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信田さよ子『アダルト・チルドレン』抜き書き

家庭というものは、勝つ負けるというものから自由でなければいけない、と思います。支配する、されるから自由でなければなりません。つまり自分が自分のままで生きられて、何か安心できて、ご飯がおいしく食べられて、だらしなくしていても許されて、自分が何か言ったら聞いてくれる人がいる。それだけでいいのではないでしょうか。現実にはそれが全然ない家族がいかに多いことか。日常生活が、いつどこで襲われるかわからないので、完全防備の生活だという人も多いのです。
P77
問題が出てくるのは、夫が「俺が金を出して支えているんだぞ」と妻を支配しようとする場合です。
「誰のおかげで食べていられるのか」などと言われれば、妻はそれに対して「この家庭は私がいなければ」「私が支えているのよ」と考え、ときには主張したとしても、夫からの支配に対して理不尽な思いをするようになるでしょう。

夫が収入のすべてを稼いでいるというのは、単なる「事実」です。しかし、それが妻に対する主従関係を表す言葉につながっていく。つまり「支配」になったとき、妻は苦しくなるのです。夫と妻の受けもつパートが違うという事実、この役割分担と、それが支配・被支配になるのとは別の問題です。経済力で家族を支えることと、家事・育児をして家族を支えることの間に支配・被支配の関係があること、上下があることが問題なのでしょう。
P92
「私ばかり家事をやっているのはおかしいわ。私も外で働くから、あなたも家事をやるべきよ」という発言の問題点はどこにあるのでしょう。

この誤りは何かというと、「すべきだ」という考えを生身の人間が生活する家族にまで降ろしてきたことです。こうするべきだということを、家族のなかで言ってはいけないのではないかと思います。子どもには、抽象的な概念である「自由」や「自立」も、反論を封じて拘束していく言葉となるでしょう。

「べき」という考えは、何かを守るために出てくるものです。無政府状態になってはいけない。秩序を守るために、などの考えが「べき」という概念を生み出しています。守るものとしての秩序が家族全員に共有され、了解されているときには「べき」は効果的に生きてきます。

「べき」に忠実になることと、その家族のなかに本当の意味の交流があるということとは無関係です。家族のなかで、家事を分担す「べき」だというように、「べき」で押していく夫婦関係はうまくいきません。母親が「女も経済力をもつべき」と仕事をし、夫も「家事を分担すべきだ」と頑張った結果、冷たい夫婦関係になってしまう。

こうあるべきだとお互いに自分を縛り合っている家族の行きつく先がACの苦しみです。

若いACの人たちと会っていると、両親の発する「べき」や抽象的な言葉が、いかに家族のなかで情報の交流を妨げてきたかという例にいくつも出会います。幼少時から「あなたは独立した個人なのだから」と言い聞かされ、「二十歳になったら家を出て自立するべきよ」と言う母、「子どもの個性は尊重すべきだから」と言う父……。これらは家族のなかで具体的に何を指すのかが不明なまま使われています。

「べき」で通し、正しいことを行っている家族がどうして寒々として息苦しいのでしょうか。「べき」とは外側の基準に自分を合わせていくことです。「今」「この」「私の」肯定は、そこにはありません。基準に合致した自分だけが許される。今の家族は条件つきの自分しか許されない場になってしまっています。もうひとつ、「べき」とは、宗教的な意味合いを含んでいます。教義に照らし合わせることで行動の方針を決めていくからです。言い換えると「べき」は裁きの言葉でもあります。勉強すべき、妻は~すべきという言葉が毎日飛び交うのは、まるで裁判所のようではないでしょうか。これほど息苦しいものはありません。日々親から、目に見えない正義によって裁かれる日々が、どれほど息苦しく、出口がないかということをわかっていただきたいと思います。
P92-94
作家の村上春樹が翻訳した『心臓を貫かれて』(マイケル・ギルモア著、文藝春秋、1996年)という本があります。そこに出てくるのはすさまじい家族の物語です。父親に殴られつづけて育った著者の兄が連続殺人犯になって逮捕され、裁判で死刑を宣告される。その後、終身刑になるわけですが、兄は断固銃殺してくれと主張して結局は銃殺されるのです。著者である弟は、なぜ自分の兄が無意味な殺人をしたのか、自ら死刑になることを望んだのかということについて綿々とつづっています。その背景には親から受けたトラウマがあり、そしてアメリカという国のすさまじいほどの混乱を読み取ることができます。

その本に関して、訳者の村上春樹が『週刊文春』のインタビューのなかでなぜ機能不全家族がアメリカに多いのか、なぜあんなに近親姦(性虐待)が多いのか、ということについて次のように語っています。

アメリカという国家そのものの成立基盤が、整合的なもの(整合性)を希求している。そこに曖昧さが加わることを許さない。だから愛と暴力が純粋な形で噴き出してくる。暴力の噴出のしかたが凄まじい代わりに、愛の表現のしかたもすごい。愛と暴力が重なったときのパワーは日本人には想像を絶するものがある、と。

アメリカという国はそもそもヨーロッパの白人たちが大量に移住してきて、先住民たちを暴力的に辺境に追いやることで、造られた国です。そうした歴史上の暴力的な出来事を隠すために、さまざまな神話が必要になります。建国してまだ250年にも満たない国ですから、そのぶんだけ整合性がとても要求されます。整合性を支えるために、アメリカンドリーム、父と母と子の幸せな家族というイメージが強制されています。そのぶんだけ出現する問題は極端な形をとり、極端な暴力か濃密な愛かのいずれかになりがちなのかもしれません。
P102-103
記憶を錘にたとえてみましょう。自分を秤だとすれば、錘で秤が壊れてしまったらこまります。だから壊れそうなほど重い錘は、秤に載せないようにしているのです。

私たちは、生きるように、生き延びるようにつくられているのだと思います。記憶のなかで、自分が壊れそうな記憶は、すべて忘却、あるいは否認されることで記憶の底に沈んでいるのです。

それを凍結と呼ぶこともできます。凍りついたままで保存された記憶と言う場合もあります。でも私は、沈んだ記憶という表現のほうが好きです。
重さに耐えられるように秤が強度を増す。もしくは壊れそうになったら助けてくれる人がそばにいる、と思ったとき、沈んだ記憶が浮かんでくるのではないでしょうか。底に沈んでいても無くなるわけではありませんから。

新しいことを思い出すということは、その人がその記憶に耐えられるようになったことの証明なのです。それを強くなったと解釈するよりも、記憶が底から浮かび上がっても大丈夫になるほど支えられ、周囲からケアされるようになったからではないでしょうか。安心感が増すと、そのようなことは起こります。
P151
人間には多様な役割があります。父親であり、会社員であり、夫であるというその役割には、それぞれ責任が伴っています。それを果たすことが、人間としての成熟のひとつの表れでしょう。

夫が外で働いて家に帰ってきたら、妻が育児に疲れてしまっていて、その愚痴を夫に垂れ流す。疲れてはいるかもしれませんが、夫として、父として、それを聞いてやる必要があると思ったらきちんと聞いてあげなければなりません。私たちが結婚し、子どもを産むということは、最低三つか四つの役割をこなさなければなりませんが、それは義務でもあります。義務であり責任を伴っている以上、そこには演技をすることが避けられません。夫と妻が、互いの演技性を知っており認めていることが成熟なのだと思います。義務であるのにあたかも子どもには自然にやっているというふうに思わせる必要もあります。

家族が特別ではなく、人間関係のひとつだという視点に立たなければいけません。互いに同意し結婚したとしても、燃えるような感情はすぐに冷めます。子どもが誕生してからは、意識的に演技的にふるまうべきでしょう。アルコール依存症者のいる家族がなぜ問題かというと、飲んだときにその人は理性が麻痺している、つまり演技を忘れて生身になってしまっているからです。そのときどれだけ子どもを傷つけているか。そのことを本人は忘れてしまうことで、さらに子どもは傷つくのです。

役割演技ができる人こそが子どもを産む資格があると思います。家族が人間関係のひとつだとすれば、親子関係や夫婦関係にも役割演技が必要となります。家族で演技をすることは少しも悪いことだと思いません。家族はロールプレイングなのですから。一般的に演技というのはよくないとされ、冷たいとか嘘だと言われがちです。

しかし、そうではないのです。家族を維持するという大変さを思うと、みんなが多かれ少なかれ演技をしなければもたないでしょう。演技をするというのはいいことです。「だましつづけてほしかった」という歌詞がありますが、だましつづけることこそ大切なのです。嘘も方便という意味ではなくて、演技こそが必要になるのです。

徹底して役割演技を遂行することが家族であり、生身の人間同士が憩えるというのは幻想ではないでしょうか。

何よりも要求されるのは「意識的」であることです。親である大人が無条件で憩える場としての家族は、子どもをもうけた瞬間から断念する必要があるでしょう。

ここで付け加えれば、演技を徹底すると、それがしだいに自分そのものになっていくということです。つまり、演技する自分とそうでない自分が見分けがつかなくなるのです。スポーツでも、舞踊でも、練習すると身に付いて日常化することと似ています。
P184-186


図書館で借りていた本。
返却期限が迫り、図書館近くのドトールで慌てて読み終え、返却。
一緒に借りていた
鈴木大介『壊れた脳と生きる』
尹雄大『体の知性を取り戻す』
は結局読みきれず。
また読みたい。
入れ替わりで、予約していた
斉藤環『母は娘の人生を支配する』を借りた。

慌ただしい読み方になってしまったが、
「お」と思ったところは読みながらiPhoneで写真を撮り、
ここに抜き書きした。
P77とP184-186の内容は、
よく考えたら矛盾するような気もするが、
どちらも「そうだよなあ」と思ってしまったので
そのまま引用しておく。
どうなんだろう。
なんとなく、平野啓一郎の分人の本(『私とは何か』)
を読み返したくなった。

いつも以上に、読みたい本がたくさんある感じ。
鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』
東畑開人『聞く技術 聞いてもらう技術』
斉藤環『母は娘の人生を支配する』
村上靖彦『「ヤングケアラー」とは誰か』
とりあえず、11月中にこの4冊を読めたらいい。
『心臓を貫かれて』も、いつか読んでみたい。

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