『言葉を失ったあとで』抜き書き

信田さよ子・上間陽子『言葉を失ったあとで』

信田 また日本の臨床心理学の多くはフロイトに依拠してきました。フロイトの精神分析は中立性を基本にしています。passive neutralというんですかね。どちらかではなく、両方を俯瞰的にとらえる立場に治療者がいるという前提が、中立を意味します。だから中立・客観はむしろ当たり前の前提なんです。

 私はそれは無理ではないか、その場合の中立は必ず「力のある側」「強い側」に与してしまうのではないかと思っています。暴力の問題は中立性にこだわると扱えないし、被害者に問題があるように見えてしまうでしょう。

 そこに至った個人的経緯をお話しします。AC(Adult Children of Alcohorics/アルコール依存症の親のもとで育ったひとたち)と自認した女性とのカウンセリングでお話を聞いていたとき、「このひとちょっとオーバーに話しているんじゃないの」みたいな気持ちが、突然湧いてきたんです。 夕方になって疲れていたんですが、初めてのことだったので、そういう自分にすごいショックを受けて。どうしてこんな気持ちになったのだろう、ありえないとずっと考えていて、その日の帰り道、ハッと気づいたんです。ああ、あのとき、少し疲れていた私は俯瞰的になろうとした、中立的な立場で聞こうとしていたんだと。つまり私のポジショナリティによって、聞こえ方がちがったんです。これは大きな発見でしたね。

 もうひとつ気づいたのは、私が中立的になろうとして聞いたとき、目の前に座っているひとの口調が明らかに変わったことです。私のポジショナリティ・位置取りの変化は、相手にすぐわかったんですね。それまで自分の言うことを信じて聞いてもらっていた、味方だと思っていたのに、変わってしまった、唯一の味方だと信じたのに、裏切られたと思ったのでしょう。

 この経験は、カウンセラーであることの基本は位置取りにあると気づかせるものでした。中立とか客観というものが、加害者寄りになってしまうんだと実感した最初でしたね。それからは、世間が何と言おうと、カウンセラーだけは味方にならなければと思うようになりました。これが1994年のことでした。

(P17-19)

上間 学校で起きてるのは、子どもたちに対して、「ゼロ・トレランス」という徹底した寛容ゼロの考え方が入ってるんですよね。私は教職の科目である生徒指導の免許を出すために雇われている教員なんですけど、少年の凶悪犯罪がいくつか起こり、それが実況中継のような形でテレビで放映されたあと、若者嫌悪=ユースフォビアが時代のムードになりました。

 そのときに、アメリカでも銃乱射事件のあとで若者は怖いというなかで、ゼロ・トレが学校現場には導入されます。日本でも同じですね。事件のあと社会不安が高まり若者が問題だとされる。いま学校現場では、あらかじめの約束を守らなかったら罰せられますということが、入ってきてるんですよね。

 もうひとつが、スタンダード強化です。沖縄では全国学力・学習状況調査、いわゆる「学テ」の点数をあげるという動きとセットになって入ってきてますけど、「何々小学校の子どもはこういう子です」とあらかじめ学校が決めている。「こういう子」というのは、「朝は明るく挨拶をします」とか、「廊下は走りません」とか、子どもが決めたわけではない、大人が考えたきまりがあらかじめ決まっていて、それに基づいていろんなことがなされる。

 校長便りに明記されており、鼻高々の校長もいますよ。公表しているんですから。これをきちっと守らせていたら、評価される文脈がつくられているので、教師たちは子どもの声を聞く力を失くしますよね。だって、子どもがそこからはみ出すことをしたとき、それをキャッチできない自分であることに教師が反省的にならない。

 逆に、子どもの声を聞く教師たちが苦悩しています。同僚集団から認められないなかで教育活動を行っていくのは、とても難しいことです。子どもを中心に置くと決めた教師は孤軍奮闘しています。学校の聞けなさはそういうことかなあと思います。

(P60-61)

上間 宮台(真司)さんが援助交際のことを話しはじめていて、「性の自己決定論」というのが出てきて、今のSWASH(セックスワーカーとして働くひとたちが安全、健康に働けることを目指して活動するグループ)とかに連なるような方々が性的なことがらの売買は個人の自由であり、そうしたことがらの決定は個人差が大きいという話をしていました。宮台さんもそういう話を出してきましたよね。

 本当のところ、どうなってるのかなというのがあり、高校生たちに直接聞いてみたいなというのがありました。3年間ですかね、23区内の女子高校、『東スポ』などで「ナンパ率が高い学校」にランキングされる高校で調査したんです。すごかったですよ、その、差別的な視点というのは。援助交際はあったんです。でも、性規範から自由とかそういうのはなく、性の自己決定論の論者たちが言っていることとは違っていた。

 印象的で象徴的なことですが、「その体験は、レイプだなあ」って思っている子から、「でも、そのあと付き合ったからレイプじゃない」「私は好きって決めたら、それが好きなんだよ」っていう説明をされたんですよね。先生が、それは性暴力だっていう話をしたら、いやそうじゃないって。私は、好きって決めたら、それが好き。関係を持ったこの男のひとを自分は好きって決めた。だから、これは好きなひととの関係なので性暴力じゃないって。

 なんて言ったらいいかな、「ああ、こういう世界だったか」って思いました。本心から大好きだと思っているふたりがいる、そのふたりが決定してそのひとと性行為をするという順番立てがあるはずだと、そういうかたちでセクシュアリティは構成されていると私たちは教わりますよね。そういうんじゃないんだなあ、そういう性規範というものが無効化されている女性高校生たちがいる磁場というのが、染みるようにわかっていくというか。

 そういうところにいる高校生たちが、「あっけらかんとしている」「傷んでいない」「みんな自分で決めることができる」と、論壇ではそう話されていました。でもやっぱりそうじゃない。援助交際してもまったく平気という話ではない。

 そもそも自分の性的価値というものをめぐって、教室のなかではすごいパフォーマンス競争があったんです。ナンパされている経験、自分にはこういう体験があるとか、それこそ声をかけてきたおっさんがこんなふうに自分に連絡くれたんだけど、そのひとのことを「すごい馬鹿な親父」だと思っているんだ、自分は邪険にしているということを、パフォーマンスとしてする。そうやって教室のなかでグループの居場所を確保したり、自分の承認欲求みたいなものを満たしていく。「性的な自己決定権」の中身は、こうした闘争とセットでみられるべきだと思いながら教室に通っていました。

(P86-88)

信田 私が、性の自己決定権にいつも抱いている違和感があるんですけど、「好きって決めたら好き」っていう言葉にすごく表れていますよね。なるほど、限られたあらがえない範囲でしか生きられないけど、好きって決めたことで選択の範囲になる。それはとても納得がいきました。

上間 その言葉を発しているときに、どのような場所から何を語っているのかという分析は必要だと思います。そこで話されていたのは、その認識の枠組みのほうがまだいい、だから採用するということです。

 もちろんそこに、当事者の強みはみることができます。要するに、ある認識を採用するという強さです。ただそのときに、社会調査はなぜそれが選び取られているのかという、そのひとの背景を示せないといけないのだと思います。

(P91-92)

上間 2011年に風俗店オーナーたちに打越さんと一緒に会って調査させてほしいというお願いをして、12年から業界で働いているひとに話を聞いてきました。沖縄において業界で働いている方からお話を聞いていて感じるのは、本人たちが性規範から自由になっているというよりも、「こう割り切ったほうがいい、そのほうがずいぶん楽になれる」といった話なんです。
(中略)
 調査をしてわかったことは多いです。たとえば、外からではわからないんですが、働いている女性たちをヤクザが「持ち帰り」しているお店とかがあるんです。そのお店で働いている未成年の子が話を聞いているときには、「自分は怖いひとが好き」って言っていたんですね。「だからヤクザなんて怖くない」「持ち帰りされてそのあとセックスしたけれど、なんとも思ってない」「帰りに5万円もらえてラッキーだった」。私はもちろん、「へえー」「へえー」「へえー」って話を聞いてるんですけど。

 でも、そういう子が、次に安全なお店で働くようになって、ヤクザも来なくて、持ち帰りもないというお店に所属するようになったときに、「前のお店はひどかった」と言うんです。つまり、ひとは差異でもって、リスクとか不快の話をするんだということなども時間をかけるなかでわかりました。

(P93-94)

上間 2011年に風俗業界のオーナーたちの話をまず聞いたんですよね。どうして調査したいのかのお願いもそのときにしたのですが、彼らは「買う」んです。それで「買う」話を聞いてわかったのは、実は何も考えてないんだなっていう。

 彼らは、ざらりともしない。風俗店のオーナーは、外では言わないですけど、お店の子と性行為をしてる方も多かった。客がこなくて、時間が空いたからしちゃうみたいなひともいるんですよね。恋人が複数いる方もいました。その話を聞いていて、立場を逆転させても何も出てこないんだなあと思いました。男性の側にある、そこにあるから、するっていう話。

信田 何も出てこないことに対して、上間さんはどう思ったんですか?

上間 やっぱり、特権的な場所にいる、男の性というのはこういうふうにしか処理されないんだなって。なんでしょうね、そこにあんまり意味がないんだなということはわかりました。

 そういうところに男のひとが大量にいるってこと自体は、社会のシステムがこうなっているという証拠ではあるんですけど、先行して出てきてるものを超えるような認識は、ここからは出てこないなあと思っていましたね。

 ただ、被害加害の問題は、裏表だとあらためて思いました。暴力受けた方が非常に多いんです。生育歴を聞いていくなかでも、暴力をふるう父親がいて、自分がひとりで身を立てるというときに、女を使って生きると決めたっていう。そういう決意の仕方っていうんですかね。

 それで、自分自身は父親よりは暴力的でないというところが、自分を正当化する拠り所になっていたりして、そういうふうに正当化するんだなあと思いました。

(P100-102)

上間 あと、ヘビーなお話の子、特にトランスクリプトの確認で会うときに、とっても重いものを確認しないといけないので、必ずきれいなお菓子のつめあわせも持っていくんです。だいたいそういう話をしたあとは、夜眠れなくなるから。

 眠れなくなった夜にきれいなお菓子食べたりして、今日、自分はがんばってお話したなあとか、こういうのもらってきて美味しいなあとか思ってもらえるように。ほんとにかわいい、クッキーやチョコレートの詰め合わせとかは常にチェックして、いいの見つけたら絶対買ってるんですけど。話したあと、それを持って家に帰ったあとで、一人の時間を、自分で温められるようにと思ってますね。

(P160)

(身体接触について)

上間 子どもを相手にしている支援系のところに、そういう失敗があるように私は思うんですね。実際に成長や発達というのは、ある時期身体接触がとても重要ですよね。その子が必要不可欠にしてるのはそれだからというような理由で、身体接触を正当化しようとするひとがいますよね。

 だけど、虐待を受けている子どもを抱えている学級で、優れた教師たちが何をやってるか。自分がやらなくても、それをやれる子ども集団がつくれるんですよね。子ども同士で、アタッチメントを含みこみながらいっぱい遊べるというのかな。まず侵すべからず、が絶対に先です。たしかに発達のなかで必要なことはあるんだけど、支援者が代替しなくていい。少年期、ギャング・エイジ(仲間と徒党をくんであばれる時期)としてそれを体験できる場所をつくるのがプロです。

 被虐待児がいる教室なんて、沖縄ではざらです。その子たちは、それこそ放出してますよね。触ってほしいって。でも、触ることで、境界線が曖昧になっていく。みんなで身体つかって遊んでおもしろい体験をしかけることができるのがプロの教師です。

信田 なるほど。大人でもできるかしら?

上間 すぐにセックスになるんじゃないですか、大人だと。身体の快楽ってすごく手っ取り早いですよ。楽しみのひとつにはなると思うんですけど。

 見てると、ギャング・エイジ的なことをまったくしてない子のほうが、サッと身体の領域に行ってセックスしますね。そこに無数のグラデーションがあって、身体の使い方にはいろいろあって、それぞれに楽しさもあるみたいな体験がないときに体験は一気に飛ぶので。私は、もっと学校で身体使って遊ばせないといけないと思っています。暴力にさらされている子ほど、身体を使って安全に遊ぶ方法を知らないといけないなあと思います。

(P167-168)

(暴力をなくすための練習)

上間 関連しながらも少し違う話になるのですが、暴力は絶対的にいけないからこそ、子どもたちが試行錯誤する場所も必要だなと思っているんです。

 どういうことかというと、ある暴力をふるう子が先生に叱責されたあとに、友だちの机を蹴飛ばしたりするんですよね。「なに怖い顔してるばー」みたいなこと言われて、カーッとなって机を蹴る。それがまた先生に怒られて、暴力はいけないでしょうと叱責される。そういうのが澱のように積み重なって、あいつは暴力をふるう悪いやつっていうスティグマというかラベリングがなされる。でも、暴力をほんとうになくすためにどうすればいいかを考えたときに、どれをどうやってなくすかは試行錯誤しないといけないですよね。

 風俗の調査があまりにもしんどい時期に、好きで半年間通っていた教室があるんです。そのクラスに、暴力をふるうという理由で、幼稚園のときに学童保育をやめさせられた男の子がいて。この子が来ると、ほかの子が怯えるから来ないでって学童をクビになった。その子には、すごい暴力があるんですね。友だちポカポカ殴っちゃうし、ガンガン蹴っちゃうし。

 まず、担任の先生がやってたのは、暴力をふるわないで、楽しいっていう時間をいっぱいつくる。みんなと楽しい時間をつくるのが先で、それやってるうちに、暴力によって楽しい時間を破壊するとつまらないという認知をつくる。暴力を咎めることが先ではなく、この子が暴力をふるわない時間を体験することのほうが先だったんです。

 そんな日々を送っているなかで、この子が暴力をふるったあとで泣いてるときに、本当は暴力をなくしたい、やりたくないという話が出てきたんです。先生は、暴力をなくす方法を一緒に考えようって。何回やぶったとしても、何回でも約束するから大丈夫だよって。

 この子が壁を蹴ったりするようになったとき、先生は褒めたんです。ひとを蹴らなくなったねーって。今日の暴力は何回だったか。15回だったのが5回になったら、目標達成できてきたよね、みたいな形で変化をきちんとみていたんです。そしたらその子が12月には暴力をふるわない子になって、悔しかったり、悲しかったりするとみんなの前でさめざめと泣く子になっていったんです、暴力ではなく。

 この話で何が言いたいかというと、学童期というんですかね、ほんとうに暴力をなくすためには、それをなくすための練習をしないといけないんだなって。

 私がそれが教育の一番おもしろいところだと思ってるんですけど、発達という名のもとに可変性みたいなことをあらかじめ含み込んでいるというか。暴力をふるったらダメと排除された結果、どんどん悪い子になってしまうというのが一方にあり。で、一方には、安心して暮らせる場所をつくったうえで、あなたがいたいのは、暴力の世界なのか、それともこちらのほうにある平和に住まう世界なのかという切り込んでいくやり方があり。そういうふうにして、暴力をふるわないでもひとといられる楽しさがわかっていけたら、暴力はなくなる。そういう試行錯誤をする場所が必要だなと思います。

(P205-207)

信田 卑近な例でいうと、「あのとき意志が弱くて」と言ったとき、「意志が弱いとは私は言いません。こういうふうに表現することもできますね」みたいなこと言って。「意志が弱い」をタブーにする。

 あと、一番よくないのは「自己肯定感」ですよ。今では当たり前の言葉みたいになってますが。「私、もともと虐待受けて育ってきたでしょ。だから、自己肯定感が低くて。ああいう男と出会ったときも、似たもの同士でピンときちゃったんだ」みたいな。そうしたら、「自己肯定感という言葉はね、私は使わないんですよ。自分で自分を肯定するとか自分で自分を好きになるとか、それは無理じゃないでしょうか。別の言葉で言えますか」とかね。そうやって、こういうふうに言いなさいじゃなくて、使用するワードをけっこう禁じますね。

 グループでも禁ずる。「母の愛」って言葉は絶対言わせない。「愛情」という言葉も使わせないかな。「だって、親ですから」というのは絶対バツ。そうすると、どう表現していいのか、自分の体験にもっともそぐう言葉は何か、けっこう考えたりするようになりますよね。私はそれこそ言葉は政治だと思っているので、既成の家族概念に回収されるしかない言葉は使用しないようにします。

(P252-253)

(『プリズン・サークル』の坂上香監督、女性の範疇から外すことで許容する)

上間 わからないんですけど、坂上監督に対しての彼らのハグとか握手とか、身体的な感じがありました。もうすこし、うーん……母的というか。坂上監督の包容力みたいなものが出ていたように思うんですけど。

信田 私ね、そうは思わなかったんですよ。これまでの彼らの考えを超える、女でもないし男でもないし、という新鮮さがあったと思うんですよね。坂上さんに母を見るっていうよりは。

上間 おもしろい! 坂上監督は、わけわからないひとですか?

信田 そうそうそうそう。なんていうのかな、つまり、上間さんもそうかもしれないし私もそうだけど、ある種男性と対等に話をして、自分が唸るようなことを言ってくれる女性に対して、いままでの女性の範疇から外すことで許容する男性って多くないですか? そんなことないかな。

(P264-265)

上間 原田真知子というペンネームで本を書かれている坂田和子さんという方がいます。いじめが去年起こった学級を持って、去年の学級で起きたいじめ問題を解決するという実践があるんですね。

 12月になった教室で、子どもたちが、去年、自分がいじめてしまったって話すんですよ。『わたしのせいじゃない』というスウェーデンの学校の副読本ですね、それを読むんです、先生が。その本は泣いているひとりの男の子の周りを囲む12人の子どもたちがいて、ひとりひとりが自分がいじめを放置したこと、加担したことの言い訳をするんです。「変わった子だったんだ」「泣いている子って最低よ」「なにもいわなかった。叫べばいいのに」

 坂田先生はその本をゆっくり読み進めるんです。教室のなかには、去年までのいじめの加害者も被害者もいて、水を打ったように静かになる。「読んでみて、感想は?」と先生が教室の子どもたちに意見を聞いていくと、子どもたちが、自分がいじめを放置した理由を泣きながら語り出すんですね。

 そうしたなかで、いじめられた子が声を振り絞るように、「みんなやらないと、生き残れなかったから、仕方がないんだ」って、いじめた子たちのことをかばうんですね。そしたら、その子をいじめた女の子がずっと何も言えないなかで、みんなの前で自分はいじめをやってしまったと言うんです。そのことを話しただけで、みんなそのことを許すんです。ただ言葉を共有して了解するというか。

 その実践の肝になるのは、いつやるか、なんだと思います。坂田先生がこの実践をすると決めたのは、とっても楽しい教室になったときなんです。みんなで社会問題も話せるし、教室で起きているトラブルも話せる。自分たちは話し合って乗り越えてきた、というときにこの実践をしかけるんですね。12月の教室というのは、1年間の教育実践を考えるときには遅いんですね。

 でも、その実践は12月の教室でないといけなかった。ちゃんと声が聴かれるという手ごたえをみんながもった教室で、棚卸しをさせているんですね。 こんなことをやってしまった、自分の人生はこうだったという棚卸しが可能になるのは、安全とか安心の場所が先につくられていくことなのだろうと思います。安心できる場所ができたときに、その場との差異でもって、安心できずにいじめに加担していたあの体験はなんだったのかと、差異でもって思考が始まるように思うんですね。

(P271-272)

(DV加害者プログラム)

信田 プログラムの原則は、だれが上でもない下でもない、ファシリテーターは参加者を尊重してかかわるということです。で、彼らもそれがだんだんわかってきます。言いたいことはとりあえずは言ってもいいという場だということがわかりますから、3回目くらいからは、彼らの正直な言葉が出てくるんですよ。それは、傷ついているのは自分のほうだ、おかしいのはパートナーのほうだ、ということを言いたいわけ。

上間 ああー、そういう体験が語られるんですよね。「こんなつらいことがあって」とか、「妻にこう言われて」とか。

信田 そう。みんな、妻こそ自分を支配してるし、どうして妻がわかってくれないんだと。こんなにがんばってる自分をなぜ評価しないのか、と。
 もうひとつは、「子どもの育て方がなっていない」。

上間 言いますよね、あれ、なんですかねー?

信田 わかんない(笑)。そうすると、とたんに、自分が正義になるわけですよ。「妻の怒鳴り方にはもう耐えられない、自分が怒鳴ってしまうのも問題だけど、そもそも妻のあれはないと思います」とか、「整理整頓ができない」とか。「子どもへのしつけがあれではダメじゃないか」とか。

 どれだけ自分が家族のなかで困っているのかを話しますよね。つまり被害者性を承認してくれと。それをどのように責任主体への方向にもっていくかというのが、加害者プログラムの根幹なんです。

上間 肝ですね。これは、どうやって?

信田 いくつかポイントがあるんです。そのひとつが、そういうふうにあなたが考えていることを妻が知ったとき、それは妻と今後もよい関係をつくっていくために役に立つのか、と。

上間 あ、有用性を聞くんですか。

信田 そうです、正誤じゃないの。Justiceじゃなくて、Usefulかどうか。効果(エフィカシー)のあるなしへと、徹底したパラダイム転換を図るんですよ。彼らは、過剰に正しさにこだわってるんです。正義の行使が彼らの行為を正当化させていますから、多くのDV加害者は、そうですよ。
 彼らの正義に乗ってしまうと、ある種の暴力の正当化に加担しちゃうので、脱価値的な、つまりこのグループに来たのはそもそもなんのためかを確認する。もう一回妻と同居したい、子供にも会いたいとしたら、その目的のために、あなたが考えていることがどれだけ役に立つか、効果があるか、メリットがあるか、という方向にもっていく。

上間 正義の争いをしても、彼らの正義感は自己完結的にできていて崩せない。性虐待をしてるひとでさえ、被害者の娘に対して、自傷している、摂食障害になっているかわいそうな子なんだという言葉を使うわけですよね。取り付く島がどこにもないようなときに、有用性の話を持ってくることで、一歩踏み出せると。

(P298-300)

上間 加害者たちは、どういうトレーニングを受ければ変わりますかね? どういうときにひとは自分のあり方を修正するんだろうと考えてもわからなくて。

 近代家族の問題性というのがありますね。近代家族のなかで女性や子どもに対しての強烈な支配構造とそれに基づいた言葉を奪われるという経験がある。私は以前は、だから家族なんてもう駄目なんだって、すっきりそう思っていたんですよね。たとえば、DVを受けた子たちの話を聞いたりすると、前のほうがシンプルに、「割食っているよ、そんな家族は無理だよ、親、捨てちゃえよ」って言ってたんです。

 でも、捨てない。彼女たち、かつて大事にされた時間があったとかいうんですよ。たしかにそうなんです。だれかの支えなしに子どもは大きくならない。こんなにも、家族を無効化するのはしんどいのかと思いながら聞いてきました。

 そういう自分の家族からの逃れがたさがありつつ、彼女たちが動くときっていうのは、子どもへの愛情というか、子どもの危機なんです。子どもに対しての対応がひどい、このままだとこの子が殺されるというとき、自分が殴られている間は動かないけれど、子どもに手がいったときに立ち上がるんですよね。逃げるって決意する。

 それって、家族は問題があるから解体せよというのと、ちょっとレベルがちがう話だなと思ってて。性虐待受けた子たちが、最初「ママ、かわいそう」って言うんですよね。性虐待を放置した母親になにをいうか、そんな親は恨んでいいと私は思うんですけど。そういう、ケアを受けないと大きくなることはなかった、そして自分がケア主体になったときに、やっぱりケアを軸に行動がつくられる。

 そういう舞台になっている家族は、そのひとにとってたしかに制約でもあるんだけど、もう一回立ち上がるときに、もう一回そのワーディングが出てしまう。なので、家族は、もうはずせないのかなって私は思ってるんです。近代家族の問題性の話なんて届かなくて、ちがう言葉が彼女たちを突き動かしてしまうのだから、そういう言葉を探さないといけないのかなって気がするんですね。

 どういうときに、ひとは自分を変えていこうということになるのか? 責任主体になったり、奮起してもう一度自分の在り方を捉え直すことになったりするのか?

(P306-307)

上間 先ほど出してみた責任問題をどういうふうに整理したらいいのかなと思っていて。責任主体として立ち上げることで変わっていくという男性の話と、子どもがこのままだと殺されてしまうかもしれない、絶対にそれだけはさせたくないという女性の話とをもうすこし進めてみたいと思います。

 このままでは子どもがやばいよっていうときは、私は、「母である」という言葉を使うんですよね。たとえば見過ごせないネグレクトがあって、女性も子どももどっちも溺れるように見えるときに、「子どものことを決めてあげれるのは、お母さんであるあなたしかいないよ」って。「私じゃないよ」って。そして、「私には、いま状況がすごくまずいように見えてるよ」って話をするんです。

 でもそのときは、責任って言葉を使ってますけど、内実は違ってるというか。たぶん、あなたしかケアできない、母親であるあなたしかいないという、もっと生暖かいものを喚起させてる気がするんですよね。そういうほうが動くというか。

信田 なるほど。責任主体というのと、唯一無二の存在であるということは、違うよね。

上間 あ、そうかも。ただ自分ではマジックワードな感じがしていて、お母さんだからということにもう一回当てはめてるんですけど、そのときの、お母さんだからって近代家族みたいな意味ではなくて、あなたしかできない、みたいな。

信田 そうね、母というのは、あなたしかいない。たった一人のお母さんだから、とか。

上間 そう言いながらも、やっぱりまずいかなっていう気もします。この言葉は子どもを関係機関に預けたほうがいいってときに使うんですよ。預けることは、お母さんじゃなくなるってことじゃないよって意味で使うんです。あなたはケアの持続性をつくろうとしているから、この選択肢が浮上したっていう。

信田 ちょっとパラドキシカル(逆説的)ですよね。

上間 そうなんです。でも、この言葉は、効くんですよね。

 たとえば保護させたほうがいいっていうケースがあるときに、児童相談所の取り上げではなくて、その女性の決定でさせたいと思うんです。どうやったら、取りあげられるのではなくて自分の決定としてできるかを考えるんです。

 そのときに、取り上げられたというのではなくて、いまあなたの状態はよくない、子どもの状態もよくない。だから一旦外部を入れる。その決定をしたのは母親であるあなたであって、それはケア主体として決めたことだと。だから、取り戻すときにもケア主体として取り戻せるっていう。そこの持続性をつくったほうが予後がいいように思うんですよね。けっこうきわきわでやるんですけど、実際に好転するんです。取り上げじゃないほうが。

 ケース会議やったりしているときに、たとえば病院は虐待通告すると言うんですけど、病院は病院の立場でリスクを換算して動くんですよ。でも、こちらは彼女が決定できるように動きます。児相に子どもをお願いするにせよ、彼女が決める余地を作りたい。

信田 保護というのはある種の権力による剥奪ですよね。それを託したのはあなたですよと、持続性の名のもとに、もう一回自分のところに取り戻す。そのときに、唯一無二の母であるっていうことも同時に、説得力の材料として使うということですかね。

上間 そうです。私は実は、「母」はどうでもいいんですよね。ケアが持続することが大事なんです。

信田 いまの発言いいね! 母は、どうでもいい。ケアなんだと。

上間 はい。そのためのワーディングとして、当事者が何の言葉なら納得するか。それは、手垢にまみれていようがなんだろうが、使わざるをえない。泥くさい感じで考えているというか。

(P333-336)

ずっと読みたかった本をやっと読めた。

生っぽい感じがする対談本で、すごくおもしろかった。
先達の知恵を自分がいま行っている支援に生かそうと、ものすごい吸収力で話を聞く上間陽子と、このひとおもしろいわー!と思いながら惜しみなく技術を渡す信田さよ子。
そのやりとりに感動するような感じがあった。

『プリズン・サークル』、今度どこかで上映していたら観に行きたい。

坂爪真吾、森岡正博の本も読んでみたいと思った。

各章の終わりに本の紹介があったので、気になったものをメモ。
『戦争とトラウマ』(中村江里)
『ブルースだってただの唄』(藤本和子)
『物語としてのケア』(野口裕二)
『環状島=トラウマの地政学』(宮地尚子)
『心的外傷と回復』(ジュディス・L・ハーマン)
『トラウマインフォームドケア』(野坂祐子)「
『トラウマによる解離からの回復』(ジェニーナ・フィッシャー)
『「いろんな人がいる」が当たり前の教室に』(原田真知子)
『オープンダイアローグとは何か』(斎藤環)
『やってみたくなるオープンダイアローグ』(斎藤環・解説、水谷緑・まんが)
『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』(エヴァ・F・キテイ)
『生き延びるためのアディクション』(大嶋栄子)
『ルポ虐待』(杉山春)


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