白い楓(11)

 香山に会うべく乗った電車内で、明は自分を尾行する男がいることに気づいた。ジムでよく見るスキンヘッドの巨漢である。電車の人混みの中ですら、彼の首の太さが際立って分かった。警察か、同業者か。どちらの場合であってもひどく面倒に思われた。警察であれば、よほど手荒な真似はしないだろうが、捕まれば銃刀法違反で逮捕される。同業者であれば、と彼は純粋な興味をそそられた。
『同業者であれば、そこには金が発生する事案があるわけで、ちょっとやそっとのことでは俺の追跡をやめることはないだろう。それにどんな手を使ってくるか知れたものではないから、むやみやたらと接近することも得策ではない。だが、果たして人目に付くところで、やすやすと乱暴することなどあるのか?』
 ナイフと銃が露見することを恐れた明は、電車のドアの窓側に正面を向けて立っていた。そのまま電車をやり切るつもりであったのに、彼は衝動に任せ、そんな目的を忘れて男の前に立っていた。考えているうちに、男に話しかけるなどという干渉をやってのけてしまった。
「あの、ジムの方ですよね」
「次の、次の駅で降りるんだ」
 事態の諸条件について検証をしながら結論を出さずに、聳え立つ山脈を下る上流の水に身を任せるように行動するのは、明の悪い癖であることを、彼は知っていた。しかしそれを直す気も起きなかったために、今こうして何の対策も取らずに見知らぬ男に話しかけてしまっていた。座席に座りながら降車するよう命令する彼に、明はやすやすと従うことにした。彼の頭は明よりも下にあるはずなのに、体内から発生した威圧が明の全身を突きさしていたのは、彼の洗練された魂じみたものを明に感じさせた。

 明は自身の死を怖れたことがない。痛みなどにはたいそう鈍感であった。小学生の時、残酷な少年心を備えた朋輩から、
「車に轢かれてみろよ、二千円やるから」
 と、煽りを食らった。それが冗談半分のからかいであることを全く読み取れずに二千円という目先の金額ばかりが頭にあった明は、本当にその場で車に轢かれにいった。その頃の彼は、仄暗い意識の中にあった計算のもとに行動して、車が十分に近づいてから車道に飛び込む、などということはしなかった。運転手はブレーキをうまく踏んだために、明は両足骨折のみで済んだ。後日、二千円を徴収しようかと思い立ったが、その友人が転校したこと病室で聞かされた。非常につまらなくて、役に立たない奴だと思った。

 指定された室見駅から降りると、明は彼に連れられて人気のない室見川を渡る橋の下へ向かった。河原の細い曖昧な道へ降りる坂が彼らの自由な歩みを妨げた。男を同業者だと見てすでに警戒をはじめた明は、この傾斜では何も起こらぬと知っていた。予想は当たり、暗 真っ暗な橋の影に到着するやいなや、男は明につかみかかろうとした。この動作で明は、男が自分に殺意を向けていることを確信した。だが、明は、彼が自分に向けた殺意の先にある、この男が自分を殺せるという思い上がりが無性に腹立たしかった。今明らかになったようにこの男は明の同業者であったために、生じる厄介は少ないが、彼がたとえ警察官であったとしても明は殺害しかねないほどに内の衝動を抑えきることを苦手としていた。
 突き進んだ明は、彼に自分を殺させないことでこの男から屈辱や憎悪を引き出してやろうと思ったのだ。そうして、この男の意思をへし折ってやるつもりになったのだ。
 横に身をそらして男の突進を回避した明は、懐の刃物で彼の脇腹を突いた。そして肉を突き刺す感触を得た。ところが驚いたことに、男は勢いを緩めずに明を蹴ったのだ。バランスを崩して思わずしりもちをつく。明はとっさにナイフを確認した。しっかりと右手に握っているし、しっかりと血がついている。即ちナイフは刺さったはずだし、血の色は赤い。彼は自分と同じ人間のはずなのに、ナイフの一突きでは動じないのであるなら、どうすれば自分は彼を殺せるのか、と明はふしぎがった。要は男の殺意を妨害すればよいため、明の当初の目論見では男がひるんだ隙に逃走するつもりであったが、あろうことか自分に隙が生まれ、彼は逃走とは別の道を見出そうとしていた。
 彼が明に乗っかかり、雄たけびを上げながら何か得体の知れない、拳ではないもので明の顔を二発打った。そう感じた明は何で殴られたのか、確認しようと彼の手を見たが、そこには固く握られた拳しかなかった。思わず目を疑ったが、やはりそこには拳しかなかった。明は今まで数々の拳を食らってきたが、この二発の規模の衝撃は生来経験したことのないものであった。明は口の中を切り、右側の歯が抜け落ちた。明が耳にした雄たけびは決して大げさなものではなかった。彼の強打に、非常にふさわしいものであった。
 明は彼の脇腹をもう一度刺した。彼が明の顔面を素早く三発打った。歯がまた一本抜けた。もう一度刺すと、彼がようやく痛みにこらえ切れずに地面を転がった。苦しみながらも彼は、怪しい白い光をまなこからこちらへ放っていた。
 白い光は、彼の強靭さを表していた。それは明の胸に深刻な傷を与えた。明は、彼が自分の上にのしかかったときでさえ死を怖れなかった点について自画自賛してしまうが、自分の能力では及ばぬ存在を認めようとしていたのだ。人の痛みなんぞに目もくれず生きてきた自分は、誰よりも人の命を奪うことには適正であるはずである。それなのに彼を殺せなければ、生まれた環境や、容姿などではなく、自身の生業への誇示が根拠を失いそうになるのを感じると、『なんとしてもこの男を殺さねばならない』、と考えた。香山にはとやかく言われる可能性を考えたが、この際そんな問題は矮小だとすぐに思い直した。彼を殺さねば、自分のこの認識が誤りであることの証明にはならない。
 もはや明は衝動的殺意をもって彼の首に狙いを定めていた。
 凶手を引き戻したのが、激甚な無力感であった。明は改めて彼の首の太さを目前にし、極限の意識の中で樹齢数千年の樹木を見たのだ。それは太陽に照らされながらもその太陽に威厳を明確なものとし、現実の世界に君臨する長寿の怪物であった。小鳥や水すらもその存在を怖れ、自然の事物としては全くあり得ぬ成長が、彼の脳を駆け巡った。大樹は、彼に何の興味も持たず、ただのか細いマッチとして彼は佇む羽目になったのだ。俺には、絶対にこの首にナイフを当てることができない。……
 明は、電車の座席に腰をおろしているところで自我を取り戻した。ナイフや、拳銃はまだ身に着けていた。しかし、先ほどのもみ合いで落としてしまったのかAirPodsのみが見当たらなかった。それでも、口の中や、頬の痛みではなく、あの首からなる恐怖で彼は震えを抑えることができなかった。全身を走る悪寒は、香山と待ち合わせた駅で降りるまでそのまま駆け回っていた。

 震えを抑えた明は、降りた駅のロータリーで香山の86を発見した。顔面の傷をとやかく質問攻めにされるのだろう、と思い少し陰鬱な気分で車に近づいていった。iPhoneの時計を見ると、既に約束の時間を過ぎていた。早めにジムを出たのに、思わぬ障害を乗り越える必要があったことを説明せねばならないことも、明の気分をみるみる沈めていった。
 スキンヘッドのことを思うと、自分が死にかけた事実も連想され、怒りを覚えた。しかしすぐにあの巨木のミラージュが連なり、そのミラージュが自分の心を覆いつくしてしまいそうで、些末なことだと無視しようと試みたが、それが虚勢と認識して苛立ちを覚えた。
 86の中をのぞくと、警察官が香山の喉を腕で押さえつけていた。鬱憤のたまった彼はこの警察官に殺意を向けることにした。ドアを開けてナイフを警官の肩に立てた。
「明、ぶち殺せこいつ」と、香山が言った。彼は自分の発言を誤認していたのであった。
 お互いに意思が繋がり、香山の言う通りに殺害へ向けて歩みを進めようと、もう二度肩を刺したところで、香山が驚いたように明を止めにかかった。明は彼の言動に外れたことをしていないのに、香山はそんな風に制止したのであった。
 周旋人は続いて、明と警官に後部座席へ乗るように伝えて車を出した。
 車の行き先よりも、自分の苛立ちの行き先の方に興味を与えられた明は、とにかく束縛された警官を殴打していた。拳が痛み、血が出ていることに気づいた。狂気に溺した明はその拳を舐め、唾液を警官の服で拭ったところで鬱憤に別れを告げたのだった。
 香山に連れられた二人は駅から離れた貸倉庫に入り、警官を椅子に縛り付けた。
「お前は何と呼ばれているのか」
 男は、香山の質問に答えなかった。明は香山の合図を受け、彼の革靴に向かって発砲した。
「次は体の部位を削ぐ」
 明があいまいに念押しした。こんな状態の警官を拷問するなら、耳を削ぐことしか思いつかなかった。周旋人が質問を繰り返すと、警察官はお宮(おみや)を名乗った。
「二人組のか」
「香山、もう一人はマナブだったかしら」
「違う、貫一(かんいち)」
「お宮ではなく、ケイコだったか」
「誰からの仕事だ」
 また口をつぐむので、明は仕方なく右耳を削ぐことにした。刃が半分を超えないあたりでとうとう観念したお宮が、Kの男だ、と叫んだ。俄然として香山は、切り取るように指示を加えたので、明は完全に彼の右耳を切り取った。切り取った耳介は、触っていても気持ちのいいものではない。明はすぐに放り捨てた。香山が質問を続けた。
「K、とは一体誰のことだ」
「お前達は、覚えていないだろうがな、とにかくKという股のゆるい女がいて、お前達が彼女を殺した、ラブホテルでの仕事だ、身に覚えがあるのではないか? 彼女は、その股の緩さゆえに数々の人間と肉体関係にあった。男女構わずだ。そのうちの一人がKのiPhoneの位置情報を手に入れ、お前達のうちどちらかを尾行して、わざわざ写真まで丁寧に添付して、依頼をしてきたんだ。俺達は、お前ら二人を殺害するよう、仕事を依頼された」
 明はお宮の話を聞きながら自分のした仕事を回想し、ラブホテルで絞殺した女のことを思い出した。確かに彼女はKという名前だった。そして、自分が彼女の鞄を現場から持ち去り、そのまま帰り、数日たってから慌てて橋から投げ捨てたことも思い出したのだ。そうか、では自分が尾行されていたのか、と気づいた明は悔しさを覚えた。
『悔しさといえば、先刻襲撃してきた男は、おそらく貫一であったのであろう。俺の屈辱の根拠は、彼により死の淵に立たされたことではない。彼を、俺の怒りをもってしても死に至らしむことができなかったことだ。俺が彼の脇腹にナイフを突き刺しても、彼はそのタフな精神力で動じず、俺を殴打し続けた。
 そして、あの首だ。ジムで筋肉を肥大させようと俺は、いい加減な頻度ではあるものの、努力をしていた。自身の遺伝子が優れていたのか、俺はそれでも平均以上の肉体を有している、という誇示があったのだ。平均以上である。俺もそれで自身が地上で最も優れているなどという誤謬を犯すほどの馬鹿ではない。俺は自分より優れた肉体の存在を認めていた。だが、鍛錬された肉体は他人に障害を加えるにも大変な加勢となった。もとより喧嘩じみた機会に窮したことはなく、ことごとく俺は勝を収めていた。そこに鍛錬が加わったのである。おまけに俺にはナイフがあった。鋭利な刃物は、たいして力の及ばぬものでも、対象へダメージを与えることができる、優れた武器であった。優れた反射神経、優れた筋肉、優れた武器。俺に殺せぬ人間など、いるはずがない。少なくともサシの勝負では確実にいない。しかし、この結論がうぬぼれだと醒めさせたのがあのたった一つの首であった』
 明は、日頃より目にするあの首に抱くこの病的な恐怖を、深層より掘り返されたのだ。自身の肉体に対するうぬぼれは、全く無視できるものではなかった。明はどこかで強く信じてしまっていたのだ。その信頼が、自覚を猜疑していることを明は意識できなかった。あの首は、明に大変な傷を与えたのだ。自分の上に立つ肉体を、彼はやはり怖れていた。貫一というその男はその肉体を伴って明の土俵に上がり、明の自尊心を粉砕するに至った。そのうえで、あの敗北は、明の無意識の猜疑を、無意識では済まさぬほどに色濃くしたのだ。仕事への誇示だけではない、自分を支配している、という認識を根幹から揺るがすものだった。支配の認識は、支配自体を殺しかねない劇薬なのだ。

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