里見菜穂子と綾波レイについて。

今回は里見菜穂子と綾波レイについて書きたいと思う。

里見菜穂子と綾波レイについて書くということは、それぞれがヒロインを務める『風立ちぬ』と『新世紀エヴァンゲリオン』について書くことであり、即ち宮崎駿と庵野秀明について書くということである。さらに言えば、それは堀越二郎と碇シンジについて書くことに等しいとも言えるが、それは別の機会に譲る。

また、今回取り上げる綾波レイとは基本的に『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のアヤナミレイ(そっくりさん)を指すものとする。

里見菜穂子と綾波レイ、この2人を横並びに論じることは唐突に感じるかもしれない。

しかしこの2人の薄幸なヒロインは、それぞれの作品をブリッジしつつ、互いが抱えるひとつのテーゼについてアシンメトリーな応答を試みているという意味で両作の批評の重要な切り口となる。

それは『シン・エヴァンゲリオン劇場版(以下、シンエヴァ)』が第3村での生活を描くAパートにおいて、庵野秀明が綾波レイを起点に『風立ちぬ』のDパートを立ち上げなおそうとしている、と解釈することから始まる。

その起点とは、綾波レイが鈴原トウジの実家での借りぐらしを畳んでシンジの元へと向かうシーンから始まるのであり、このくだりは『風立ちぬ』における里見菜穂子が黒川家の離れから脱出する流れと鏡のように一致する。

具体的には、綾波レイが制服をキチンと畳んでその上に置き手紙を添えたこと、そして里見菜穂子が着物を整然と着物がけに掛け、置き手紙を残したことが同期している。また、その2つの晴れ着は借用品であり、菜穂子はサナトリウムから脱走してきた際の私服、綾波レイはNERVのプラグスーツという元々の衣装で仮住まいを去るという点もオーヴァーラップする。つまりこの2人は晴れ着を脱ぎ、与えられた運命を全うするために各々が死装束で死地へと向かう、という共通点がある。

ただし、完全に同期する両者の行動はその行き先においては鏡のように正反対に映る。

菜穂子は二郎のもとを去り、ゼロ戦のテスト飛行をする二郎のもとには彼女の暗い最後を伝える風が立つ。つまり、堀辰雄に翻訳された「風立ちぬ、いざ生きめやも(風がたった、死ななければならない)」というヴァレリーの詩の一節はここでひとつの敷衍を見るのである。

一方で、綾波レイは違う。

二郎と会うことを避けた菜穂子と異なり、レイはシンジに自らの死とその想いを赤裸々に告白し、目の前でLCLに還ってしまう(死んでしまう)。

ここでこの2人のヒロインの悲劇性を熱弁したいところをグッと抑えて、視点を2人のヒロインから『風立ちぬ』と『シンエヴァ(と本来のエヴァ)』という2つの物語の位相に移動する。

この二つの物語に共通する構造は繰り返し、つまりループものであるという点なのだが、これもあまり意識されていないかもしれない。

『風立ちぬ』のラストシーン、二郎と菜穂子が再会する丘を鈴木敏夫は「あそこは煉獄なんですよ」と語っている。ざっくばらんに説明すると、煉獄とはダンテ『神曲』に登場する地獄と天国の狭間、死後の人間が赴く場所とされている。そこは自身が生前に犯した原罪を贖うまで何度も生前の罪を体験する、つまり生き直す場所であるとされる。

一見するとラストシーンで菜穂子が「生きて」と告げるのは、二郎へエールを送るハッピーエンドのように見えるかもしれないが、本当にあの丘が煉獄ならばむしろそれは呪いの言葉となる。

つまり、菜穂子は美しい物しか見ようとしない二郎の「呪われた夢」を肯定していながらも、決して道徳的に赦しはしない。何故なら「二郎さんに美しいところだけ見て欲しかったのね」と黒川の妻が言うように、菜穂子もまたその呪われた夢、言うならば二郎の原罪へ加担することで自身の存在価値を保とうとしていたからだ。

故に、菜穂子は二郎の「呪われた夢」を道徳的に許さない限りにおいて、何度も何度も生前の美しい姿で二郎の前に現れることができる。煉獄での彼女の出立ちがまだ病に侵される前、軽井沢で二郎と出会った頃の姿となっているのはその証左であろう。彼女はベアトリーチェとしてではなく、ひとりの原罪塗れの人間として煉獄を愉しんでいるのだ。まさに死して尚、その呪縛に囚われているのである。

それではエヴァはどうだろう。

新劇場版の制作発表の際、庵野は所信表明で「エヴァは繰り返しの物語です。」と述べている。『シンエヴァ』でも渚カヲルがシンジのifの父親像という、ゲンドウの原罪を背負って何度も生き直していることが明かされたように、エヴァという物語もまた非常に煉獄的である。

しかしここでまた非対称性を見せるのは、エヴァ初号機のエントリープラグでシンジを待ち続けた綾波レイ(オリジナル)である。そこでのレイは悠久の時を経たかのように髪が伸びきっているのだ。その点、在りし日の姿であり続ける菜穂子とは異なる。

しかしこの展開は、まさに在りし日の姿でしかいられない綾波レイ(そっくりさん)が、菜穂子とは逆にシンジの前で死に果てたからこそあるのである。

つまり庵野は、『シンエヴァ』で今まで通りの「繰り返しの物語」から脱却することを決断したのだ。その起点が綾波レイであり、それは度々「引きこもりの物語」「オタク気質の象徴」として批判を浴びてきた本作が内包する『風立ちぬ』的なデカダンスとの決別ということができるだろう。

しかしその一方で、レイやアスカの髪だけが伸びる現象もまた「エヴァの呪縛」という呪いの一種であることも忘れてはならない。

この物語(『シンエヴァ』)は、今回論じたAパートから始まる綾波の態度から『風立ちぬ』がもつ虚構としてのサブカル批判を引き受けつつ、自身の歴史とその呪縛、葛城ミサトがいうところの「全てのカオス」にけりをつけていくのだが、これもまた他の機会に譲ることとする。

以下、次稿のためのメモ。

(内部化されたシン・ゴジラ、ウォークマンと眼鏡の呪物的関係、呪物の返還、虚構からマイナス宇宙(現実)へ、歴史としての記憶、記憶の開放、メディウムとしてのフィクションの肯定、2つの天使、酢漿草と祝福)

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