親の介護と自分のケアの記録 その19

親に由来すると思われる生きづらさを抱え(いわゆる宗教2世当事者という側面もあります)、2021年3月からカウンセリングに通い始めました。
これから介護などの必要が生じて親と向き合わなければならなくなる前に自分の問題を棚卸ししたい。
そうカウンセラーに伝えた矢先、母が脳梗塞で入院することに。
自分を支えるために、その経過を記録しています。

このところ、以前よりもだいぶさらさらと投稿できるようになった気がしていた。
以前は、吐き出したいものが自分の中でぐるぐる渦を巻き、出さないとどうにもこうにもしんどくなってからようやく吐き出す、みたいなことが多かった。
そういう慢性便秘みたいな出し方が少し改善されてきたかも、
これからは淡々と記録していきたい、
と思っていたが、ここ最近、またふん詰まり的状況に逆戻りしている。

ある程度ためてから出す、というのは私の癖のようなものだ。
体内に何かがたまってきたら、その都度ぽとんぽとんと出していったほうが楽だとは思うが、長年の癖だから、そうしたくてもすぐにはできないのだろう。
あと、たまっていて出したほうがいいのに、出すのではなく、逆にどんどん入れてしまう、ということもやりがち。これも長い間の癖だ。
まずは癖を自覚し、こまめに出す練習をしていきたい。

最近、練習ということばを気に入っている。
5月から始めたオンラインの朝ヨガレッスンの先生が、口癖のように「○○の練習をしましょう」と言う。
それがいい。
おっとりした話し方も好き。
うまくできなくても、練習の途上なんだから、いいのだ。
という考え方が私には新鮮。
ヨガのみならず、生活全般に取り入れたい。

実家へは、変わらず定期的に通っているが、都度記録を書き留めなかったら詳細を忘れたので、今回は実家に行ったことの細かい記録は割愛する。
母との大きな衝突もなく、わりと淡々と通えていた。
次回からこつこつ記録できればいい。

今回は、なんとなく書き留めておきたいことを、とりとめなく書いておきたい。

6月下旬
ある方に話を聞いてもらった。
いつものカウンセラーさんとは別の方。
母との関係がメインの話題になった。
初めての方にKのことを話すときは、やはりかなり緊張している自分がいた。

聞き手の方はあいづちや問いかけがかなり少なくて、戸惑った。
長い沈黙があっても、相手はじっと黙ってこちらが話すのを待っている。
こういうとき、私は「察してほしい」と思ってしまう癖がある。
ずっと通っているカウンセラーさんに対しても、「察してほしい」と思ったことがある。
夫に対してもよく思う。
冷静に考えれば、相手は私が何を言いたいかをわかるわけがない。
どんなに言葉にするのが苦しくても、それを相手に伝えたいのなら、どうにかこうにか言葉を絞り出して相手に伝えようとしなければどうしようもないのだ。
その方と話をしながら、そういう自分の甘え癖を痛感した。

…とはいえ、沈黙が多くなりつつも、ぽつりぽつりとそれなりに話せた。
母のバックグラウンドも含めて聞いてもらえたのはよかった。
が、終わったあと、聞いてもらえてすっきり、というよりは、むしろモヤモヤが強くなった感じがした。
今もまだ消化不良な感じ。
でも、聞いてもらえてよかったとは思っている。

その帰り道、なんとなく真っすぐ帰りたくなくて、少し近かったので、新宿ベルクで一杯飲んでから帰ろうと立ち寄ろうとするも、「注文の際にはマスクの着用をお願いします」という注意書き。
その日、私はマスクを忘れて外出していた。
それでなんとなく気後れしてしまい、仕方なく隣の立ち食いそば屋へ。
サラダそばみたいなものを頼んだが、冷たいそばにサウザンドレッシング?みたいなものがドバドバかかっているだけ。
端的に、これはまずい…と思った。
普段、わたしは食べ物を残すことは本当にまれだが、
これは残してもいい、無理に食べなくていい、と思い、残した。
こんなに食べ物をまずいと思ったのは、かなり久々だと思う。
今もそのまずさを思い出せる。
(以前そのそば屋に入ったときは、立ち食いそばとして普通においしかったので、そば屋を悪く言うつもりはない。そのメニューがイマイチだったのだと思う)

そんなこともあって、モヤモヤする気持ちと相まってどんどん気持ちが落ち込み、帰りの電車の中では涙が出てきたりして、ちょっと情緒不安定なひとになっていた…


その数日後は、仕事帰りに2カ月に一度の整体。

先月から、私が担当してもらっているNさんが、母の整体指導をしに月イチで実家に出張してくれることになっていた。
一度母を整体の道場に連れていったとき、玄関までの石畳を車椅子で
走行すること、玄関の段差を上がることに予想以上に苦戦したため、Nさんが「出張もできますよ」と母に提案してくれた、という経緯がある。
ありがたい話ではあるが、Nさんに母のあの部屋、Kのものがところ狭しと置かれているあの部屋に来てもらうことに対して、申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちがあった。

整体を受け終わり、帰り際、おずおずと、「母のあの部屋、大丈夫ですか……?」と聞いてみた。
Nさんはにっこり笑って「全然(大丈夫)」と答えてくれた。
少しほっとして、「それならよかったです。……わたしはあの部屋、かなりしんどいんで」と言うと、Nさんは「しんどくなったら逃げて、そこは大丈夫な人に任せればいいんです」(もっといい言い方だったように思うが、忘れてしまった)みたいなことを返してくれて、その言葉にとても救われた。
「……そうですね。ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします」と、心からそう思って頭を下げた。

いよいよ帰ろうとしているとき、Nさんがくすっと笑い、
「ショウコさん、なんだか子どもみたいでかわいいなと思って」
と言った。
真意がわからず、「はあ、そうですか??」となりつつ帰った。
その言葉が気になったのは、私は「子どもみたい」とか「幼く見える」、「若く見える」というようなことを言われたことが今までほぼなかったからだと思う。
子どものころから、「落ち着いている」、「大人っぽい」、「老けて見える」と言われ続けてきた。
ほぼ初めて「子どもみたい」と言われ、「え、どういうこと?」と狐につままれたようになってしまった。

この一連の、時間にして1分程度の会話が、妙に心に残っている。


そして、7月中旬には、実家の帰りに2カ月に一度のカウンセリング。

このごろのカウンセリングでは、以前より口ごもることが減り、比較的なめらかに話せるようになっている。
それでも言葉がうまく出てこないことはあり、その出てこなさ加減によって自分の中のこんがらがりを再認識できるのはいい。

・母との会話ではいつも同じパターンを繰り返していたが、先日初めていつものパターンに陥らず、新たな展開を感じた
・金川晋吾『いなくなっていない父』を非常に面白く読み、そこに描かれていた著者とその父親との自他境界の引き方に感銘を受けた。そこから自分を引き比べてみると、親との間の自他境界線がかなりあいまいな気がする

ということが主なトピックとなった。
少しずつ何かが前に進んでいる気がする。


ほかにも、読んだ本とか、見た映画とか、書き留めておきたいことはいろいろあるが、どこまでも長くなりそうなので、いったんここで投稿してしまおう(どこかで区切ってとにかく出してしまう、というのも、なかなかうまくできないが、これも練習あるのみだ)。

下記の引用は、以前読んで、日頃の自分のモヤモヤにかなり近いことが見事に言葉になっていると思い、書き留めておいたもの。
同じ本にあったマイケル・ジャクソンの話も、いつかまた読み返したい。

 死ぬことも、今は、生活の場にはないから、やっぱり怖いもの、と思ってしまう。近年、自宅で配偶者を看取った。思い起こしてみれば、「怖いこと」はもっと別の時期にあり、死にゆく人に寄り添い、看取ること自体は、怖いことではなかった。正直言って、もっと、怖いことを経験するのではないか、と思っていたが、死にゆく人に寄り添うことは、寂しいけれど、自分自身が励まされるような、おだやかな経験だった。

 たった一人を看取っただけだが、開業助産師さんたちの話を思い起こしながら、死もまた、生まれることと同様に、おだやかにその場に立ち会えば、おそろしいものではなく、残った人間に先に行く希望を残してくれるものではないか、と、つらつらと考えた。

 とはいえ、人類は、怖い出産や、怖い死も、もちろん、体験してきたのだ。頻繁にではないにせよ、怖い経験は、あったと思う。確かに。どうしようもない、怖い出産もあっただろうし、苦しむ死にゆく人に何かできないのか、と身悶えする経験もあったことだろう。

 怖い経験としての出産も死も、確かに経験されてきたと思う。だからこそ、そういう怖い体験によりよく対処しようとして、わたしたちは、精緻な近代医療や福祉の体系を作り上げてきたのだ。緻密な医療の体系は、だから、数少ない、怖い体験のためのものであったはずなのに、いったん体系が出来上がると、わたしたちの意識は、すべて医療の対象となる「怖い」ところだけに照準を当てるようになってしまう。そうなると、ほとんどの生まれることと死ぬことは、怖くはなかったということは、意識の外に置かれ、忘れられてしまう。「意識の外」に置かれると、わざわざ意識を作り上げないと、取り戻せない。豊穣の経験であること、は、また、作り上げられなければならない、新たな「意識」となってしまうのである。

『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』三砂ちづる P158-159

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