りくどいねんてさっきから。あんねんな!

石田:無いと言ったら嘘になります。(笑い声)

 

 こうした、延々と押し問答を繰り返す会話は、ヨシモト∞ホール(2013年11月16日)におけるシソンヌのコントでも用いられており、これに類似するネタは他にいくつでも見つかる。

 

じろう:この書類を書いていただいたら登録完了となりますので

長谷川:はい

じろう:ではこちらのほうお願いします

長谷川:・・・はい。お願いします

じろう:・・はい、ありがとうございます。ではこちらも

長谷川:はい・・・お願いします

じろう:・・はい、ありがとうございます。では次こちら、お願いします(笑い声)

長谷川:お願いします

じろう:はい、ありがとうございます。では次こちら(笑い声)

長谷川:・・・お願いします

じろう:・・・はい!ありがとうございます!ではつぎこちら(笑い声)

長谷川:・・・お願いします

じろう:はい!ありがとうございます!ではつぎこちら(笑い声)

長谷川:はい。・・まだ続きますか?

じろう:もう、終わります

長谷川:そうですか

じろう:(次の書類を店員がかまえている)(笑い声)

 

 こうしたネタを安部の理論で説明するならば、下記のように表せるだろう。つまり、同じ発話を繰り返すたびに、概念のズレが起きるということだ。

共通の条件:同じ発話を繰り返す、概念A:2度繰り返す、概念B:3度繰り返す

共通の条件:同じ発話を繰り返す、概念A:3度繰り返す、概念B:4度繰り返す

共通の条件:同じ発話を繰り返す、概念A:4度繰り返す、概念B:5度繰り返す・・

 しかし、賞レース[16]と呼ばれるテレビ番組では、こうした単なる繰り返しの手法が取られていないにも関わらず、笑いの数は先に上げたライブよりも圧倒的に多かった。漫才のスピードも非常に速いと考えてよいだろう。

「M-1グランプリ 2008」(2008年12月21日 東京・六本木テレビ朝日 DVDで視聴)

ナイツ   2分57秒 笑い34回

NONSTYLE  3分53秒 笑い50回

 「M-1」において、漫才のスピードが速いのは、笑い待ちを行わないからだと考えられる。それに関して、「M-1」の審査員であるオール巨人[17]が、自身のブログで触れている。

 

ただこの両者(ナイツ、オードリー)の漫才の形は、今までの漫才の基本から外れているのですが(悪い意味では無いですので・新しい形かな)さて何処が外れているのか??それは両者とも笑い待ちをしない僕等は先輩から笑い待ちをしなさい、とよく言われました、では今何故それが出来るのか、それはお客さんが短いスパンの笑いでもボケでも付いていけるように、お客さんが変わったのでは、これは、今流行の短い時間のお笑いが、浸透しつつ有るからだと思います、これを見方に付けたのが、今回の三組!特にNON STYLEなのかも知れませんね。

                                                                             

 先に述べたとおり、ナイツもNON SYLEもライブにおいては漫才のテンポを変え、笑い待ちも行っている。テレビの賞レースにおいては、意図的に笑い待ちを行わず、早いスピードで漫才を行っていたと考えられる。

 「THE MANZAI2014」で優勝した博多華丸・大吉は、披露した2本のネタのどちらも下記のとおり笑いの回数が非常に少ない。非常にゆっくりとした漫才を行っていたと言える。

1本目 3分57秒 笑い26回、2本目 3分37秒 笑い22回

 テレビにおいては芸人と観客とが対面せず、同調が行われない。そのため、テレビにおける漫才の速さは、現段階においても正解というものは見つかっておらず、流行によって変動していると考えられる。

 これまで見てきた漫才のスピードの変動は、芸人が観客を笑わせるために用いるワザだと言えるだろう。それは、笑い声に漫才の発話がかき消されないようにすることで、意味の伝達を滞りなく行うために行っているという側面がある。その側面から見れば、この芸人のワザは「認知における同調」の達成に貢献するものだと考えられる。さらに、観客の笑い声の発生に配慮したこのワザは、「リズムによる同調」を誘引するものであるとも捉えることができる。芸人は、「リズムによる同調」に対しても、発生に貢献するワザを持っているということだ。

 しかし、ここで強調しておきたいのは、これまで見てきた芸人のワザはあくまで同調の達成に貢献するだけであり、必ずしも達成足らしめるものではないということだ。観客の同調への貢献も必須なのである。観客がしっかりとネタに集中しなければ、認知における非予期的な移行を経験しない。また、非予期的な移行を経験したとしても、協調原則に従うモードになければ、笑うことはない。いくら芸人がワザを用いても、最終的に同調が達成されるかどうかは観客に委ねられている。観客に同調の達成が委ねられているからこそ、芸人たちは様々なワザを考え、身に着けているという理解の仕方が最も正確であると考える。


第5節 笑いを超過する笑い:拍手笑い

 これまで、お笑いライブにおける事態を、谷を笑い論を下敷きにして見てきた。しかし、谷の笑い論では語りきれないことがある。それは、「拍手笑い」と呼ばれる事態だ。拍手笑いとは、観客が拍手を伴いながら笑い声を発することである。芸人たちは、通常の笑いよりも、拍手笑いを取ることの方が価値があると考えているようだ。拍手笑いについて、芸人3人が行っているネットラジオ[18]では以下のように語られていた。この会話からも、多くの芸人が拍手笑いを起こすネタを目指していることが分かる。


タツオ:『M-1』で上に行く人たちって考え方が理系的なんですよ。「ここはどこのライブでも拍手笑いが起こるネタだから、これをオチのちょっと前に持ってこよう」「でも、これじゃ勝ち抜けないから、中盤にも一つネタを置こう」という話をしているんです。準決勝は四分だから、三分五〇秒ぐらいのところに拍手笑いを起こして、あと一言でオチにする。二分半ぐらいのところにもう一つ置いたほうがいい、とか。

鹿島:それは誰の話なの?タツオの見立てなの?

タツオ:ほとんどの人はそうですよ。

鹿島:それ、ほとんどの人に聞いたの?

タツオ:聞いた(笑)。


 拍手笑いと同じように、谷の理論で語れない事例として、「かん高い笑い」が上げられる。よしもと∞ホール[19]で行われたお笑いライブでは、下ネタと人を卑下するボケに対してのみ、他のボケのときよりもかん高く、そして長い笑い声を発せられていた。


「インポッシブルのコント」

SP:(スナイパーに撃たれている)

大統領:おちんちんは(撃つの)やめて(かん高い笑い声)


「ボーイフレンドの漫才」

黒沼:最近さ、気になる娘がいるんだよね

宮川:いいじゃないですか。

黒沼:そんで、ぜひとも、落としたいとおもってるんだよね。

宮川:だったら僕に聞いてくださいよ。僕結婚してますから。

黒沼:そうなんですよ、この人結婚してるんですよ。

宮川:相方も結婚式きましたから

黒沼:そうなんですよ

宮川:その人も散々テクニック使って 落としましたから

黒沼:えーーー!!?(かん高い笑い声)あの程度の嫁に!?(かん高い笑い声)


 拍手笑いも、かん高い笑いも、谷の理論では語りつくせない。なぜなら、谷は笑いの発生条件と表示機能を提示するに留まっているからだ。笑い声の大きさや質の差異についてはまったく言及していないのだ。しかし、私は経験的に、拍手笑いが起きたときがもっとも会場全体の一体感、同調を感じるときだと思っている。拍手笑いについて描写することは、お笑いライブにおける同調を語るにあたって不可欠だと言えるだろう。

 拍手笑いという事態を少しでも理解するために、1つの仮説を立てたい。それは、「谷の言う笑いの表示機能を越えて、表示する必要性が高まったとき、人は拍手笑いをする」という仮説だ。この仮説を説明するため、拍手笑いが起きた芸人のネタを3つ紹介する。


「M-1 2008 南海キャンディーズの漫才」

しずちゃん:じゃあ山ちゃんお医者さんやって。

山ちゃん:分かった。

しずちゃん:私、火を怖がるサイやるから。(笑い声)(サイの演技を始める)(笑い声)

山ちゃん:メス。

しずちゃん:(サイの演技を続ける)(拍手笑い)

山ちゃん:メス。

しずちゃん:(サイの演技を続ける)

山ちゃん:だめだー。俺こんな状況生まれて初めてだ。(拍手笑い)


「トレンディエンジェルの漫才(彩~irodori~East Live 2014年2月6日)」

たかし:最近僕ね、ちょっと見れもらえば分かるんですけどちょっと太ってきちゃったんですよ。

~中略~

たかし:とにかくね下半身が痩せないのよ。

斉藤:あ、いわゆる下半身デブというやつですよね。

たかし:そう。やっぱ野球やってたんでね。やっぱ痩せにくいんですよ。

斉藤:あ、そうか。野球やってるとね、お尻でかいっていうんですよね。

たかし:そうなんです。お尻でかくなっちゃって。

斉藤:じゃあちょっとでかいか見して。本当にでかいか見して。

たかし:え。

斉藤:お客さんに。ちょっと見してあげて。

たかし:すいません。(客席に尻を向ける)

斉藤:あぁ~でかいねぇ。

たかし:気持ち悪い。なんなんだよ。(かん高い笑い、拍手笑い)なんなん。

斉藤:え。

たかし:お尻が本当に大きくなっちゃったのよ。

斉藤:え、え、え、本当にちゃんと見して。

たかし:ちゃんと見てなかったの・・。(客席に尻を向ける)

斉藤:あぁ~でかいねぇ(かん高い笑い、拍手笑い)

たかし:気持ち悪い。どういう感情を抱いてるわけ。


「ナイツの漫才 THE MANZAI2011」

塙:一番好きだったのがね「ひとつ屋根の下」というドラマ一番好きだったんですよね。

土屋:人気ありましたね。

塙:あの福山正治さんかっこよかったですよ

土屋:当時デビューしたてですよ。

塙:チイ兄ちゃん(福山の真似で)

土屋:同じ過ちを何回繰り返すんだ。(笑い声)愚かだよ。

塙:その妹の小雪という名前で出ていた女優さん。元アイドルの。僕好きだったんですけどね。まあまさかああいうことになるとは思いませんでしたけどね。(笑い声)

土屋:まさかそこに触れるとは思いませんでしたけどね。(拍手笑い)

塙:まあちょっと生放送ですからね。まあちょっと「ピー」入れますけどね。

土屋:ええ

塙:のり「ピーーーー」

土屋:どこに入れてんだよ。(拍手笑い)そこだけピー入れても意味ねえから。

塙:ドラマのヘロインとしても活躍しましたから。

土屋:ヒロインだよ。(拍手笑い)そこ一番「ピー」入れなきゃいけないんだよ。(拍手笑い)

塙:あのー、えー「ひとつやらかした」というドラマ

土屋:「屋根の下」だよ。(拍手笑い)お前だよやらかしてんのはさっきから。(拍手笑い)


 まず、南海キャンディーズの事例を考えたい。「M-1」の審査員であったラサール石井は、このネタの直後に「サイに『メス。』って言うのが面白いんですよ。」とコメントしている。ラサール石井のこの発言を受けて、観客から先ほどのネタを反芻するように笑い声があがった。このネタに対して、拍手笑いをした観客の多くはラサールの発言に近い捕らえ方をしていたということだろう。では、具体的にどういう捕らえ方だったか説明していきたい。まず、ネタにおけるしずちゃんの「じゃあ山ちゃんお医者さんやって。私、火を怖がるサイやるから。」という発言がボケとなって笑いを起こしている。

共通の条件:演じる対象、概念A:ナース、概念B:サイ

しかし、確かにズレの構造は確認できるのものの、概念Bは非常に突飛に感じる。例えば『笑いの創造』で秋田が分類した笑いを創り出す方法にこのボケを説明できるものはないだろう。この発話は、『漫才入門』で言うところの「共感」を喚起させるものがまったくないため、突飛に感じるのだと考えられる。これでは、笑いの発生条件Ⅱの協調原則に観客が従わない可能性が高い。突飛に思える発話をするネタを指して、シュールと呼ぶことがあるが、このネタはまさしくシュールであると言えるだろう。しかし私は、シュールなネタは隠された他のズレ構造を有していることがほとんどであると考える。このネタを冒頭に遡ってみると、山ちゃんが自己紹介してる間にしずちゃんが意味不明な動きをするというくだりがある。このくだりにより、観客はしずちゃんのことを「突飛な言動をとる人」と受け取る。しかし、その後しずちゃんはセンターマイクの前にしっかりと立ち、山ちゃんの発言に受け答えをする。このことから、観客はしずちゃんの「手順通りネタを遂行する漫才師」としての一面を認識する。この時点で、観客はしずちゃんのことを「突飛な言動をとる人」としての一面と、「手順通りネタを遂行する漫才師」としての一面の両方を有する人物であると理解する。これが、マエフリとなっている。つまり、さきほどの「サイ」発言の部分では、下記のようなズレの構造が立ち上がる。

<ズレの構造1>共通の条件:「しずちゃん」らしい言動、概念A:ナース(しずちゃんの「手順通りネタを遂行する漫才師」としての発言)、概念B:サイ(しずちゃんの「突飛な言動をとる人」としての発言)

 この山ちゃんの「サイ」発言への対応を迫られた山ちゃんについて考える。山ちゃんは、ネタの序盤からツッコミ役に徹しながらも、しずちゃんに大して高圧的な態度は微塵もみせず、終止自由なしずちゃんを1回も否定しない。このことにより観客は、山ちゃんのことを「漫才のツッコミ役」であると同時に「しずちゃんを否定しない人」であると理解する。これもマエフリになっていて、山ちゃんの対応によって以下のようなズレの構造が発生したと捉えられる。

<ズレの構造2>共通の条件:「山ちゃん」らしいの対応、概念A:しずちゃんを注意して医者コントを中断する。(山ちゃんの「漫才のツッコミ役」としての対応)、概念B:医者コントを続行して「メス。」と指示する。(山ちゃんの「しずちゃんを否定しない人」としての対応)

 さらに、この山ちゃんの対応を受けてしずちゃんは、サイの演技を続ける。このとき、さらに新たなズレが生じる。

<ズレの構造3>共通の条件:「しずちゃん」らしい対応、概念A:山ちゃんの期待どおりサイをやめて、メスを渡す(しずちゃんの「手順通りネタを遂行する漫才師」としての発言)、概念B:山ちゃんの期待を裏切りサイを続ける(しずちゃんの「突飛な言動をとる人」としての発言)

 このしずちゃんの対応を受けて、ついに山ちゃんは「だめだー。俺こんな状況生まれて初めてだ。」とツッコむことで、山ちゃんからしずちゃんへの期待がことごとく裏切られるという今までのズレの構造が明確となり、拍手笑いが起きたと考えられる。

 今まで述べてきたことをまとめる。この「サイ」のネタは、一見すると<共通の条件:演じる対象、概念A:ナース、概念B:サイ>というシュールなズレの構造のみを持つネタであり、観客は協調原則に従わない可能性が高い。しかし、漫才を冒頭からしっかりと見ていた観客ならば、上記したようにズレの構造1,2,3を発見することができ、その結果として短時間で認知の非予期的な移行を連続して体験することになる。

 この非予期的な移行の連続こそが拍手笑いの発生の1つの要因であると考える。谷の笑いの表示機能Ⅰ[20]で述べられているとおり、笑い声は、知の非対称をあくまで間接的にしか伝えることができない。この場合においては、<共通の条件:演じる対象、概念A:ナース、概念B:サイ>というシュールなズレの構造によって笑った観客と、ズレの構造1によってのみで笑った観客と、ズレの構造1と2と3すべてによって笑った観客など、非予期的な移行の回数が異なる観客が想定できるものの、笑い声はそれぞれの非予期的な移行体験を説明しきることが出来ない。これでは観客は「認知における同調」を得ることが出来ない。そこで、複数回の非予期的な移行を経験した観客は、拍手笑いをすることによって、単発の非予期的な移行を経験した観客の発する笑い声との差別化を試みる。差別化することで、自分が複数回にわたって非予期的な移行を経験したことを他の観客に示唆するのである。この拍手笑いを聞いた観客は、自分が気づいていないズレの構造があったか再考する。再考の結果、ズレの構造を発見して非予期的な移行を経験したならば、先ほどの自分の笑い声と差別化するために拍手笑いをする。このようにして拍手笑いは広がっていき、「認知における同調」を加速させる。ここにおいて観客は、本来の笑いの表示機能を超えて認知情報を伝達しあい、通常よりも高度に「認知における同調」を行っていると言えるだろう。

 次に、トレンディエンジェルの「でかいねぇ」で拍手笑いが起きた事例を考えたい。この事例においては、拍手笑いと同時に、かん高い笑いも確認された。このときのネタの構造を安部の方法で記述するならば、以下のようになる。

共通の条件:尻がでかいことの指摘、概念A:同意・非難、概念B:同姓愛的な恍惚

 つまり、「確かにでかいな」「痩せたほうがいいよ」という発話を予想していたところに、「でかいねぇ」という官能的な呟きが行われたことで、認知の非予期的な移行が起きたと考えられる。

 同時にナイツの事例にも言及する。ナイツは、第4節に挙げた漫才と同じように、言い間違いにより意味のズレを起こしている。特異なのは、2009年、覚せい剤を所持・使用したとして逮捕された酒井法子に言及していることだ。法を犯した酒井法子や、酒井が出演していたために価値が落ちてしまったドラマ作品を嘲笑にするニュアンスがこのネタには確かに存在するだろう。

 このトレンディエンジェル、ナイツの拍手笑いが起きた事例や、よしもと∞ホールでかん高い笑いが起きた事例においては、漫才の発話の中に性的なニュアンスや、人を中傷する言動が見られる。こうした、性的であったり攻撃的な言動は、日常生活においても受け取る人によって非常に好みが分かれる言動だと考えられる。

 ここで、谷の上げた笑いの表示機能Ⅱ[21]を思い出してほしい。さらに、第3章第3節でも述べたとおり、お笑いライブにおいて観客は、芸人や他の観客との協調原則に従うことを強制されない。観客はいつでも協調原則から逸脱しても良いし、また参入しても良いということだ。性的、攻撃的で好みが分かれる言動が漫才で行われたとき、観客は、この協調原則から逸脱するという選択肢と、協調原則に参入しようという選択肢を強く意識することになる。その結果、協調原則に従うと選択した観客は、協調原則からの逸脱・参入を意識しなかったときと異なる笑いを発することで、自分が選択したという事実を強調するのではないだろうか。協調原則への参与を強調するため、拍手笑いやかん高い笑いをするということだ。

 3つの拍手笑いが起きた事例から、「谷の言う笑いの表示機能を越えて、表示する必要性が高まったとき、人は拍手笑いをする」という私の仮説を検証してきた。もちろん拍手笑いが起きたすべての事例を吟味したわけではないため、この仮説は実証したとは言えない。しかし、少なくとも上記の3つの事例において、観客は本来の笑いの表示機能を超えた意味内容を自身の笑い声に込めていたと考えられる。それは、通常よりも高度に「認知における同調」が行われたとも捉えられる。そして、「認知における同調」と同時に、強調された笑い=拍手笑いが行われることで、シンコペーションも高まり、「リズムによる同調」もピークに達する。このように、拍手笑いが起きるということは、笑いの表示機能を超過した事態であり、「認知における同調」と「リズムによる同調」もこのときピークに達するのだと言える。

 


終章 結論


第1節 結論

 本稿では、お笑いライブで芸人と観客が一体となって同調する姿を描写しきることを最終目標として論を進めてきた。第1章で笑いの表示機能と発生条件を探ることで、観客の認知における事態を理解することができた。次に第2章で、笑い声が「リズムによる同調」と「認知における同調」をライブの参加者にもたらすと論じた。このことにより、お笑いライブにおける一体感と快楽を描写することができた。そして第3章では、ライブにおいて同調を引起すために芸人が様々なワザを駆使していることを論じた。芸人がワザを有していることは、「絶対的に面白いネタで観客が笑わされる」という従来的な考えの根拠とはならない。むしろ、観客が同調を引き起こすかどうかの最終的な決定権を持っているからこそ、芸人は様々なワザを獲得してきたのだと考えられる。この芸人のワザに関する考察によって、ライブにおける観客の主体性を浮き彫りにすることができたと言えるだろう。ここまでのお笑いライブへの考察で見えてきたのは、芸人と観客とがお互いせめぎあいながらも同調を目指す姿である。「芸人が絶対的に面白いネタによって観客を笑わせる」という従来的なお笑いライブ理解よりも現実に則した姿を描写することに成功したと考える。


第2節 本稿の限界・今後の課題

 本稿の限界を示したい。1点目は、第2章第2節において笑い合う人と人とに間に「リズムによる同調」があると論じたが、その根拠を実験によって確立できなかった点だ。本稿で挙げたバードウィステルによるフィルム研究の手法などを用いれば、笑い合う人々との間に同調が確認できるかを実験することが出来るかもしれない。2点目の問題点として、第3章第3、4節における芸人の発言のサンプル数の少なさが挙げられる。本稿では、インタビュー記事やブログ、ラジオなどによる芸人の公的な発言を探すに留まった。しかし、芸人の事務所で長期フィールドワークを行えば、さらに多くの芸人の発言を得ることができ、様々なワザの発見に繋がると考える。3点目の問題点は、第3章第5節で拍手笑いを語りつくせる新たな笑い論を提示できなかった点だ。本稿ではあくまでも谷の理論を土台にして、それを逸脱するものとして拍手笑いを理解するに留まった。しかし、谷の理論に代わり、拍手笑いも語りつくせるような新たな笑い論を構築することが、さらなるお笑いライブ理解には欠かせないと考える。

参考文献

 

秋田實(1972)『笑いの創造―日常生活における笑いと漫才の表現』日本実業出版社.

元祖爆笑王(2008)『ウケる笑いの作り方、ぜんぶ教えます 』リットーミュージック.

谷泰(2004)『笑いの本地、笑いの本願_無知の知のコミュニケーション』以文社.

野村直樹(2010)『ナラティヴ・時間・コミュニケーション』遠見書房.

マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ、みち(2010)『東京ポッド許可局~文型芸

  人が行間を、裏を、未来を読む~』新書館.

A.モンタギュー、F.マトソン訳吉岡佳子(1982)『愛としぐさの行動学』海鳴社.

E.ゴッフマン訳佐藤毅、折橋徹彦(1985)『出会い 相互行為の社会学』誠信書房.

アンリ・ベルクソン竹内信夫訳(2011)『笑い 喜劇的なものが指し示すものについての試  

  練』白水社.

ショーペンハウアー西尾幹二訳(2004)『意思と表象としての世界』中公クラシックス.

安部達雄

(2004)「笑いとことば 一漫才における「フリ」のレトリックー」 『文体論研究』第50号 日本文体論学会.

(2006)「漫才における「フリ」 「ボケ」 「ツッコミ」のダイナミズム」『早稲田大学大学院文学研究科紀要.第3分冊, 日本文学演劇映像美術史日本語日本文化』vol.51, pp.69-79,.

北村光二

(1983)「対面的相互作用におけるコミュニケ-ション--「笑い合う」ことと「一方だけが笑う」こととの対比を手がかりに」『季刊人類学 』14(1), p3-27, 1983-02-00 京都大学人類学研究会.

(1989)「コミュニケーションの行動理解」『応用心理学講座11 ヒューマン・エソロジー』福村出版.

野澤豊一(2010)「対面相互行為を通じたトランスダンスの出現」『文化人類学』 75(3), 417-439, 2010-12-31 日本文化人類学会.

 

参考資料


<WEBサイト>

exciteニュース「賞レースで勝てない芸人は内輪ネタしかやってない、それはネタじゃな  

  い『ナイツ』塙宣之に聞く2」2013年5月28日付(最終閲覧2015年1月20日)

  http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20130528/E1369677194459.html.

オール巨人の日記2006~「M-1・寸評・総評?」2008年12月23日付(最終閲覧2015  

  年1月20日) http://nikki-2006.seesaa.net/article/111579540.html.

<テレビ>

「THE MANZAI 2011」フジテレビ2011年12月17日放送.

「THE MANZAI 2014」フジテレビ2014年12月14日放送.

<ラジオ>

「JUNK バナナマンのバナナムーンGOLD」TBSラジオ2014年4月18日放送.

<DVD>

「ナイツ独演会 其の二」Contents League2012年01月11日.

「ナイツ独演会~浅草百物語~」Contents League2013年01月23日.

「ナイツ独演会 主は今来て今帰る。」Contents League2014年01月22日.

「NON STYLEにて」よしもとアール・アンド・シー2008年02月13日.

「NON STYLE NON COIN LIVE in さいたまスーパーアリーナ」よしもとアール・アンド・  

  シー2011年03月09日.

「M-1グランプリ2004完全版」R and C Ltd.2005年04月27日.

「M-1グランプリ2008完全版 ストリートから涙の全国制覇!!」R and C Ltd.2009年03  

  月31日.

<ライブ・寄席>

「遊園地で落語と漫才! らんらん寄席 文治&ナイツ」2014年11月22日.

「彩~irodori~East Live」2013年11月16日.

2014年2月6日.

 

 



[1] 詳しくは『笑いの本地、笑いの本願』を参照されたい。この事例において高橋が笑わなかった理由も言及されている。

[2] キューバの音楽。野村は、クラーベの不等間隔なリズムは他のビートと相互作用することでスピード感をもち、うねりを作り、時間がゆがむ感じを与えると説明している。

[3] 以下で挙げる研究は、モンタギュー『愛としぐさの行動学』で紹介されたものだ。

[4] 遺伝子がつくる体の時計、山口大学時間学研究所セミナー(於:東京港区田町、12月18日)。

[5] 2013年11月16日19時開演 ネタ時間各3分ほど。


[6] 谷の理論における笑いの発生条件に沿うような事態を誘発するものをボケとする。詳しくはこの節の後半で論じる。

[7] 「NON STYLE NON COIN LIVE in さいたまスーパーアリーナ」2012年12月23日。

[8] 談志の楽屋@クラウド 第3話 談志が途中で降りちゃった夜(https://shop.dze.ro/contents/34)。

[9] 漫才の始祖と呼ばれるエンタツ・アチャコについた漫才作家。


[10] 元祖爆笑王:放送作家、演芸作家、演芸プロデューサー。

[11] 東京アナウンス学院で行われた芸人養成の講義の内容をまとめたもの。

[12] その<自己の認知環境での非予期的な移行>経験を、基礎レベルでの事態:不一致としてとらえ、その知に関する自他間の非対称性を視界におさめる。

[13] 会話の参与者が暗黙裡に相互批准しているとみなされる協調原則を遵守しようとするモードにある。


[14] 「賞レースで勝てない芸人は内輪ネタしかやってない、それはネタじゃない『ナイツ』塙宣之に聞く2」2013年5月28日付 exciteニュース

(http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20130528/E1369677194459.html)。

[15] 「JUNK バナナマンのバナナムーンGOLD」TBSラジオ2014年4月18日 。

[16] 「M-1グランプリ」「THE MANZAI」「キングオブコント」「R-1グランプリ」など、ネタで芸人の1位を決めるテレビ番組。

[17] 『オール巨人の日記2006~』「M-1・寸評・総評?」2008年12月23日付

(http://nikki-2006.seesaa.net/article/111579540.html)。

[18] 2008年12月14日配信のpodcast『手数論』が、『東京ポッド許可局~文型芸人が行間を、裏を、未来を読む~』という書籍として書き起こされたものを抜粋した。

[19] 脚注5と同じライブ。

[20] 認知的自己表示機能:{<わたし>は<いまここ>で、基礎レベルでの事態:不一致の知に関する自他間での非対称性という視界のもとにある}という自己の認知的事態について自己言及的表示をすることで、<わたしだけが知っている、他者が知らないわたしの想定>がなんであるかを間接的に示唆する。

[21] Ⅱ相互行為上の自己表示機能:暗黙裡に相互批准しあっているとみさなれているコミュニケーション上の協調原則に<わたし>がしたがっていることを表示しているのである。


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