『なぜ、親は「正しさ」を押しつけてしまうのか?』抜き書き

雑誌『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』128号巻頭特集の熊谷晋一郎と山田真の対談より。

(熊谷晋一郎)母はいま72歳で、私がインタビューしたときは67歳だったと思うのですが、最近、年老いてくれてほんとうによかったと思うことがあります。若いころは、涙して愚痴をいったり、こどもに詫びたりすることはなかったのですが、ようやくここ10年ぐらい、そういうことが起きるようになりました。自分のことで精一杯で人のめんどうが見られなくなってはじめて、ようやく弱音を吐けるようになったんですね。やっと、仲間になれた気がしました。
 そういう意味で、親が衰えるというのはこどもにとってめでたいことだと思っています。(P41-42)
(熊谷)私が3歳ぐらいのときのこんなエピソードがあります。
 私はまったく覚えていないのですが、いつものようにリハビリで組み伏せられていたときのこと、私がキリッとした表情で母の目をじっと見て、こういったそうです。「お母さん、ぼくはリハビリをやめたいんだ」。それはいつもとは、あきらかにちがうトーンだったそうです。
 そのときの私の表情が、母はいまでも忘れられないといいます。3歳のこどもの表情には思えなかったというか、迫力というか、決意というか、そういう強いものを感じたそうです。
 そこで母ははじめて、いつものようにリハビリをしてはいけないのではないかとためらったそうです。だけど、そこで自分が帰依しているパラダイムがもどってきたのでしょうか。「やらなきゃダメなのよ」と強くいって、もう一度私をねじ伏せようとしたそうです。
 そのとき、スローモーションのように私の顔がどんどん変化していったそうです。それまでじっと母の目を見ていた私の目が、ふっと母の目から離れて空中をぼんやりと見るような目に変わっていった。それは母には、「こいつはなにをいってもダメらしい」と、そういう表情に見えたそうです。
 母のなかでは、いまでもそのキリッとした表情と、そのあとに「こいつはダメだ」と顔色が変わっていったその一部始終がフラッシュバックしつづけているそうです。
 私はこのエピソードは記憶にないのですが、思い当たる感覚はあります。私にはいつからか、親に対して、そして大人に対して、深い諦めのようなものがあったからです。
「こいつらはろくなものではない」という断念の気持ちや、心の底から軽蔑している感じ。あと言葉を選ばずにいうなら、非常に強い攻撃性のようなものでしょうか。
 親に対し、大人に対し、諦めと攻撃性がない交ぜになったような感覚をもったところから私の人生がスタートしているように思っています。すると、そのエピソードと自分が覚えている過去の親や大人に対する目線の初期設定のようなものに、連続性があるように感じるのです。(P42-44)
(熊谷)私はダルクの方に母を許せなかったという話を何度かしていたのですが、その話をするといつも「ほんとうにあんたは愛されていたんだね」といわれる。そのなかで、18歳までの語りとはちがうストーリーが自分のなかに生まれてきました。
 母は加害者であると同時に被害者だった、そしてその真犯人はいったいだれなんだという感覚、そして母が私のために人生をかけてやってくれていたという思いでした。
 母はひとつのミッションに帰依して、それはたぶんまちがったことをしていたのですが、自分の人生のエネルギーと時間をかけて私のためになにかをやってくれていた。その迫力と情熱はビンビン伝わってきていたわけです。
 ダルクの方と話していて気づかされたのは、内容の正当性とはまたべつに、コミットメントがあるかどうかという水準があるということでした。
 母がそのときもっていた知識や信念のパラダイムにもとづいて、私はエネルギーと時間を注いでもらった。そのことで、私のなかに信頼感のようなものがあたえられたのだと思います。もちろん、その知識や信念は正しくなかったといまでも思っていますが。
 しかし、母から見捨てないと思われていたこと自体は確実に財産になり、その財産のおかげで私は反抗できたのだとも思いました。ダルクの方の話を聞いて、何歳になっても反抗できないメカニズムがあるのだということもわかったので。
 とくに障害があると、こどもが親を蹴飛ばして出ていくためにはほかの依存先が必要になりますが、それはやはり根拠なき楽観というか、親以外の社会なり他者なりに対してベースの信頼感のようなものがなければ依存するのは難しいです。
 その楽観的に他人を信じるというスタンスを私はだれからもらったのかというと、認めたくありませんが親からもらっているのだと思います。親、大人に対しての諦めを感じていた一方、大きな信頼があったのもまた事実です。そのしくみをダルクの方との共同研究を通じて気づかされました。
 ジェンダーを学んだこと、ダルクのみなさんと出会ったことを通じて、私は親に対し「ありがとう」といえるようになりました。
 この親のコミットメントがあったかどうかという水準は、そこに反抗する気持ちがあったとしても、ある一定の財産になるということは、次世代に対して伝えていきたいことのひとつです。(P48-51)
(熊谷)なかったはずのところに線が引かれるとき、だいたいその線を引く大人がもやもやした思いを抱えています。それで、あの人はすごいとか、あの人はダメだとかいって序列化させ、カテゴライズし、私たちの空間に断層線を入れていく。
 大人の価値観、大人の目線がそうやってこどもの世界を切り刻んでいくわけですが、その切り方は完全にピントが外れているという感覚が、こどものころの私にはありました。(P68)
(熊谷)あたりまえですが、資格があればいい介助者かというと、けっしてそうではないわけです。資格をとることで介助の型ができるようなところがあるのですが、センスのいい介助者は、その型をもちつつも柔軟な対応ができます。ところがセンスの悪い人の場合、うっかり学んでしまった型に資格というかたちでお墨つきがあたえられてしまうので、困った介助者になるケースがある。すると、その介助者とのあいだでは、日常生活がすごく不快なものになってしまいます。
 私がこのあたりのことを介助者に説明するときには、「怯えをキープすることが大事」だという言い方をしています。たとえば、楽器を触るときはいつも繊細な手つきになるように、自分のやり方を常に疑いつづけないと、相手とのコミュニケーションはとれない。
 あまりよくない介助者というのは、情報やエネルギーの流れ方が一方通行だと感じます。介助者のほうから私の体に対して情報やエネルギーが流れても、私の体から介助者のほうに情報が流れない。双方向に情報が流れて、はじめて安全な介助が成り立つのですが、資格や知識がバリケードのようになってしまうと一方通行になってしまいます。(P88-89) 
 (熊谷)私たちは、身体の横断的な類似性よりも、縦断的で物語的な類似性で当事者活動というものを大事に紡いできました。身体的な類似性でつなげようとする支援者もいるわけですが、私たちは長くつきあってくると物語的な類似性で近寄るわけです。そうすると身体的にかけ離れた人が、物語の部分ではすごくわかりあえることがあり、それが私たちのやっている当事者研究の醍醐味ともいえます。
 親と子も、またスタンスがちがうものです。被害や喪失としての障害をビッグバンとしてもつ親に対して、こどもはナチュラルボーンで、障害を所与のものとして生きている。
 私たちは障害者団体で集まるとき、たいてい親をグループの外に出してきました。どんなに重度の障害者でも親は会議から外れてもらう。それは親の歴史の強度によって、当事者の歴史の強度が攪乱させられる、言葉が奪われていく感じをみんな原体験としてもっているからです。(P100-101)

熊谷氏の言葉ばかりを引用してしまったが、母の子どもとしての自分、娘の親としての自分、介助の仕事に携わる自分、それぞれにとって示唆のある言葉にあふれた対談だった。

たとえ間違った方向性であったとしても、親からのコミットメントがあったということは一定の財産になる、という言葉には、はっとした。「ダルクの方の話を聞いて、何歳になっても反抗できないメカニズムがあるのだということもわかったので」とあるが、その辺のことについても知りたい。

『<責任>の生成 -中動態と当事者研究』(國分功一郎 熊谷晋一郎)、途中まで読んで投げ出してしまっていた。再開せねば。

(noteに書いていた日記のようなもの、忙しくてしばらく中断していたが、再開したいと思っている。が、中断が長すぎて、再開しあぐねている。ので、リハビリ的に、ひとまずこうやって、読んだものの抜き書きからまたぼちぼちとやっていきたい)


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