言い訳と分析の違いについて
対戦ゲームで、曲がりなりにも競技シーンに10年以上身を置いていると、このテーマと何度か向き合う瞬間が来る
自分が取り組んでいるスマブラというゲームにおいては、特にSwitch新作のスマブラSPでプレイヤー人口も観戦者人口も爆発的に増えた結果、「言い訳をする人」も「言い訳を追及する人」も増え、より考えることが多いテーマになったと感じます
①「仕事終わりに大会に行くと疲労が溜まっていて実力を出しづらい」
②「モニターの設定の問題で音が聞こえづらく、プレイがしづらかった」
③「空Nを出したかったのに、空前が暴発してしまったせいで反撃を取られて負けた」
④「ラグが多くて思ったような動きができなかった」
他にも色々あると思うけど、ざっくりと上記のような発言が大会で負けた直後のプレイヤーから発せられた時に、それを言い訳と指摘される場面は少なからず見ている人がいるのではないかと思います
①結論と思考の順序が重要
今朝、元陸上選手の為末大氏のnoteで、このテーマで書かれたものを言及していたので読んでみました
少し長めなので、ざっくりとまとめると
・分析は事実(負けた原因)を明らかにすることで、考えることが先で、その後に結論が来る
・言い訳は自分は悪くないという結論が決まっていて、そこに辿り着くようなストーリーを自分の中に構築すること
・分析を行っている人は、「あの時自分に何ができたか」「これから自分が何をすべきだったか」を必ず説明できる
(ただしこれは言い訳をする人がこれらを説明できないと主張してるわけではない)
この基準に照らし合わせると、上で出した4つの例はどれも分析であるための必要条件は満たしているように感じる
①では「次から仕事後に大会に行くことはやめる」、②では「音の問題がある環境でプレイしない」、③では「空Nをミスすることなく操作できるよう練習する」、④では「オンライン対戦をもうやらない」「ラグがあるとオフライン対戦と同じ意識配分が成立しないから、ラグがある環境下で成立するような意識配分に修正する」とか
でも直感的には、①~④全て見る人によっては言い訳と取る人がいそうだし、個人的な感想としては②のみ言い訳っぽく見えてしまいます
上の基準だと、考えることが先か、結論が先かは結局「鶏と卵、どちらが先か」的なお話かなと思っていて、そこに明確な前後関係は付けられないので結局印象論の域を出ないのかなと思いました
ここで、引用した為末氏の定義として破綻しているということではなく、そもそもどう考えたってそれは見る人によるんじゃないの?という思考に至りました
で、このインターネットの海で同じようなことを考えている人がいるかどうか確認するため、「言い訳 原因」とかでGoogle検索をかけました
②言い訳かどうかはそれを受け取る側によって規定される
https://el.jibun.atmarkit.co.jp/101sini/2016/10/post_15.html
色々な事情があり、全てにしっかり目を通せていないのですが、これは恐らく僕の考えと結論としてはかなり近いものでしたし、コンピューターを使った例えは僕が今まで考えたことがないもので、なるほどと思いました
コンピュータが言い訳をしない理由。それは、出力されるデータに感情が乗らないからだ。性能の悪さに怒るエンジニアはいても、サーバが落ちた時のログを確認して、「これは言い訳だろ!」とコンピュータに対して怒るエンジニアなどいないはずだ。
確かに、「仕事終わりに大会に行くと疲労が溜まっていて実力を出しづらい」も「CPU使用率が高すぎるので、配信出力で問題が発生しています」も本質的には全く一緒で、前者は言い訳として取られ、後者は言い訳でないのはこの発言を受け取る側が、発した側に対して何を思っているかの違いだとは思います
(この例では、思うとかいう次元を超えて根本的に違いが発生しているとは思いますが)
言い訳と分析の間の線引きに対する結論
これは前からの僕の考えなんですが、結論としては「何が言い訳で何が分析で何が説明でとか考えても結局その線引きはできないし、その線引きをするのはそれを受け取る人の気分でしかない」というものです
これを僕のようなプレイヤー/配信者に"都合良く"解釈すれば「俺が何を言ったって、叩いてくる奴は気分で叩いてくるんだからどうしようもない」になるし、"都合悪く"解釈すれば「俺が言ったことを『Shogunさんが言ったことは言い訳でなく、上位勢ならではの立派な分析であり説明である』と主張する人だって、結局それは俺のことを好きなだけであってそこは本質的でない」となる
この2面を理解した上で、自分がしたいように発言をする、が正解になるのかなと思います
なぜ言い訳は批判されるか
ちょっと話は逸れるけど、「そもそもなぜ些細な発言がすぐに"言い訳"とされて批判されてしまうのか」は、感覚的ではあるけどその力学は理解しているつもりで、
「視聴者は、特に競技的な試合を見る場合は気持ちよく"勝ち負け"のみを受け取って、勝負に決着が付くのを見届けたい」
という意識が前提にあり、その意識は
「負けた側が、敗因を『Aが起こったからだ』と説明してしまうことで、Aが起こらないように努めたら今自分が見届けた試合の結果はひっくり返ってしまうのか?」→つまり本当の決着はついていない?
という疑念を抱かせ、目の前の試合の結果が持つ価値を薄めてしまうからだと思っています
それに対し、プレイヤー側は特に負け試合の後は「次どうすればこの勝敗をひっくり返せるか」と考えて取り組みを始めます
結局両者の軋轢は、"今目の前"を見ている視聴者と"その次"を見ているプレイヤーの視点の違いによって生じていると考えています
だから、プレイヤー/配信者側がケアすべきは「何が言い訳として取られるか」ではなく「自分が思ったことをどこまで言って、どこから我慢するか」だけだと思っています
以上が、言い訳に関する僕の今の考えです
ただしこの文章は、睡眠リズムが崩れてなかなか眠れない時に偶然考えたテーマを文字に起こしたものなので、引用元の曲解や論理的な不備が発生している可能性はありますが、眠い中で短時間で書いたため許してください
(これが言い訳です)
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