韓非子を読んで考えたこと
「企業サバイバルの教科書 韓非子」(守屋淳著 日本経済新聞出版社)を読んで、多くの気づきを得ると共に様々なことを考えさせられました。
まず、本書は「論語」と「韓非子」の対比が語られており、双方を比較することによって「韓非子」のエッセンスを際立たせています。人のあり方について論語では「人間、志が重要だ」とするのに対し、韓非子は「しょせん人間は利益に目がくらむ」としています。見事なまでの対比とも思えますが、私は人間の二面性を表したものであってどちらかが間違いであるというものではないと思います。
志を持った徳のある人間もいれば利益に目がくらみがちな人間もいます。また、同じ人間でも「志を抱く場面」と「利益に目がくらむ場面」があるはずです。「志を貫徹するために利益を得なければならない」という考えもあるでしょう。「踊る大捜査線」で有名になった「正しいことをしたければ偉くなれ」というのに近い表現かもしれませんね。
本書が論語的な「統治」の問題点として挙げる以下の4点は、誰もが納得せざるをえないものです。①徳の高い人物はそういない。たとえ今はいたとしても後々続かなくなる。②徳を持った人物自体、変節してしまうことがある。③徳と信頼でしか上下が結びついていないので、現場の暴走止める術がない。④自分を育ててくれた先輩や上司の悪や問題点を、とがめたり是正したりできなくなる。
ところが日本では、儒教的思想の方がはるかに大事とされてきましたし、今でもその考えが強いように思えます。哲学者の高山岩男氏は次のように書いています。
「明治維新の指導者たちは、儒教の典籍(政治哲学)、「左伝」「史記」などの歴史、それに中国や日本の文学を学び、現在でいえば文学的教養を背景にして、幕末以降の古今未曾有の事態に対応し、美事にそれに成功した。ところが彼らは何を血迷ったか、その後継者に法学士を選び、明治19年、高等文官試験の受験資格を法学部出身者にしぼった。こうして制度いじり、条文いじり以外に能のない人々が日本を支配することになり、昭和のカタストロフィーを招いたのだ。軍隊なんかでも、その実態は法科的官僚主義が支配していた」
今日でも日本人の精神性の一端を担っている司馬遼太郎氏の作品に登場するヒーローたちの多くは、合法性を超越した存在であり、こまごまとした法規の末節にこだわる東条英機のような人物は乱世の英雄にはなれないとされています。
中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」(講談社現代新書)では、「日本社会の「社会組織」は(西欧風に)変わっても、「社会構造」は変わらない、という場合が出てくるのである」と書かれています。「誰もがやればできる」という能力平等主義、先輩後輩の上下関係、新入りが最も肩身の狭い思いをする集団など、制度とは別の日本社会の暗黙のルールが、今日でもしっかり存在します。驚いたのは「中国人は(中略)何か重要か決定を要する相談事になると、(上列が上である)年長者に対してもいちおう堂々と自分の意思を披露する。日本人のように、下の者が自分の考えを披歴する都度にまで序列を守ることはない」と書かれています。日本人は儒教の本家本元の中国人よりもはるかに「儒教的(?)」なのかもしれません。
実際、日本社会では「失敗の責任は部下に押しつけ、成功の栄誉は自分がいただく」という上司がたくさんはびこっていますし、権力者の「お気に入り」になることによって保身を図ろうとする人たちがたくさんいます。それが実際に功を奏して弊害となっている事実は、「企業サバイバルの教科書 韓非子」(守屋淳著)にこれでもかとばかりに紹介されており、元サラリーマンだった私としては全てが理解できるものでした。また、社長のようなトップも楽ではありません。同書によると、①(下との)情報格差がある。②派閥等を背景にした直接的な力で対抗される。③論語的な価値観で縛られる。ことがあり、突然足をすくわれる恐れもあるのです。
実際、一昔前の日本の企業は(株式持ち合いによる)安定株主比率が6割以上もあり、サラリーマンとしての先輩経営者が完全に実権を握っているケースが極めて多かったようです。会社で一番偉いのは「社長」であり、株主は株の売買で得をしたり儲けたりする一般庶民に過ぎませんでした。会社のトップの座をめぐって権力欲にまみれた派閥抗争が繰り返され、不祥事があると部下に対して「会社のために死んでくれ」と言い含めるケースも少なからずあったようです。部下のクーデターによって放逐された社長もいました。
日本の近代法制定のために尽力を尽くした江藤新平を描いた「歳月」(司馬遼太郎著)でも、佐賀の乱に関して江藤が裁判を受けるに際し「かれ(大久保利通)にとって、必要なことは法律ではなく謀略であり、是が非でも江藤を刑殺せねばならず、江藤を断固として殺すことによって天下に充満している不平の徒に対し東京政府の権威を(中略)さとらせしめなければならない」と書かれています。
大義の有無は別として、今も昔も日本の権力者や組織にこのような傾向がある以上、国家や会社が長期的に持続し、成長していくためには「法」や「ルール」が必要であることは言うまでもありません。そういう意味では、現代の組織、特にコーポレートガバナンスが重視される今日の企業においては「儒教的発想」から「韓非子的発想」に発想転換を強いられていると言っても過言ではありません。旧態然たる発想で行動していると、刑罰や膨大な損害賠償請求が待っているのです。
法のあり方から日本社会の歴史や構造に至るまで、考え始めればキリがありません。私のような一法律屋にとってはあまりにも重すぎるテーマです。まとまりを欠く内容になってしまいましたが、みなさんにとって考える材料の一つにでもなってくれれば幸いです。
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