南画 2
前回は南画、北画の成り立ちについて簡単にお話しました。
薫源(とうげん)や巨然(きょねん)、あるいは 黄公望(こうこうぼう) 、倪讚(げいさん)、呉鎮(ごちん)、王蒙(おうもう)など元の4大家が当然のように南宗画に分類されているとはいえ、それはあくまで後世になって区分けされたに過ぎないということを初めにお断りしておきます。
というのも、後世に区分けされた分類が、果たして真に画家達の正しい評価となりえているのか、曖昧な気もするからです。
さて南画と北画、この大別された2つの絵のスタイルは、教科書的に述べれば、北画は華北山水に見られるような高く険しく豪壮な山々の風景絵画、南画は江南山水に見られるような穏やかで柔らかい清雅な風景絵画ということになります。確かにこの二つには見た目の印象に歴然とした違いがありますが、両者の決定的な差異は絵を描く態度の問題だと思います。
北画はアカデミックな修養を積んだ宮廷画家などが描く絵で、描く前から全体を設計し絵をひとつひとつ堅実に構築していくような隙のない画面で、画家の精神性は画面から排除されています。(それでも素晴らしい北画は画家の精神性を感じたりもします。下の絵を見てください。北画に分類される夏珪の絵はまるで南画の趣を醸し出しているではありませんか!)
南画家は北画家と違って誰かの注文のために描くようなことはしません。あくまで自身の内面の発露というか、自身の詩情を具現化する手段として書画を描くのです。ですからより世俗的なものから解放された南画のほうが北画よりも芸術的価値が高いとされました。
詩書画三絶という言葉があります。詩も書も画も絶品、最高水準ということですが、詩が書けて書が書けて絵が描けるような教養があり能力のある人は、当時は高級官僚(大陸では科挙に合格した高級官僚を文人といいます)とか官僚を引退した人くらいしかできないので、南画=文人画とも言われるのです。 唐の詩人で有名な王維(おうい)という人がいます。彼もまた高級官僚で、実は王維(王摩詰)は南画の祖と言われ、詩、書、画どれも優れた人でした。
書画の中に詩情を求める文人画の芸術的価値が高かっため、かつては売画で生計を建てることは恥ずかしいこととされていました。お金のために絵を描くなんてお金に魂を売るような臭俗な感じがしたのでしょう。もっとも文人は財力もありましたので、詩書画に優れ教養も財力も兼ね備えた文人は、完全無欠の存在だったに違いありません。
南北二宗論を提唱した董其昌は南画の優位性を説き、当然ながら自らを南画家のグループに分類しました。彼は、形ばかりで神韻がない絵はだめだといっています。対象の上っ面だけなぞるのではなく、その内面にある真(神)が見て取れるような絵でなければならないということでしょう。この境地に至るにはよほどの修練が必要となりますね。
しかしこの境地がおそらくは我々水墨画を描く者にとってのゴールとなるわけですから、董其昌の言葉は肝に銘じておかなければいけません。
現代では、宮廷画家などはもちろん文人と呼べる人もいませんので、北画とか南画とか言っているのもおかしな気がしますが、北画という言葉はほぼ消滅していますし(自らを北画家という人はいるにはいます)、日本ではまだ南画という言葉がわずかに美術団体の中に生きています。
日本の南画についてはまた別にお話ししたいと思います。
タイトル画像:呉鎮「漁夫図軸」部分(元代)