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日本の南画1

 日本で南画という時、それは大陸の漢画風の絵のことを言い、今で言うところのいわゆる水墨画を指します。今でこそ水墨画という言葉はごく一般的に使われていますが、昔は南画という言葉を使うほうが一般的でした。
 江戸時代の初期に禅宗の一派である黄檗宗の僧侶が大陸から「芥子園画伝」などの画譜、いわゆる絵の教本を伝え、さらに伊孚九(いふきゅう)という貿易商兼画家が長崎に度々訪れて山水画などを描いたことから、それに影響を受けた日本の文人らが中国風の絵を描き始めました。
 断っておきますが、そもそも大陸の文人と日本の文人は定義が異なり、大陸の文人とは科挙に合格した高級官僚を指します。我々が思う日本の文人のイメージは、書画をたしなむ風流人といったところでしょうか。

柳澤淇園「蘭花果実図」

 ここで日本南画の祖といわれる江戸中期の代表的な4人の人物を紹介します。
祇園南海/ぎおんなんかい(祇南海)、服部南郭/はっとりなんかく(服南郭)、彭城百川/さかきひゃくせん(彭百川)、柳澤淇園/やなぎさわきえん(柳里恭)です。カッコ内は中国風に加工した雅号です。当時の南画家がいかに大陸かぶれと言えるほど大陸への憧れを抱いていたのかが見てとれますね。
 そもそもこの4人が日本南画の祖と言われるのですから、日本南画はその始まりから大陸の南画とはだいぶかけ離れていると言わざるを得ません。畢竟日本の文人と大陸の文人では定義が違うのですから、自ずと両者の文人画(南画)に対する意味あいも変わってくることでしょう。
 彭城百川などは町人出身の職業画家で、自らを売画自給と称すほどの人物でしたし、柳沢淇園の花卉画などはしっかりと彩色が施され、およそ南画とは別ものの新しささえ感じる絵画です。

 日本の南画の画風は大陸の南画とやや異なり、目標は写意や理想主義に置きつつも、手段は写生に立脚する傾向にありました。
 つまり、絵の中に自らの心意や理想を組み入れようとするのは本来の南画、文人画と共通しますが、実際に描く時は対象物から離れて思いのまま描くのではなく、ある程度形似を意識するということになります。こういった傾向は、明治以降の四条派の画家にまで脈々と受け継がれているような気がします。


タイトル画像:彭城百川「山水図屏風」

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