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「わがまま」って何だろう

昨日、とある日本人同士の友人たちとの一幕。
友人A:(とある共通の知人を話題に出して)自分たちのコミュニティの中では、あの人が一番すごいよ。
友人B:・・・なんか今の傷つく。だって、私は皆すごいと思ってるし、なんか比較されてるみたいで。
友人A:いやとはいえ、まああの人はすごいでしょ。まーある意味ではあなたが一番すごいと思ってるよ(笑)

とまあ、しゃんしゃんと終わった会話なんだけど、私は個人的に、友人Bがすごいな、と思わずにいられなかった。
一つは、恐らく多くの人が少しだけもやっと感じるけど、恐らく気づかずにやり過ごしてしまうその小さな心のモヤモヤに即座に気づけたこと。もう一つは、面と向かってそれを友人Aに伝えたことだ。

多くの日本人は、この二つがとても苦手だ、と私は日々感じている(少なくとも日本人女性の多くはそうなのではないか、と三十うん年の経験から勝手ながら思っている)。
もう少し話を広げると、個人レベルでなく社会レベルで、「なんだか違和感があること、誰かを傷つけているかもしれないこと」にも、日本人はとても鈍感な気がしている。少しもやっとしても、周りの人が受け止めているならそれが普通なのかな、と流してしまう。近年のわかりやすい例で言えばジャニーズ問題もまさにそれだろう、と思っている。

一方で、米国にいた頃や外資系企業の中では「それって違うんじゃない?」と誰かが感じ、声を上げるという瞬間をもう少し頻度高く目にする機会があると感じている。

この違いの根本には、もちろん社会の多様性や歴史や色々なものが積み重なっていると理解しているので壮大な話は専門家に譲るとして、再び一個人レベルに立ち返った時に、私たちの多くが自分の「ちょっと傷ついた」に鈍感になり、声をあげなくなっているのはなぜだろう。

私は、一つは日本人の「わがまま」という言葉の使われ方にあると感じている。この国では、その場にいるコミュニティの人の行動と足並みを揃えないこと(それは、何か「行動を起こす」、ということだけでなく、何も「行動を起こさない(例:口にしない)」も含む)が簡単に「わがまま」と呼ばれるように思う。私が時にこれを暴力的だと感じるのは、時にこの言葉が、ある行動を起こしたことの正当性を吟味せずに「少数派だ」という背景だけで用いられることだ。

「わがまま」がネガティブな意味ということを前提とすると、その言葉を向けるか否かの境界線は、それが客観的に見てフェアか否か、であり、フェアなラインを超えた過剰な要求を続ける人に対して用いられるのが正しい使われ方だと思う(実際、米国での"Selfish"の用いられ方は、日本に比べるとそのラインに近いと感じる)。それに対し、日本では少し周りの人と違う行動をした、違う主張をしただけで、その正当性に関わらず、「わがまま」(あるいはややぼかして「自由」「変わっている」)と言われることが多いと感じている。場合によっては、1対1の場面で、権力のある側がない側を攻撃する時にもやたらと用いられる。この国に暮らしながら、時折窮屈だなと思う場面である。

話を冒頭に戻す。かくいう私も、この国に生まれ育ち、ほんのちょっとの違和感に、本当に鈍感になってしまった。そう感じること自体、「わがまま」と言われたり、言われるかもという恐怖に染まっているのだと思う。この暴力的な「わがまま」の乱用と、そこから生まれる恐怖の正体に、もう少し目を向けてみることにしよう、と思う。

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