親の介護と自分のケアの記録 その18

親に由来すると思われる生きづらさを抱え(いわゆる宗教2世当事者という側面もあります)、2021年3月からカウンセリングに通い始めました。
これから介護などの必要が生じて親と向き合わなければならなくなる前に自分の問題を棚卸ししたい。
そうカウンセラーに伝えた矢先、母が脳梗塞で入院することに。
自分を支えるために、その経過を記録しています。




6月 第2水曜日 曇天
実家滞在 11時~15時
キャベツ酢漬け、タマネギ酢漬け、きのこマリネ、キュウリ梅和え、ゆでた山東菜 持参

入浴デイサービス持参物準備、母の話を聞く、生協宅配物受け取り→整理、キッチンシンク清掃、電動車いす試乗の立ち会い

前回は若干険悪な感じで別れたが、お互いにけろりとしている。

この日は母がよくしゃべった。

海が見える大木に寄りかかって死にたい、というイメージを結構昔から持っているとのこと。
特に具体的な場所のイメージがあるわけではないが、頭の中に明確な映像があるらしい。

毎週行っている入浴のデイサービスでは、自分と同じ半身麻痺の80代男性と話したそうだ。
20年前に脳梗塞になり、以来ずっと半身麻痺のからだとつき合っているという話を聞き、「わたしなんてまだまだ」と思ったとのこと。
そんなふうに、近い境遇の方と話せる場があることは、とてもいいと思う。

そこからどういう流れだったか、今の時代は自然に生まれるのも自然に死ぬのも困難になっているのかもね、みたいな話になり、母の昔話に。

母が2歳のころ、母の甥に当たる男の子が生まれた話。
母は、母の母が45歳くらいの時の子どもで、長兄とは20歳くらい年が離れている。なので、母にはほとんど年の変わらない甥たちがいる。
当時は自宅出産だったので、家の中で甥が生まれるのを2歳の母はじっと見ていた。
母の甥は逆子で生まれ、泣かずに出てきたその子に湯をじゃーじゃーかけ、ようやく泣き始めた。
家の中には産室(と言ってたっけ?)があり、その部屋は窓がなく、狭かった。お産以外に、誰かが病気になるとそこに寝かされたらしい。

小さいときに、おじの死も経験した。
よくかわいがってくれたおじだった。
当然のように、家で死んだ。
死に際には、医者はいなかった気がする。

当時の沖縄は、土葬だった。
棺に遺体を置き、墓に収める(私も一度行ったことがあるが、沖縄の墓はでかい)。
次に家族に死人が出ると、墓を開け、「洗骨」をする。
骨を拭き、壺(?)に収める。
母は、その洗骨の場にも立ち会ったらしい。
まだ子どもだったので、見ているだけだったが。
白い骨と、眼鏡の金縁だけが残っていた。
眼鏡の金縁が残っていたことが、やけに印象深かった。

かわいがってくれた大人が死に、さらに死んでしばらくして、完全に骨になったところまでを子どものころに見届けている、というのはなんかすごいなと思う。

以前は、小学2年のとき、授業中に、近所の砂浜に散乱していた戦死した人々の骨を拾ったことがある、とも話していた。
骨はきれいに白く、悲壮感はなくて、みんなニコニコしながら拾っていた、と聞いて、笑ってしまった。
沖縄の明るい太陽と、白い骨、というのは、なんかしっくりくる。
明るさの裏に、ひどく重たいものがひそんでいる沖縄。

沖縄戦が終わる直前に母が生まれたのは突貫で作った収容所(?)のようなところで、そのまま2年ほどはそこで過ごしたらしい。
その後10年は家族の家がある沖縄南部の村で過ごし、中学・高校時代は少し年の離れた姉と那覇で2人暮らし。
(中学から既に親と離れていたのか、と少し驚いた)
なんとしても沖縄を出たいと思い、進学を理由に、大阪を経由して東京へ。
独身時代は杉並、世田谷あたりに6年ほど住み、結婚して現在の東京東部へ。
以後、今の地に50年近く根を下ろしている。


訪問リハビリが終わるタイミングで、電動車椅子試乗のため、ケアマネさん、福祉用具の会社の人たちが来た。

電動車椅子は思っていたよりコンパクトで、今使っている車椅子とさほど変わらない。折り畳めば、これまで同様に玄関に置けた。

雨も降っていなかったので、電動車椅子に乗って近所に出てみる。
びびりなところがある母なので操作を怖がるかと思いきや、意外にすんなり操作している。
が、レバーを操作する左手元に目がいってしまい、前方で誘導する福祉用具の方に「手元ではなく、少し遠くを見てください」、「進みたい方向を見てください」と何度も注意されていた。

わたしも自動車教習所でよく言われた。
ひとは見ている方向に進んでしまう、というのはなんだか面白い。

横断歩道を渡ったり、少し急な坂道を上ったり下りたりして戻ってきた。
玄関先での車椅子の乗り降りは、少し練習が要りそう。

皆さんが帰ったあとに母に感想を聞くと、「たのしかった。(電動車椅子を)使いたい」とのこと。
自分で動けるのがうれしくてたのしいのは、それはそうよね、と改めて思う。
電動車椅子、前向きに検討する方向で動こうかと思う。


6月 第3金曜日 晴れ
母の美容室付き添い、買い物 11時半~14時半

近所の美容室まで車椅子を押して行く。

あまり風呂に入れない母は、いっそのこと坊主頭にしたいと言うが、美容師さんは「本当にいい
の?」と少しでも長めを提案する。
行くたびにその攻防があるのだが、毎回どんどん短くなっており、この日はかなり坊主頭に近い感じの仕上がりになった。
前髪がほんの少しだけ長く残されていて、そこに美容師さんのぎりぎりの抵抗のようなものを感じる。
母が「なんだっけ…、あれみたい。時代劇の…」と言い、「ああ、確かに前髪がちょっと大五郎っぽい」と笑った。

前頭部に白髪が密集している場所があり、遠くから見るとそこがはげているように見えなくもないが、母は別に気にしていないようだった。

帰りに、普段あまり通らない道を通ってドラッグストアへ。

途中、小さいころにほんの少しだけ通っていた合気道の道場の横を通った。
まだ道場としてやっているようで、なんだか感慨深い。

小学校低学年のころだと思うが、ほんの少しだけ合気道を習っていた。
でも、すぐにやめた。
なぜやめたのかは全然記憶がない。

でも、始めた動機はなんとなく覚えている。

わたしは、強くなりたかったのだと思う。


小学校低学年のとき、夕方に家で一人で留守番していたら、ピンポーンとチャイムが鳴った。
ドアを開けると、見知らぬ男が2人。
「遊ぼうよー」と腕をつかまれたが、怖くなってドアを閉めた。
すると、庭のほうに回り込み、また「遊ぼうよー」と言われた。

ということが2回あり、2回目に母にその旨を知らせ、近所の交番に相談に行った。
その後、繰り返されることはなかった。

1回目のタイミングですぐに母に言わなかった理由は、自分でもよくわからない。

それだけの話なのだが、しばらくチャイムの音恐怖症になった。

「ピンポーン」と鳴ると、心臓がバクバクする。

それがどのくらい続いたのか忘れたが、いつの間に治っていた。


それがあって、わたしは強くなって自衛しようとしたのだと思う。

合気道はすぐにやめたけど。

それから、かなり長かった髪をばっさりとベリーショートにした。

ショートにしたらひょろりとした少年のようになり、道行く人からたびたび男の子に間違えられ、それが妙にうれしかった。
男の子に見えるようになれたから、もう強くなる路線はいいや、と思って合気道をやめたのだろうか。

今のわたしは、あのころと同じ髪型をしている。


頭の奥のほうに追いやられていた記憶が前方に出てきて記憶同士のつながりを見いだせると、不思議な心地よさがある。




ドラッグストアで青汁やウエットティッシュ、併設の100円ショップでコロコロクリーナーなどを買って実家へ戻った。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?