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親の介護と自分のケアの記録 その15

親に由来すると思われる生きづらさを抱え(いわゆる宗教2世当事者という側面もあります)、2021年3月からカウンセリングに通い始めました。
これから介護などの必要が生じて親と向き合わなければならなくなる前に自分の問題を棚卸ししたい。
そうカウンセラーに伝えた矢先、母が脳梗塞で入院することに。
自分を支えるために、その経過を記録しています。

心身ともにグズグズだった2月、3月を経て、4月は比較的落ち着いている。

子どもの小学校入学に伴い、体操服袋やら給食袋やらをたくさん作った。
初めは億劫に感じていたけれど、いざ始めると、たのしい。
アイロンをかけ、布に線を引き、断ち、ミシンで縫い、アイロンをかけ、またミシンで縫い…
工程を着実に踏めば、ちゃんとできあがっていくことがうれしい。
今日は裁縫の日と、丸一日をそれに充てた日は過集中状態になり、食べることも忘れてひたすら作業していた。
手芸系のことを今後も細々と続けていくと、メンタル的にいいのかもしれない。

子どもの卒園式、入学式に着けられそうな服や靴が全然なくて、一気にいろいろ買った。
そういうときにしか使わなそうなものを買うのもシャクなので、普段も使えそうなものを、とあれこれ選んだら、結構出費がすごいことに。
もう今年は服や靴は買えない…。
でも、どれもなかなかいい買い物ができたと思っている。
装いを楽しめる余裕が出てきたことが、うれしい。

3月下旬まで畑にもなかなか行けず、作業がたまってしまったが、ここ最近は毎週末通えている。
畑は今年で多分6年目。

今年の目標のひとつが「生理中は無理しない」だったが、1~3月は全然守れなかった。
が、今月は、生理中にわりとぼよーんとして過ごせた。
在宅仕事が閑散期に入り、比較的暇だったことが大きい。
ぼよーん、ぼけーっと過ごしたら、イライラすることもほとんどなく、快適。


4月中旬の整体でそのことを話したら、Nさんに大いに褒められた。
Nさんも、生理中は事務仕事などはしない、とのこと。
なかなか毎月そういうわけにもいかないだろうけど、できるだけそれを目指したい。
2月の整体のときは施術中ほぼずっと泣いていたが、今回はカラッとしたいい状態で受けられた。
「呪いが解けた感じがあるんです」と言ったら、Nさんに「本来のあなたが戻ってきた感じがする」と言われ、素直に喜ぶ。

整体の帰りに実家に寄り、リビングにあった長椅子と、外して放置していたアコーディオンカーテンをやっと粗大ごみに出した。
アコーディオンカーテンは、外してから約2年も庭に放置していたので、ツタが絡まっていた。
気にしながらも先送りしていたことをやっと実行できたときの気持ちよさは、なんとも言えない。

リビングにあった長椅子がなくなったことで、ピアノがあった場所にできているじゅうたんの黒いしみがより一層目立つ。
両親が食事するあたりの食べこぼしによるしみも、かなりひどい。
今年中に、DIYでフロアタイルなどを敷けたらと思っている。

4月中旬の週末には、初めて宗教2世のオンライン自助会に参加してみた。
かなり緊張して参加したが、いざ始まってみると、なんというか、居心地のいい場だった。
普段私は、Kのことをひた隠しにして周囲と接している。
それが、その場では全面的に出すことができた。
そういう場が設けられていることをありがたく思った。

それぞれの人がそれぞれの傷つきを語っていた。
誰かから攻撃されるのではないか、という恐怖は感じなかった。
安全な場において、自分の傷を見つめ、語る人々。
そういう状況にある人が傷ついた他者を攻撃することはないのではないか。
会が終わったあと、静かな気持ちだったのは意外だった。

随分前に何かのトークイベントで、ヨーゼフ・ボイスの「傷を隠す者は救われない、傷をさらす者は救われる」(正確な引用ではない)というような言葉を知り、以来、ずっとその言葉が頭の片隅にあった。
やっと自分の傷に風を当てられたことをうれしく思っている。

つい先日、朝ドラ『らんまん』を見たくて、ついにNHKの配信見放題に加入した。
久々の朝ドラ。
洗濯物を畳みながら見たりすることに妙な喜びを感じる。
15分でひと区切りって素晴らしい。

そういえばと、ずっと見たかった『100分deフェミニズム』も見た。
とてもいい。
上間陽子さんが話しているところを初めて見た。
やわらかさと強さ、自分のリズムに引き込んでしまう感じが稀有だと思う。
『心的外傷と回復』、読みたいな、欲しいなと思いきや、すごく高い本だった…
とりあえず図書館だ。

4月はいろいろ前進した。

以下、横道誠 編著『信仰から解放されない子どもたち』、信田さよ子『タフラブ 絆を手放す生き方』より、重要だと思ったところの抜き書き。
読みたい本が山のようにある。
川上未映子『夏物語』も、なかなか進まないが読んでいる。
ここ数年小説が読めなくなっていたけれど、だんだん読めるようになってきていて、うれしい。

末冨 たとえばなんですけれども、宗教も一種のアディクションという捉え方もできます。信者のかたからは違和感もあるでしょうが、研究者としてはそのようにも捉えられると考えています。いかに世間や社会、支援者に、宗教2世の問題を認知してもらうかというときに、保護者がアルコール依存だったりドラッグ依存だったりだと、当たり前なんですが、認知されやすいという状況も考慮に入れないといけない。何かあったときに警察も動きますし。そういう意味で社会的に認知されていて法制が整備されているようなドラッグやアルコールなどのアディクションに比べて、宗教はその次元にはまだ至っていないというふうに捉えています。
(中略)
宗教に依存して過度の献金だったり、ワークライフバランスというか、宗教ライフバランスみたいなものを崩したりすると、その結果、資本主義社会である我が国の中での社会生活が営めないことによって、子どもたちに起きる被害があるという整理の仕方をしています。
 ですから、単純に言うと一次的被害と二次的被害という整理になるんですよね。一次的被害というのは親が宗教にお金を巻き上げられるだとか、時間もそうですよね、過度に献身させられるということが一次的被害として捉えられるとして、2世の問題というのはそれによって起きる、子どもたち自身の剝奪<deprivation>の問題であると整理していくと、たとえば官僚がこの宗教2世問題についてどういう法律を書くんだろうかという目線だとか、どういう名目でどういう予算をつけるんだろうかという視点からは整理されやすいのではないかと捉えています。

横道誠 編著『信仰から解放されない子どもたち』 P155-156 末冨芳×横道誠

安井 そもそも日本は無宗教というか、信仰自体にある種の偏見というか忌避感みたいなものがあるのかなと僕は思っていて、極端なんですよね。もっといろいろな宗教があって、無宗教も含めていろいろ選択的にあり、どの宗教を信仰していようとなかろうと特に気にもされないのが当たり前という状況があって初めて、自由に保障されているといえるかと。現実には法的に規制があるわけではないけれど、当たり前のものとして自由に選択したり、その選択が尊重されたりする風土ではないのかなと。
 カルトの問題が家庭に入り込んでしまう背景要因のひとつとして、なにかに信仰としてすがらないと不安で生きにくい人たちへの理解やそうした信仰の見えにくさ、語りにくさも影響していると思います。それがもっと可視化され語られやすくなるなかで、おかしなものはおかしいと言いやすくしていくことが必要なのかなと思います。そうした、そもそもの信教の自由のあり方とはという議論をすっ飛ばしていても子どもの「信教の自由」とは何なんだろうというところが結局、考えても答えが出ないような気がするんですよね。

横道誠 編著『信仰から解放されない子どもたち』 P187-188 安井飛鳥×横道誠

安井 「宗教2世」というよりも、僕がいちばん相談を受けていてしんどいなと思うのは、まさにそういう陰謀論とかマルチ商法とかの被害を受けている親の子です。その親自身はまったく被害に遭っているという自覚もないし、どんどんのめりこんでいくのでなかなか止められない。そのなかで子どもが複雑でつらい思いをしている。
 いまは子と親の関係は毒親みたいな表現で説明されることが多いですけれど、でもこの関係性を根本的に理解していくときには毒親という言葉だけではちょっと広すぎるというか、前提として親自身がそうして被害者として翻弄されてしまっているという問題もあるし、そうした親や家庭の影響を直に受けてしまう子供の問題もある。これはいったいどこにどのようにアプローチしていけば全体解決に近づくのかそうした悩みや葛藤を抱く相談が多いです。
 結局はご本人たちの困り事がもっと顕在化するか、あるいはその親子の関係がより悪化してより深刻な虐待関係にならないと、それ以上はアプローチはできないのが非常に歯がゆいところです。

横道誠 編著『信仰から解放されない子どもたち』 P192 安井飛鳥×横道誠 

横道 一部の識者のかた、あるいはジャーナリストも「カルト2世」という言葉を好んで使って、「宗教2世じゃない」と仰るんですけれども。大体その「カルト2世問題」と言っている場合に、親に対する眼差しが欠けていることが多いんじゃないのかというのが私の疑問です。親も子どもも、どちらもカルトの被害者なのだということが強調されやすくて、私もそれは否定しませんが、でも私の観点からすると、私が2世だからかもしれませんけど、親というのは玉虫色のファクターで、教団との関係では被害者だし、子どもとの関係では加害者のはずです。その事実が、部分的には親次第の面があるという事実が、「カルト問題」に熱心な人ほど軽んじる傾向があって、私はそれがけっこう気になってしまうんですよね。一般的な宗教でも親が狂信的だったら、家庭生活はやはりカルト化しますから。

安井 そこの二重構造は見落とされがちですね。その場面ではやはり子どもの主体性は軽視されがちで、子どもを保護されるべき従属的な存在として捉えられがちです。それは弁護士でも同様でカルト問題としては弁護士もとりくむんだけど、子どもの視点で取りくむ人が少ないのはまさにそういうところにあります。だから、そういった問題に対する対策も子どもも含めてなんか規制をして守ればいいみたいな話になりがちで、そこに子どもの主体性という視点がいつもないんですよね。

横道誠 編著『信仰から解放されない子どもたち』 P193-194 安井飛鳥×横道誠

横道 鈴木エイトさんが統一教会の専門家とすると、藤倉さんは幸福の科学の専門家という感じがするんですが、この教団についての藤倉さんの考えをお聞かせいただけますか。
藤倉 僕にとっての重要さでいうと、まずは2世問題ですね。1世に関しても、何百万、何千万、一億単位の金を献金してしまうような被害は非常に多いですし、逆らうと地獄に落ちるという教義を刷りこまれているので、1世に対する人権侵害もひどいのですが。やはり2世の問題がもっと気になります。
(中略)
一方で、幸福の科学学園は認可されている学校なので、そこを卒業すると、履歴書に書かなくてはいけないわけです。そうすると、信仰を失っているのに面接でネタにされたり、学歴としてつきまとって、それがゆえに社会から差別を受ける経験というのがけっこう共通している印象です。
横道 なるほど。じゃあ他の宗教2世と同じというか、一方では教団とか親に対しての複雑な葛藤があるけど、一方では社会からの迷惑行為というものに苦しんでいるということがあるわけですね。
藤倉 そうです。幸福の科学の場合特殊なのは、大川隆法がたとえば芸能人が死んだらその人の霊言を出すとかして、そういうのがネット広告とかで逐一出たりするわけです。そうするとネット住民たちが、「またあのイタコ芸人がおもしろいことをしてるぞ」という感じで注目するわけです。そこに、「あのイタコ芸人、あんなのを信じていた人たちなんでしょ」という、信者に対する非常に具体的な蔑視が生まれます。2世たちは学園に入ることで人生は教団に壊されるのですが、そこからなんとか抜けて、普通の社会生活を作っていこうとしている人の足を社会の側が引っ張る、という構図があります。
(中略)
もとはそういう学園を作って特殊な教育をしている幸福の科学が問題の根本なので、そこへの批判は絶対に外せないのですが。でも社会の側だっておかしいということも言っていかなくてはいけない。幸福の科学の取材では、それを強く感じます。

横道誠 編著『信仰から解放されない子どもたち』 P209-212 藤倉善郎×横道誠

藤倉 たぶん名称問題はどこまでいっても解決しないんだと思うんですよ。なので、僕は基本は「カルト2世」と言いますけども、正確に言うと、「カルト問題における2世問題」というのが僕のやっているカテゴリーなんだと思いますね。ただ当事者にとっては、かつて自分が所属していた団体を「カルト」と呼ばれることにすごい抵抗感があったり、あるいは「カルト」と呼ばれること自体が、社会から自分たちに向けられる差別につながりかねないという恐怖があるわけです。少なくとも横道さんがやっているような自助グループの文脈で「カルト2世」という単語は避けたほうがいいと僕は思っています。宗教2世の人とトークイベントをやるときとか、インタビュー記事を書くときとか、そういうときはもうその人が望む呼び方に揃えるようにします。場面と文脈に応じた内容を添えていくというやり方でしか処理できない。もう名称はどうにも統一はできないし、統一してはいけないんじゃないかというぐらいかな。

 横道誠 編著『信仰から解放されない子どもたち』 P214 藤倉善郎×横道誠

 AAもアラノンも、ミーティングの場では「ひたすら自分の体験を語る」のだが、それを聞くことでほかのメンバーが助けられる。だれにも言えなかった、だれにもわかってもらえるはずがないと思っていた経験が、それを聞いている他者を助ける。何の価値もないような自分の経験が、他者の助けになると知ることで、自らも助かるのだ。AAは、ミーティングの場で生じるこんなシンプルな相互作用が柱となっている。アラノンでは、夫の飲酒にまつわる体験を正直に語り、また他者の体験を聞くことを繰り返しながら、「私たちは夫にお酒をやめさせることはできない」というじつに苦い現実に向かい合う。
 アラノンには多くのアルコール依存症者の妻たちの経験を通した知恵が結実している。たとえば「これ以上飲むと死ぬよ」と酒を取り上げたり、「このまま飲み続けるんだったら別れる」と脅したりすることは、結果的に夫がもっと酒を飲むことにつながる。むしろ、「飲むか飲まないかは、あなたの問題です」と距離をとった言い方をして、飲んでいる夫を家に残し、自分はアラノンのミーティングに出ることを続ける。このような対応が積み重なった結果、酒をやめる夫があらわれた。
 このことは、多くの妻たちに深い驚きを与えた。夫に説教し、何とかやめさせようとあらゆる策を弄しても無駄だ。私には、夫の酒をやめさせることはできない。夫の飲酒に対して私は無力なのだ。飲むか飲まないかは夫に任せよう、と妻たちは考えるに至った。
 思い切って、手を放してみること。勇気がいるがそうやって見守ることにしよう、と考えた。
 専門家が指導したわけではなく、これらは、妻たちが自ら発見したことなのだ。そして、妻たちは自問した。
「夫にお酒をやめさせようと思って、夫のために必死にやってきたこれまでの行為は、はたして何だったのだろうか」と。
 密着し、尽くすことで夫を救うことはできなかった。それよりも、勇気をもって手を放すことが、結果的にアルコール依存症から夫たちを救った。それこそが、愛なのではないだろうか。やさしく不安に満ちた壊れそうな愛ではなく、勇気に満ちた愛。そこから生まれたことばが、「タフラブ」なのである。

信田さよ子『タフラブ 絆を手放す生き方』 P21-23

 家族の問題を解きほぐすプロセスは、長年放置された古民家で生活しようとするときに必要な手順によく似ている。
 家の中に入ろうとすると、玄関の手前で幾重にも絡み合ったツタが邪魔をするだろう。中に入るためには、まずそのツタを断ち切らなければならない。そうして、ようやく見えたドアをさびついた鍵で開け、注意深く中に入り、今度は蜘蛛の巣を取り払い、窓を開けて風を入れ、ゴミを捨て、床を掃き、ぞうきんをかける。もう一度、その家を家として機能させるまでにはかなりの時間がかかる。それでも一つ一つ、ていねいに、辛抱強く、進めていかなければならない。
 私たちが取り組んでいるのは、まさにそういう作業である。カウンセリングに訪れる人たちの心を動かすのではなく、まず環境を整備する。「人の心」などという実体があるわけではないからだ。人やものといった私たちを取り巻く環境との相互作用によって、心というものが生まれ、そして育ち、変わっていく。だから環境が整えば、心もそれに伴って整ってくる。そこに空気があり、太陽の光が注いでいれば、自らの力で元気を取り戻していくだろう。

信田さよ子『タフラブ 絆を手放す生き方』 P39-40

 精神科に入院中の義弟がいるKさんが相談に来たときの話だ。義弟の実の両親は、世間体が悪いと言って若いころから義弟を家の中に隠し、病院にも連れていかなかった。結婚してはじめてそれを知ったKさんは、義弟を助けたいと奔走する。だが、病院へ連れていくことには義父母が強く反対する。どうしたものかと考えあぐねているとき、ある宗教団体の存在を知り、藁をもつかむ思いで門をたたいた。
 すると、喉から手が出るくらい欲しかったことば、「私に任せなさい」というひとことが返ってきた。これがきっかけになってKさんはその宗教団体にのめり込み、大金を寄付することになった。
 Kさんのように、本当に困っている人は、どこかで「私に任せなさい」ということばを待っている。そのことを知り尽くしており、ここぞというときに「任せなさい」と言い、取り込み、お金を巻き上げるのがカルト的宗教団体の手口だ。
 私はカウンセラーとして「任せなさい」とは絶対に言わない。「ここに来れば大丈夫です」とも言わない。時に、ひどく冷たいと思われることもある。「先生、『私があなたを救います』と言ってください」と懇願されることもある。それでも、私は絶対に言わない。言えば、その瞬間クライエントは楽になるだろう。わずかな間だが。
 まるでそれは、ドラッグのようだ。なぜならそんなマジックのような奇跡は起こせるはずがないからだ。幻はいずれ醒めるし、そのときはもっとつらい現実が待っているのだ。
「それを言ったら嘘になりますし、それを言ってどうなりますか? あなたはとことん私に依存するでしょう。どんなに依存されても私は仕事としてお会いしているカウンセラーです。いずれお別れしなくてはいけません。きちんと別れることをするために、私はそのことばを言いません」
 そう説明する。これも、一種の「タフラブ」だろう。タフにならなければ、こんなことは言えない。タフラブは、親子や男女関係だけでなく、教師、医師、カウンセラーなど、あらゆる援助職に求められる概念なのだと思う。

信田さよ子『タフラブ 絆を手放す生き方』 P111-112

「理解し合う」は、使い勝手のいいことばである。
「話せば、理解し合える」「私たちは理解し合っている」などとよく言うが、よくよく考えてみれば、どちらかが一方的に「理解させられている」場合が多い。つまり、「理解し合おう」と言いつつ、話し合いを重ねているうちに、論理力のあるほうが、ないほうをからめとっていくのだ。
「君はそう思うんだね。でも、それはじつはこういうことなんだよね。だからこうしたらどうだい?」
「君はどうしたいんだい? そうか、君の気持ちはよくわかった。ならば、むしろこのほうが、より君の意思を反映できるよね」など。
 理解し合うために話し合う、と言いつつも、自分の論理を相手に理解させようと強要している場合が多い。
 一方、論理力のないほうは、強力な掃除機に吸い取られるように、話し合えば話し合うほど自分の考えや思いを吸い取られていく。何も言えないままに、取り込まれ、包み込まれてしまうのだ。
 真っ白になった頭を相手の色に染められた人は「理解し合えた」と思い込むかもしれない。よくある現象だ。だが、声にならない声で「それは違う」と叫びながらも包み込まれてしまった人は、もやもやとしたものが頭の中でうごめき、当分の間、言いようのない不快感に苛まれる。そして、時にそれは憎悪へと変わる。

信田さよ子『タフラブ 絆を手放す生き方』 P117-118

 私たちのカウンセリングセンターでは、母親たちのグループカウンセリングにおいて「理解ということばは使わない」と決めている。
 参加している親たちには、息子に対して「『私は今夜、夕食をつくれません』『とても疲れています』のように、自分の気持ちや感じていること、伝えたいことを『私』を主語にして語ってください」と言う。
 すると親たちは、「先生、そんなことを言ったって息子はわかってくれませんよ」と言う。きっと彼女たちは、これまであらゆる方法で息子たちに自分を理解させよう、わからせようとしてきたのだ。でも、それは果たせなかった。母のことばに「わかったよ」と反応してくれたことなどなかったのだ。私は次のように伝える。
「わかってもらおうとは思わないでください。あなたは、ただただ自分の感じていることや言いたいことを伝えればいいんです。そうですね、女子アナの気分で言ってください。彼女たちは、聞いている人がわかってくれるかどうかなんて気にしていませんよね。みんなカメラを見て話していますよね。あなたも、そんな感じで、『私はこう思います』と話してください。そのとき、相手の反応を気にしたら言えませんよね。それを『女子アナモード』と呼びます」
 今でも、母親のグループでは、この「女子アナモード」が一つのキーワードになっている。
 このように、家族問題を解決するために必要なことは「理解の断念」なのである。別の言い方をすれば、「コミュニケーションの断念」とも言える。
 読者は意外に思うかもしれない。
 理解し合えないから、コミュニケーションがとれないから、人間関係がこじれるのではないか。理解やコミュニケーションを断念しても、問題は解決しないのではないか。そう考えるのが一般的かもしれない。
 しかし、それは違う。「断念」と「断絶」は違う。断念こそが、ほかならぬ「タフラブ」の第一歩なのだ。
 タフラブは、相手にわかってもらおう、相手にわからせようとすることのない愛といえる。また、わかってあげようとはしない愛である。
 こじれた関係にあっては、わかり合おうと思えば思うほどこじれていく。逆に、コミュニケーションを断念するところから新たなコミュニケーションが生まれることもある。あたかも砂漠の中で見つけたオアシスのように、海岸のこちらと対岸をつなぐように、さわやかなコミュニケーションが生まれるのである。

信田さよ子『タフラブ 絆を手放す生き方』 P118-120

 家族の問題において、カウンセラーを代理人にして、「叱ってもらう」「たしなめてもらう」ことを期待するのは圧倒的に女性が多い。たぶん、社会的に非力である女性たちが、自分の力では無理なので、私たちを利用するのだと思う。でも、それで家族の問題が解決するわけではない。
 彼女たちの母はほとんど変わらない。DV防止法のように「重い母防止法」があるわけでもない。ひたすら娘側だけが「重くてたまらない」と思っている偏りこそが問題なのだ。その場合も切り分けが必要だ。
 しばしば娘たちは、母の問題を肩代わりしているので重くなっている。彼女たち娘の問題は、母から逃げるか、重さに耐える力をつけるか、だけではない。母に変わってほしいという切望感でいっぱいなのである。それをわかってほしい、聞いてほしい、ひどい娘でないことを保証してほしいのである。重いと感じる自分を間違っていないと言ってくれる存在=「味方」を見つけること。何よりそれが娘の問題である。
 では、母の問題は何だろう。娘へのしがみつき、愚痴の垂れ流し、異様なほどの依存……数々あるが、それらも含めて母の人生は母自身に引き受けてもらうことだ。引き受けるのは、断じて娘ではない。なぜならそれは母の「責任」というおまけつきの問題なのだから。
 これはどこかアルコール依存症の夫を持つ妻たちの切り分けに似ている。「飲む飲まないは夫の問題」と同じく、「母の人生は母の問題」なのである。

信田さよ子『タフラブ 絆を手放す生き方』 P151-152

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