2020年4月7日、情報の食あたりを起こす人

情報の感度とか、アンテナを張るとか。

情報の上流に陣取り、それをどうやって下流に流そうかっていう、そういう判断をする能力。


そういう能力って、時代を読む上でとても必要になる。

そしてそれって、やっぱりマスコミだとかメディアとか。あとは何かしらの舵をとる立場の人はそれをし続けるものなんだと思う。

この、アンテナを張り続けるっていうことは案外体力が要ることなんだなっていうことを、今の流行の渦中において感じている。


自分が情報の上流に居て、そこから離れてみて。僕はどうしてここに居られなくなったのだろうと考えたときに、安直に「不規則な生活リズムだったから」っていう、それらしい答えを見つけて、自分にも周りにも、そうやって言い聞かせてきた。もちろん、不規則な生活リズムは精神的な安定を奪うのだけど。

だけど、きっとそれだけではないのだと思う。情報の上流に居続けることが体力を奪う。それは、川の急流域を立っているのでは体勢を保つのが困難なように。

情報の上流では、勢いが急で、エネルギーが大きい。それは、メディアが(意識的なのか無意識的なのかはわからないけど、)かけるフィルターを介さないからなのかもしれないし。新鮮すぎる情報を食べてしまってはお腹を下してしまう。

下流で情報を受け取っていた人は、新鮮すぎる情報の消化酵素をおそらく持ち合わせていない。

ソーシャルメディアを眺めていて、心の余裕を失った言葉に遭遇することが多くなったように思う。

これってやっぱり、みんな新鮮すぎる情報を食って、食あたりを起こしているのだと思う。急流で立つ体力がなくなり、よろけてしまったのだと思う。

これをこれまでやってきたのが、情報の上流に陣取ってきた人なんだけど、下流に居た人がみんなして上流に押し寄せている。判断力もないのに。

そしてその大群は、上流の先住民に対して銃を突きつける。するとどうなるかというと、情報が下流のものに取り上げられる。

情報は麻薬のように、もっと強いものを、もっと強いものをとエキゾチックさを求めさせる。

今の日本の情報の流れ方は、人々がメディアに対して、「もっと悲惨な言葉を発してくれ!もっと!もっとだ!」そんな形で出させているような気がしている。どこかしらで、それを期待している。自分は正常、正義で居たいからなのかもしれない。

きっとこれが、"非常"という言葉の恐ろしさなんだと思う。いかに今の状態を日常だと捉えられていないのか。当事者意識があれば、きっと今を日常だと思えるはず。

今日宣言が出されて、はてさてこれから人はどちらに動くのか。

保守だと言い張っている人は、その盲目的な正義感によって他の人にとっての正しさを拒絶していないだろうか。リスペクトするつもりはあるだろうか。

ここに居続けることが最も良い選択肢だという、その揺るぎない自信はどこを見回してなのだろうか。

決断をする人は、流れの速いところで立ち続け、情報を吟味し、起こりうるあらゆるリスクを読み、その上で腹をくくっている。


僕は支持をする。

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