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近況報告

3年前の夏、愛すべき姉さん猫が亡くなり、
一昨年の秋、愛すべき弟くん猫が亡くなり、
去年の春、義父が亡くなり、
去年の夏の終わりに、実母が亡くなりました。

まあまあいろんな「死」と向かい合ってきたつもりですが、やはり自分の生活・人生の多くを捧げてきた対象がこうも続けていなくなるのは、なんというかこう……やるせないものですね。
愛猫も親たちも、もうそれなりの年齢だったので、いつどうなってもおかしくはないと覚悟はしていました。
今日と同じ日が明日も続くとは限らない。
猫たちを膝に抱くたび、親たちと会話するたび、これが最後になるかもしれないと、いつも思ってました。
でも……彼らがいなくなった後の自分の感情の置き所、までは想像してなかった。
失う恐怖や寂しさは何度も何度もシミュレーションしていたけど、その後に続く自分の日常のことはすっぽり抜け落ちてたんですよね。
(義父の場合は退院後の介護生活を覚悟していた入院中の死だったので、正直ホッとしてしまった自分もいるわけですが)
とりあえず埋葬、葬式、片付けとバタバタと新しい日常の準備におわれ続け、一息ついてみたら家族から「かなりダメージを受けてるのでは……って心配したけど大丈夫そうだね」って言われて、アレ?って思って。
悲しみがないわけじゃない。後悔しないわけがない。でも今、言葉にしようとしても何かが違う。何か、喉が詰まるような苦い感情の塊だけがある。
誰かが「あのとき、ああすればよかった」「こうしてあげたかった」と言ってきても、私は黙って頷き返すだけで、何も言えない。
感情をしまいこむことばかりに意識が向いてて、煮詰まってしまった感じ。
たとえるなら、片付けることに夢中になって、目の前にあるものを無差別に押し入れに放り込みすぎた部屋。きれいに見えるけど、何をどこに入れたのかしまいこんだのか、見当もつかない状態。

言葉が出なくなりました。
身近な人や、連絡が必要な人、リアルに会う人にはそうでもないんですが、Twitterとかで会話ができる気がしなくなってしまった。
いや、でも、日常は普通なんです。
推しのこと考えるのは楽しい。見るのも楽しい。
言いたい。
のに、文字を打ってポチっと押せない。
できない期間が長くなってしまって、ますます押せない。

そういう状況をそろそろ打破したいなあって思って、いまこうしてキーボードに向かってます。

ちなみに、猫たちは病気を抱えつつも最期まで頑張ってくれました。
後悔は、最期は抱いて静かに看取りたいと思っていたのに、どちらも病院へ駈け込んでしまい、息を引き取る瞬間に傍にいてあげられなかったこと。車で2,3分の場所に病院があるから、つい助かってほしい一心で行ってしまった。もっと早く行ってたら助かったのかも、いや、慌てずにしっかり抱いて看取るべきだった、と行ったり来たりしてます。今も。
母は突然倒れ、救急車を待つ間に亡くなりました。人生初の心臓マッサージの相手が母になるとは思ってませんでした。自分の手の下で命が消えていくのを感じたときの無力感。まだ意識があったのか、もう無意識だったのか、私の腕をぎゅうっと強く握ってきた感覚が、今も消えません。
死因を聞いたとき、心マをしたのは間違いだったんじゃないか、苦しめただけなんじゃないか、と思いましたが、救急隊員の方も心マしてたし、あの時点で母の体内状況がわかるわけもなく、そうするしかなかったのだけれど。

亡くなった人のことを思うと、あの世でその人に花が降り注ぐ、という話を聞いたことがあります。
今ごろ、母や義父母や愛猫たちは花吹雪の中にいるのかなあ、と思うと少し微笑ましい。
猫たちが埋まっている庭には、いまパンジーが咲いています。暖かくなってきたら、もっともっと咲いてくれるといいな。

最初の画像は、弟猫くんが家にやってきたころの写真。姉さん猫はひたすら構い倒してました。ボケボケですみません。

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