赤坂真理×倉田めば「表現の中で安全に壊れること」抜き書き

雑誌『精神看護』2022年9月号 巻頭特集
「表現の中で安全に壊れること 回復に殺されないために――」
赤坂真理×倉田めば

赤坂 私思うんですが、人はアディクションで何がしたいかというと、「自分が生きづらいということを、ある<かたち>にして、自分とか他人が見られるようにする」ってことなんじゃないかと。「本当は助けてほしいけど、助けての言い方がわからない」とか、「本当はこのコースに居たくないんだけど、外れ方がわからない」とか、そういう人の言語なんだと思う。「見つけてほしくないんだけど、見つけてほしい」とか、「どうしたの?って言ってほしい」。そういうの、ないですか。
倉田 そんなの……常に言ってほしい(笑)。
赤坂 ねぇ(笑)。マジョリティ寄りの汽水域の私にしてみると、死ぬほどまどろっこしい方法で発信していた。自分でも、これをわかってくれっていうのは無理だよと今は思うくらい。
倉田 私はすごい甘え下手で、そんな自分のことを見つけてほしいと思っているけど、それが言えないっていうのがあると思うね。「回復に殺される」っていうのは、たぶんそういうこと。
 回復って、社会に戻ってくるとか、薬をやめて普通になるということではない。むしろ回復者というのは時間が経てば経つほどアウトサイダーになっていく。それが最近の私の捉え方です。
P375-376
赤坂 アディクションとは、ひとつの表現である。それを出すこと自体はその人の自然というか、必然があったんだろうと思う。壊れるのは、壊れる必要があったから。けれどもアディクションはそれ自体危険が大きい方法。命を落とすくらいの危険がある。だから、もうちょっと安全にできたらいいなって考えたんだよね。それで、安全に壊れる、っていうふうに言ってみた。
P377
赤坂 全体がクラッシュするのを救うために、どこかを部分的に壊すんだと思うんですよ。普通はそれを無自覚にやる。たとえば、全身を壊す代わりに、身体はどこかが病気になってくれるとか。その人にとって弱い所で出してくれる。家族もそうで、誰かが壊れるんだよね。家族の機能不全があった時に、誰かおかしな子がいてさ、「あの子さえいなければ、ウチは完璧なのに」みたいに思うんだけど、実はその子がいるから家族がもってるという。
 全体が壊れないために部分的に壊れるっていうのは、いろんな所で起きている。ただそれを無自覚にやってしまうと、やっぱりちょっと危険なことなので、自覚的に意識をもって、できたらいいのではないかなと。
P378
赤坂 じゃあどうやったら自分で問いを出せるかっていうと、ぶっちゃけ言うと自分の検閲をくぐり抜けること。どれだけ自分が検閲を入れない言葉を言えるかがポイント。自分にとって本質的なことってすごく大事だから、自分を守ってしまって、検閲をかけて出さないことが多い。
 もう1つポイントだと思うのは、他者の存在があること。自分1人で出てきた言葉って、無視や忘れることができるし、そうしがち。痛い真実だから。認めたら自分が壊れると思ってきたから抑えてきたわけだから。でも他人がそれを見たり聞いたりしていると、もう取り消しようがなく、認めるしかない。その状況が実は、とても楽で、救われる。
P378-379
赤坂 自分が思いがけずに外在化しちゃった、みたいな時があることがあるのです。ポロッと出た言葉、とか、思考より速く書いた言葉などに。思いがけず自分から出たこと。言葉でもかたちでも動きでも。それが本当に具体物のように、自分の目の前に置かれたように見えたことがあったのです。たとえばサイコドラマで、その配役になった時、「なぜだか言えちゃう言葉」っていうのがある。なぜだか出てきて自分でも意外なんだけど、これが真実であることに揺るぎない確信がある。そういう感じ。
 自分が自分の外にあり、その自分を自分が見る、聞く。そんな、原初の演劇体験みたいな感じ。自分のことをセリフみたいに言って、自分で聞く。同時に、誰か他者がそこにいることが、大事なんじゃないかと思う。たとえその人が、昏睡している人であっても。
 母親が亡くなる数日前に、そんなふうに、自分が自分について深いところにしまってあったことを母親に告白して、自分がそれを聞く、みたいな体験をしたことがあるのです。なぜだかそれにはすごく癒やされたんですが、その時自分の他に母親という「観客」(立会人)もいたので、言ったことを自分で取り消すことができなかった。それは自分でありながら、外から自分に沁みてきた。その体験がなんだったのかと、ずっと考えている。演劇でもないけど、「原初の演劇」としか言いようのないもの。そんな気がしました。自分の内部が、外在化する。そのことがもたらす治癒作用が、なぜだかあるみたい。
P379
倉田 私は4回精神科病院に入院してます。病院から自助グループと回復施設につながって、そのミーティングに出始めた時に、「こんなに人が聞いている場所で、本当のことなんて言えるわけないやん」と思った。私には相談者がいるんだけど、その人に「私はミーティングでは正直なことなんか絶対に言えないし、常にポーズしかとってない」って言ったの。そしたらその人は、「ポーズを取り続けなさい」って言ったんです。そしてそのことが、回復をもたらしたところが私にはあるんですね。
 一般的には「正直になれ」とか、「自分の心情を吐露するんだ」みたいなふうに語られるけど、私には「ポーズを取り続けろ」っていうある意味逆の提案が効いたということなんですよね。これがすごい不思議なんですよ。
赤坂 繰り返し話している間にちょっとずつ違ってきたことってある?
倉田 ある。「あっ、ここは私、避けてる」とかさ、「ここはすごくやけに誇張してる」とかに気づく。
赤坂 隠すことなどが悪いわけではなく、それが自分にわかる、って、大事だと思うんです。
倉田 だからミーティングで本当のことを言ってるかどうかが問題なのではなくて、誇張したり、隠したりする装置としてミーティングというものがあって、それが私が1人になった時に効いてくる。それで何回も話しているうちに、しどろもどろになったり。でもそういう時に、本当の自分が出る。あと言葉に詰まって、ちょっと20秒間沈黙してしまったとか。
P380
赤坂 好みがあるからどの方法がいいとかは言わないけれど、ある種の身体を巻き込んだ方法でやるとわかりやすいかなとは思う。思考というのは暴走するのが本性みたいなものです。そして「思考は思考で絶対止められない」ということは知っておいたほうがいい。思考がバーッと暴走してる時に、「あっ、暴走はいけないな、止めよう」なんてことはできない。その「できない」ということをまず知っておく。その時身体を使った方法でやると、ちゃんとここに戻ってこられる。
P387
倉田 最後に病院の中でアームカットをした時、主治医が私の顔を見ずに、私の傷跡に向かってしゃべってたのね。「もうこれ以上増えちゃダメだよ」みたいな。それはすごい効いたの。「私の顔を見ずに、私のアームカットの傷に向かってしゃべってるこの医者」って。「えっ?」って感じ。でもホッとしたというかさ、なんだろうあれ。どういう気持ちかわからないけど。
P388

切実な、とてもいい記事だった。これから何度も読み直すと思う。

ポリヴェーガル理論を提唱したポージェス博士は、身体の反応に「よいも悪いもない」と言います。単に身体がいちばん適応的な反応をしたに過ぎないというわけです。ですから、発達性トラウマのために、人とうまくやれないような神経生理学的な状態になっているとしても、それは困難な子ども時代を生き抜くための適応戦略だったわけです。身体は、あなたの生命を維持するという使命を果たすために、やるべき仕事をやっただけです。そこによい悪いはありません。
花丘ちぐさ『その生きづらさ、発達性トラウマ? ポリヴェーガル理論で考える解放のヒント』
P196

読みながら、上記の部分を思い出したりもした。身体にとっては、ある必然があって、生きようとしてやったこと。

この特集を受けてのオンラインのトークイベントが9月末にあり、それにも参加した。キッチンで、実家に持っていく総菜を作りながら。

前半は、赤坂さんとめばさんが話す。ほとんどが記事に既に書いてある話だったけれど、お二人に対する興味が強かったので、その声や表情にふれられただけでうれしかった。お二人の関係がとてもすてきだと思った。

後半は、記事やトークを受けての参加者の語り。最初に話した方のお話がとてもよくて、聞き入ってしまった。自分と似ている部分も多く、ああ、この人と話したい…と思った。その後も続々と切実な語りが続き、予定の時刻を30分ほど過ぎてイベントは終わった。話を聞いているときのめばさんの佇まいがよかった。

赤坂さんより、カルト宗教の問題などもアディクションの観点で捉えてみると見えてくるものがあるのではないか、というような言葉もあり、自分の問題を考えるうえでもヒントになると思った。

それは、なんとも心地よい時間だった。ひとり映画館の闇に身を沈めているときのような、親しい友人とゆっくり飲んでいるときのような。この時間がずっと続けばいいのに、と思うような。私はこのときのことをずっと忘れないと思う。


赤坂 海水と真水が混ざり合っている「汽水域」というのがあるけど、私はいつも汽水域にいる人間。だから両方が見えるということはある。どっちつかずとも、両方わかるとも言える。
P373

「汽水域」という言葉を初めて知ったが、この感じ、わかると思った。
ある場にAというグループとBというグループがあったとしたら、私はいつもそのどちらにもいけず、その間の細い溝みたいなところに落っこちてしまう。そういう自己イメージがある。
でも、溝に落ちる、ではなく、汽水域、だと、なんだかだいぶイメージがいい気がする。いい表現を知った。

少し飛躍するが、20代のころ、脚本家の笠原和夫の言葉を読んで、魂が震えるような思いを抱いたことがある。
映画『県警対組織暴力』の、菅原文太演じる警察官について語る場面。

笠原 (中略)やっぱり人間というのは、善にいく時もあるだろうし、悪にいく時もあるだろうし、右に行くことも左に行くこともあるだろうし、ブラブラ揺れているものであってね、どっちかにはっきりできるものじゃないだろうと。ただあの時代は、そういう僕の考えは認められないんですよ。もし、討論をやった場合、右か左かのどちらにも属さないというのは認められないわけですよ。そういう割りきれなさとか、さっき言った罪の意識みたいなものが、どんよりとどこかにわだかまっていて、どこにぶつけたらいいのか、わからないわけですよ。
(中略)
そういう人間を、僕は若い時から表現したかったんですよ。右にも行けない、左にも行けない、自分の道を行こうとすると、両方から殺されちゃう。そういう人間があるということを、僕は終戦後からずっと持ち続けているんですけどね。
(中略)
やっぱり僕は旗を振れなかった人間を描きたかったんだよ。だから、ラストは結局、松方に旗を振らせてやれなかった自分ということで、文太はまた負い目を負っちゃって自信喪失になってしまうというね。まあ、文太が自分の旗をあげればいいんでしょうけど、でも、あげられない人間って僕はいると思うんだよな。それはチェーホフもそうでしょ。僕は若い時にチェーホフをよく読んでいたんですけどね、チェーホフの作品に出てくる人間というのは、時代の中でにっちもさっちも行かなくなっちゃったというところがあってね。時代というのをある程度はわかっているんだけど、それについていけないというか、価値観を自分で決められない人間たちが多く出てくるでしょ。「桜の園」とか「三人姉妹」とかその前の短編にしても、時代の中で旗をあげきれない人間が多かったと思う。だから、僕の元にはそれがあったような気がするんだな。それに僕自身の戦中戦後の体験が絡んできて、何か胸のあたりでゴロゴロわだかまっているという。
『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』P369-372

自分のことが書かれているように思えた。20代の一時期、笠原和夫に強烈に惹かれ、名画座で笠原和夫脚本の映画が上映されると追っかけのように観に行っていた。上記を読み、惹かれる理由がわかった気がした。

どちらにもいけない人について言及されると、どうしようもなく惹かれてしまう。それが自分のようだから。
どうして私はどちらにもいけないのだろう。
考え続けていきたい。

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