雑誌『精神看護』2022年9月号 巻頭特集
「表現の中で安全に壊れること 回復に殺されないために――」
赤坂真理×倉田めば
切実な、とてもいい記事だった。これから何度も読み直すと思う。
読みながら、上記の部分を思い出したりもした。身体にとっては、ある必然があって、生きようとしてやったこと。
この特集を受けてのオンラインのトークイベントが9月末にあり、それにも参加した。キッチンで、実家に持っていく総菜を作りながら。
前半は、赤坂さんとめばさんが話す。ほとんどが記事に既に書いてある話だったけれど、お二人に対する興味が強かったので、その声や表情にふれられただけでうれしかった。お二人の関係がとてもすてきだと思った。
後半は、記事やトークを受けての参加者の語り。最初に話した方のお話がとてもよくて、聞き入ってしまった。自分と似ている部分も多く、ああ、この人と話したい…と思った。その後も続々と切実な語りが続き、予定の時刻を30分ほど過ぎてイベントは終わった。話を聞いているときのめばさんの佇まいがよかった。
赤坂さんより、カルト宗教の問題などもアディクションの観点で捉えてみると見えてくるものがあるのではないか、というような言葉もあり、自分の問題を考えるうえでもヒントになると思った。
それは、なんとも心地よい時間だった。ひとり映画館の闇に身を沈めているときのような、親しい友人とゆっくり飲んでいるときのような。この時間がずっと続けばいいのに、と思うような。私はこのときのことをずっと忘れないと思う。
「汽水域」という言葉を初めて知ったが、この感じ、わかると思った。
ある場にAというグループとBというグループがあったとしたら、私はいつもそのどちらにもいけず、その間の細い溝みたいなところに落っこちてしまう。そういう自己イメージがある。
でも、溝に落ちる、ではなく、汽水域、だと、なんだかだいぶイメージがいい気がする。いい表現を知った。
少し飛躍するが、20代のころ、脚本家の笠原和夫の言葉を読んで、魂が震えるような思いを抱いたことがある。
映画『県警対組織暴力』の、菅原文太演じる警察官について語る場面。
自分のことが書かれているように思えた。20代の一時期、笠原和夫に強烈に惹かれ、名画座で笠原和夫脚本の映画が上映されると追っかけのように観に行っていた。上記を読み、惹かれる理由がわかった気がした。
どちらにもいけない人について言及されると、どうしようもなく惹かれてしまう。それが自分のようだから。
どうして私はどちらにもいけないのだろう。
考え続けていきたい。