白い楓(18)
明がお宮を連れて出ていくと、ドアを閉める音がして、周旋人は一人ぼっちになった。何となく、彼はドアの淵を撫で、ざらつく素材が指に与える感覚を楽しみ、やがて彼は無聊に落ち着いてしまった。
頭の中に、キャバクラの店内が映し出された。隣に座る嶋が笑っていた。過去を想起しているのだと気づき、嶋が笑う前の発言を思い出した。
「俺も含めて、この世の中は実に吐き気のするほど穢れた人間どもであふれていると思っている。みんな、馬鹿から金を合法な形で盗み取っているんだ。信頼の壁に向かって知恵の糞便を投げつけて、その壁を見ては清々しい達成感を覚える。そして『さあ、明日も頑張ろう』と言うんだ。それが、俺達が呼ぶ労働というやつの黒幕さ。俺は今日、気まぐれでせめてもの罪滅ぼしと思って、馬鹿どもから奪った金を、ここで働き、人身で商いをしている馬鹿どもに返してやるんだよ」
侮蔑は先の発言からも明らかであった。嶋はこらえきれぬように笑っていた。ここで働く女性が、男性が、裏で涙を流していることを知っていた香山は、純粋な心で嶋に賛同することができずにいた。それでもそんな男を目の前に、香山は愛想を振りまいていたのだ。自分の希薄な罪悪感が、他人に媚びること、見えない人への侮蔑を許してしまっていた。過去の出来事は万事不可逆な決定性を持つため、過去に戻れたら、などと夢想することは決してなかったが、この男を殴り、店を離れればよかった、とこのときは一人で繰り言をしていた。
仮にこの男を殴っていたとしたら、今の彼の経済状態はどうなっていたのか。きっとこの業界のコネも得られず、生活の安定を望んで手を抜いた犯罪を働いて懲役を自ら望んでいたのだ。頭のどこかで、金銭が得られず所在を得られぬ仕事をするよりは、檻の中の生活がいいと思っていた。嶋を殴り、細々と生活することを、今の潤った自分が心底望むとは考え難かった。……
『では、やはりは俺この男を殴らなかったことを称賛する心理にあるのか? だとすれば現存の俺は、矛盾そのものではないか! 矛盾をかき消すことができないのなら、それが罪悪の苦悩ととらえるとするなら。……』
改めて博多駅の人々を見回した。彼らと自分は根本で共有するものがある。誰もが人目のないところで倫理観に唾を吐きつけ、生存の欲求を実現するために生きている。すると彼らはきっと言うだろう、『私達と犯罪者と同じにするな』、と。ところが誰もが社会契約を恐れて道から大きく外れぬようにしているだけで、その上にちょうど良くつまづくように配置された小石があったのであれば、刹那に自分と同じレッテルを持つようになるのだ。『犯罪者』など、人間が超偶然に配布する安っぽいちゃちなレッテルなのだ。法律的犯罪とは、あくまで自然権から経験や演繹をもって導かれた行儀のよいお約束である。いったいこの中の何人が一人暮らしの部屋で正座して飯を食っていると神に誓えるのであろうか?
かつて香山は和白という大変に辺鄙なところに住んでいた。どうにも金がなかった当時の彼は、畑の野菜を盗み、腹が満ちるまでむさぼった。それが善なのか、悪なのか、ではない。その作物の裏にある年間通しの苦労を完全に思考から消していたのだ。他人の痛みなど想像の極限にあるもので、そんな得体の知れぬものを自己生存の論理に組み込む必要がないと確信していたからだ。この国では、法律を破り、国家システムの機構に絡まれば収監される。それが単なるシステムというものなのだ。遠目で見つけた脆弱性らしきものをつついてシステムの網を潜り抜け、彼はかろうじて寿命の延長を図っている。社会形成の観点や労働への姿勢から見れば、彼は『嶋』と何らの相違を持たない。
論ずるまでもない、了解されたことであるが、彼が進んで殺人を請け負っているなどと勘違いしてはいけない。第一に彼は、殺人に生理的な嫌悪を覚える。少なくとも今はその自覚がある。
殺意がなかったとはいえ、お宮が首を絞めたとき、今から縊り殺されると誤認したのだ。一時的に死を完全にわがものとしたのだ。その瞬間に確実な死を目前にしたのだ。あの瞬間に人生を悔いていることを思い知った。風俗店で働いていたときに芽吹いたあの感情など、若さゆえの誤謬で、とうに消失したと思い込んでいたのに、確実にあの86の中で、追い払ったはずの罪悪が培われはじめたのだ。人を傷つけたとき、自身も傷ついていたのだ。
香山は罪悪感から暗黒に身を堕とすことを禁じえなかった。彼の抱く暗黒では自らの作り出した地獄がありありと描かれていた。こんなはずではなかったとむせび泣く農夫、子供の死をしらされ、かつてなされた過度に行き過ぎた叱責を宛てもなく謝罪する夫婦、喪った恋人の切手コレクションを抱きかかえる背中、植え付けられた仮構の期待を裏切られた客に容姿をののしられるソープ嬢、偽物の愛に自尊心を無残に扱われた女達。そして、ソープ嬢が再来した。……
『では死ぬのか? あの一種の臨死体験の際に彼が見た死には、確かに万物に絶対的優位を見せつける美しさがあった。今一度苦痛に伴われる死を眼前に置けば、再びあの美のシャワーをかぶり、そして俺は、免罪を得て永遠に旅立つのではないだろうか?』
自問を中断して、自身の死が遁走であるという反対の観念を得た。他人に負わせた傷と自身の負った傷の両方を彼は抱擁し、癒さねばならないのではないだろうか? 彼が死ねば、その将来性行為は永遠に失われる。生理学にならえば痛覚は生命機能の停止とともに消え去り、罪悪を根拠とするその痛みは損なわれる。この種類の痛みは、彼にとって損失ではなく、利益である。かくて痛みは「損なわれる」のだ。ショーペンハウアーによる寓話で次のようなものがある。ヤマアラシが寒空にておしくらまんじゅうをするとき、近すぎてはお互いの針が刺さり、遠すぎては温め合うことができなくなる。このとき、一方のヤマアラシは相手に針を刺してしまい、自分も同様に刺される痛みを感じて、お互いにとって適切な距離を探るのだ。痛みを次のおしくらまんじゅうの糧にして、お互いを温め合っている。香山は人を殺して、絶対的な孤独に入水することで距離のジレンマを脱した。それでもヤマアラシ達と同じ結果に終わるのが、香山にとっての倫理に沿うことを、頭では分かっているつもりだった。
彼のミラージュは続いた。腕時計を見て、彼はその文字盤を見た。鏡越しに左耳のフープピアスを見た。ついでに背中を観察すれば、それは真っ黒に日焼けしていた。運転しながらタコメーターを見た。信号機を見た。前触れもなく満月を見た。その満月の地中に埋まり、青々と煌めいて自転を伴う公転を繰る地球を見て、太陽を見た。そしてそのすべては黒い闇へと沈み込み、それまでぶつぶつと何かを彼に訴えていたのに、突如沈黙を決め込んだのだ。
闇が晴れていった。魔物じみた、異界の存在が現れた。それは三つの目でまっすぐと彼を見ていた。足と手には長く鋭利な爪が生えている。しかし手と足は合計で六本見える。ふとその存在をどこかで目にしたことがあるような気がした彼は、記憶の本棚の前に立った。何かに操られるように彼が手にした本は仏教の絵図を紹介する者であった。その絵を参照にすると、自分の前に立つ存在の正体を知った。それは神であった。名称は、羅刹天だった。これが抱擁するものは、ちょうど馬車の車輪を思わせる円状のものだった。車輪の中には細かく区切られた映像が映し出され、人の一生が場面ごとに描かれていた。再び羅刹天の目を見た。恨みでも怒りでもない、全く異種の切迫をもっていた。その目にはひとたび恐怖を覚えても、徐々にその感情が色を変えて、畏敬になった。どこかで見たような、見なかったような景色であった。
一連の光景を彼は理解しようとした。確実に、自分の内界で生まれた何かが独立して自分に何かを伝えねばならぬと使命にみちたものに思えたのだ。それは彼の想念であり、想念ではない。外界からやってくるものが、こうして一人いる空間で、一人寂しく描かれるはずがないではないか。
香山はここで、『自死』を垣間見た。
香山は一体いつからこんな罪悪に苦しみを感じるようになったのかふしぎがった。確か風俗店で働いていたときにこれまでに罪悪感で苦しんだことはなかった。先ほど縊り殺されかけたとき、香山は当時ソープ嬢を相手に、人の苦しみを感じたと想起したが、それもなるほど、それほどまでに罪悪感に敏感であれば、この世界に入るはずがないのだ。自分は死を目前に、やはり自分の人生を罪悪感で美化しようとしていたのだ。それは生を得た後で『死んでたまるか』と活力を得たことが証明している。死を近くに見れば、人は幸福を得ようと自分の人生を美化しはじめるらしい。
そう……この仕事を生業にしたのは、他人の利益なんぞどうでもいい、と考えていたからだ。
契機を探った。請負殺人をはじめた後であると考えると、一つ思い当たる節があった。今までの人生のレールを敷いた存在を、彼は殺してしまったのだ。
―周旋人は、助手席に気配を感じた。車には一人ぼっちのはずだった。すなわち、香山はその気配を無視しようとした。しかし、のっぴきならぬ心地がして、念のために左へ顔を向けた。
女が座っていた。Kだった。遠くから見つけて、写真を撮った、あの女に相違なかった。Kは、下を向いて座っていた。白いブラウスを着て、黒い短めのスカートを履いている。濃い色の苺を思わせる口紅は、少しの冒険心を表すような風情で、大変に趣深い印象を彼に与えた。そして、その印象には、程よくふくよかな頬や、海風のようにまっすぐな鼻筋が加勢していた。何より、目については段違いなものを持っていた。彼女の瞳には、ラピスラズリや金緑石の放つ光があった。白目には濁りなんぞは言うまでもなく、いかなる穢れも浮かべていなかった。この女を見て、振り返らなかった男は後悔するか、わざとらしく道を戻って拝みに行くかの二種類だけだった。しかし同時に、どこかに一度でも紙を滑らせれば切り傷がついてしまいそうなほどのもろさがあった。
彼がKを前に一切の色欲も催さなかったのは、その現実性の皆無によるものだった、とは言うまでもない。男が女を美しいと評価するとき、それは内に湧き上がる性欲を通過している評価である、というのは有名な話だ。対照に色欲を覚えなかった彼は、Kの魅力を性欲のフィルターを抜いて知ることができたことになる。助手席に座るこの女が女神だと言われれば、彼はその宣告を歓迎し、あがめ続けただろうに。
Kは明によって窒息死させられたはずの女だった。きっと自分は、また罪悪感から幻覚を見ているだけなのだ、とその姿を無視しようとした。しかし彼の試みは暖簾に腕押しであった。
Kがサンシェードを下げてみせたのだ。サンシェードは、彼の前で確かに動いたのだ。自分が夢を見ているのか、わからなくなった。
「香山が風俗店で働いていた時の話を聞かせてよ」
彼はなぜかゆっくりゆっくりと話をしていた。夢の中において、本来起こり得ないことをあたかも起こり得るありふれたことのようにとらえるあの感覚に似ていた。
「ヒモをやめたとき、学歴も職歴もなくて、どこも雇ってはくれなかった。俺は途方に暮れた。親からはすでに縁を切られていたから、もうたくさん稼げるのは水商売だけだと思った。とにかく、その場しのぎでもいい。何か収入がないと死んでしまう。俺はその場しのぎと、水商売の世界への好奇心で入った。きっと何か他の世界でも役に立つことが学べるかもしれない、と思った。実際、役に立つこともあった。店に入って来た客は、原則として帰さない。その場で話をつけ必要とあらば嘘をついてでも客から金を奪っていった。写真を先に見せずに、
『お客さん、今、少しぽっちゃり系とスレンダー系の子がいるんですけど、どちらがいいですかね。ああ、はいはい、そういう条件でしたら、この子ですね』
と言うんだ。客には、自分で女を選んだという自覚があるらしいが、本当は違う。すべて、店側の都合で決めるんだ。結局、客は女に対面するまで本当の姿を見ることなんぞできやしない。部屋に入れば、八割は出てこないで、妥協してセックスをするんだ。こんなのは、映画館のシステムにも似ている。観客は、映画を見終わるまでその映画が本当に面白いものなのか、面白くないものなのかが分からないんだ。あの日も、その嘘がいけなかった。仕事が終わると、俺は部屋にいる女から呼び出された。彼女はベッドに腰かけ、煙草を吸いながら俺を待っていた。彼女は泣いていた。
『どうして泣いているんだい』
俺は分かっていた。でも、違うと願いながら尋ねた。
『あんたのせいやろ、嘘ついて、お客さん入れて、あたしどんだけ暴言吐かれながらやったと思いようと? 何で、あたしだって自分がかわいいなんて思い上がっとらんし、周りの人の反応を見ればどげん風にみんながあたしに腹の中で評価を下してるかぐらい、見透かしとう。あたしせめて会話ぐらいは一流にしようと、頑張りよったんに。大体からあんたなんか、死ねばいいとよ。死ね、死ね……あたし、悔しい……』
俺は慰めてやった。何も考えず、君はこんなにかわいいじゃないか、と繰り返してやった。きっと彼女はそう言ってほしいのだろう、と肌でわかったから。やはり、俺の読みは間違ってはいなかった。彼女はやがて泣き止んだ。彼女は、自己愛の補助を求めるために俺を呼んだのだった。俺の付け回しの改善を要求しているのではなかった! 自己愛ゆえの、結論だったんだ!
俺は帰宅して、自分が正しいことをやったんだ、とばかり思って、毎日毎日過ごしていた。翌日もその翌日も彼女は出勤したしな。俺は、何も考えなかったんだ。これから、俺はこうやって生きて、死んでゆくのだ、と。楽観すらしていた。彼女の選択なのだから、身売りしたっていいじゃないかと。今ではどうだ、義憤で悲しみを催すまでにもなっている。何時の間にか、水商売はその場しのぎではなくなっていた。もう俺はあの職の、時給から逃げられなくなっていたんだ。そんな日が、店がつぶれるまで続いた。俺は、金さえ入ればそれでいいや、とずっと暮らしていた。
俺は今、ずっとそのことを後悔している。すぐに身売りをやめろ、と言えばよかった。エゴだとはわかっているが、肉体を対価に、そぐわぬ大金を得ては使い果たして、何より人の評価を嘘だと勘ぐりながら受け入れるだなんて、俺の道徳が許す行為ではないんだ。それだけじゃない。この論理を正しいとする俺だから、人を殺して営むこの生活が、苦しくてたまらない。思えばこの世界に入ったのも、きっと好奇心からだった。うまそうな危険の匂いに誘われて請負殺人をはじめた。俺は、警察の目を欺く自分の能力にずっと酔っていた。ヒモのころから何の成長もなかった!
好奇心といえば、こんなこともあった。俺は、付き合っていた女の顔に向かって唾を吐きつけた。自分のことを信頼しきった女が、いざ自分に危害を加えられたとき、どんな反応をするのか、知りたかったんだ。女は理由を問いただし、理由をきくと俺に怒号を浴びせた。でも、俺は学んだんだ。信頼は一つの行為だけで簡単に失われると。俺は、好奇心の旺盛な、人として当然のことをしているだけだ」
罪悪を告白する香山をKは冷笑して、彼を一蹴した。
「あっそうなのね。好奇心とか、何とか言って、自分の身に降りかかることを考えず、自分の器量に合わないことをやって、自分で自分の首を絞めているのがあなただわ。あははっ、そういえば、あなた達が私を殺したのも首を絞めて、だったわね。それに、思い入れのない他人のすべての行為に責任を持とうだなんて、可能なはずがないじゃない。お月様をねだるようなものよ」
返す言葉もなかった。Kは続けた。
「私は田舎で生まれてね。田舎って、セックスぐらいしか楽しみがなくてさ。中学校でもう勉強とか、通うのとか嫌になっちゃって、高校へは行かなかった。でも、どうにかして高卒の資格は欲しかったから、通信制の学校を選んで都会に来た。一年に何回かしか学校に行かなくていいし、誰だって卒業できるしね。すると、色々楽しいものね。大体クラブに行けばその日の終電が無くなってもホテル代を出してくれる男が現れる。たった一晩、一緒に寝るだけでだよ、おいしいじゃない。私だって人間だからむらむらとするし、性欲の実現と経済性を考えれば、そんな道に走るのは、おかしくないことだよね?」
「君は、もう少し自分を大切にしたらどうなんだ」
「え? どうして、自分の色欲を大切にすることが、自分を大切にしないことと同義なのかしら? 確かに、一人の、一回やったぐらいで彼氏面する怖ろしいメンヘラ野郎とやったのは計算ミスだったかもしれないわ。けれど、同じ種類のメンヘラに私は報われそうね」
「それは、……傲慢だ」
「どこが?」
香山は不意に口をついた言葉の根拠を知らなかった。答えに窮して黙ってしまった。
「すぐに答えが出ないのであれば、特段考えもなかったってことよね。人のことをそうやって、あいまいな表現で非難しようとするあなたの方が傲慢にふさわしい人じゃなくって?
今まで、失恋だってたくさんしてきたわ。最初はこの世界のどこかに自分と心を通じ合わせられる人がいると思って、そんな人を求めて数多の男と交際したの。私、結構美貌には自負があるから、男に不自由はなかったわ。でも、何回やっても、結果は同じね。あ、セックスのことじゃあないわよ。まあそれもそうだけど。離縁しては、プリクラを破り捨てて、LINEをブロックしての繰り返し。もうたくさんよ。ようやく十八のとき、この世の中に自分の完璧な味方は自分しかいない、と悟ったわ。
すると今度私を苦しめたものが喪失感だった。そうして生まれた孤独の夜は明けない。病的なしじまが四六時中私を囲んでいたのよ。私一人を残して、なんのうしろめたさもなしに世界が消え去れば孤独が消えるっていうやつ、誰が発明したのかしらね。私はそうやって自慢げに渡される処方箋を憎むタチだわ。いくらなんでも、人の煩悶が仮象で癒すことができるだなんて、実証のできない思いつきの特効薬じゃない。
今まで、職場に行きたくない日なんてたくさんあったのよ。女だから仕方ないよね、と仕事の成果を甘く見られたり、仕事の相談と言うから話をきいてみれば体目当てだったり、結局は男の論理についていけなければいいポジションなんて得られなかったわ。飲み会に行けば、必ずといっていいほど嘔吐するし、翌日の気分なんて最悪よ。生理休暇をとって家にいたら、人の悪口がどこからか聞こえてきて、それ以降は申請をやめてしまった、なんてこともあったわね。自分の拵えた、見えない他人の悪口って、聞いていてとっても辛かったわ。この都会には地元の女友達もいないの。私は、一人で生きて行かないといけなかった。それでも、私に癒しがあってはいけない、というの? これだけ毎日苦行に耐えて生活していたのに、精神的均衡の根拠を官能に求めてはいけないの?
理解に苦しむのは、それだけ罪悪感を感じる心を持ちながら、どうして私を殺す決断を下したときにその心が不能に陥ったのか、よね。それも、利益を得るための合理的な解だったとしてかたをつけるのかしら。あなたはあのとき、何を考えていたの?」
「何も考えなかった、意識をそらしていた」
「この」Kは香山に顔を向けて言った。「卑怯者、人でなし」
すると女はまた続けた。
「あいまいな表現は、こういうときに使うのよ。あなたの心にしっかりと傷はついたかしら」―彼女はサンシェードを上げた。
「……一つ聞いていい?」
「なんだ」
「どうして、その拳銃を頭に向けて発砲しないのかな。生きていて、自己矛盾や罪悪感で苦しいんだよね? 私、首を絞められながら、何度も懇願したわ。『やめて』って。明はやめてくれなかった。もう、自分の未来が喪われるという気持ちは、あなたも十分味わったでしょう? それに、あなたが死んでも誰も寂しいなんて思ってはくれない。誰もね。だったら、善は急げだよ、死ねばいいじゃない。死に遅れているのよ、あなた」
「何を言うんだ」
再びサンシェードを下げたKは、おもむろに香山に顔を近づけた。表情が近づくと張りのある頬や目元がよくよく見えた。キスをされる、と思った時にはもう目を閉じたKの鼻が自分の鼻と触れ合う距離にあって、唇が重なっていた。死霊の接吻は、彼の体温を奪ってゆくかのような、霰のようなものだった。Kは顔色をたいそう悪くし、青白くなった顔を遠ざけて言った。
「冥土産の、冥土の土産よ。自分の身を守るためにそのコルトガバメントがあるんでしょうに。このまま苦痛に耐えられると思って? 悔い改めても無駄だからね。人を殺して利潤を創出して、そんな人間に幸せになる権利はないわ。もうあなたは限界よ。早く死んだ方が無難だわ、そうね、あなたの言葉を借りれば、『合理的』よ。思い出して、あなたが見た死は、美しい観念のはずよ……」
女は香山の左側に座っているはずなのに、右耳にも同様の声量で声が聞こえる感覚が、彼の意識を現実から離れた場所へと吹き飛ばしていった。サンシェードを上げて、Kは消滅した。
風俗店の娘の声が切り取られ、文脈を失って現れた。
「あんたなんか、死ねばいいとよ」
彼は一人ぼっちになり、助手席には、置いた覚えのない彼の拳銃だけが残っていた。覚えがないだけで自分が無意識に置いた、と考えるのが普通だが、たった今死霊と会話した彼が信じたものはそうではない。Kが残したのだ。銃口がこちらに向き、何かを彼に訴えていた。人智をあざ笑う力学がバレルの中から彼を殺そうとしていたのだ。
ここまでして自分の中に自死を望む声が響いても香山は敢えて反対の意思をもっていた。彼の脳裡にあったのは、サバイバル精神というよりは、もっと下世話な頑固さだった。そうして彼は繰り言をした。何を考えようとこのまま、俺は命を絶つわけにはいかない、と。
『何かあれば、遠慮せずに電話してくださいね』
中崎の声だった。もはや機械的に動いていたが、香山はそのくせ震えながら彼に電話をかけようとしていた。……やはり俺は死ぬべきではないのだ。しかし、この一連を彼にどう説明したものか。死霊を見た、と伝えて、彼はそれでも自分に手を貸すのか。中崎は電話に出なかった。絶望を感じながら、コール音が繰り返されるのをきくばかりだった。
明がお宮を連れてくるのが見えて、慌ててスマートフォンを捨てて窓を開けた。虚ろに受け答えをしたが、香山には聞き取ることができなかった。かろうじて、自分の与えられた仕事だけを心得た。
香山はお宮に拳銃を突き付け、動きを封じていた。
「なあ、逃がしてはくれないか」
お宮がかすれた声で言った。香山の目を見つめていた。車の中は何も音楽が流れない。二人の呼吸の音だけがあった。香山は首を横に振った。
「どうしてだ、もうあんたたちの怖さは分かった、頼むよ、もう何も企んではいない。お願いだよ、後生だから」
癇癪を起した香山は拳銃の底で殴ろうとしてためらい、足で蹴った。五回蹴ったところでお宮が悲鳴を上げた。
香山は涙をこらえていた。そのまま彼に銃口を向け、明が帰るのを待つことにした。お宮を拳銃で殴りつけることができなかった。彼の痛みを想像してしまったのだ。自分の内面世界に彼の感覚を想像で取り込んでしまった。
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