猪苗代・沼尻温泉宿泊記
忘れてしまうには惜しい一宿をした。
記憶が鮮明なうちに書き付けておこうと思う。
例によって一人旅に出ている。
週末を避け、単身、レンタカーで好きな所を回る。宿だけは事前に取ってあるが、それ以外の旅程は限りなくノープランだ。
旅そのもの以外に目的の無い旅。何を急ぐ事もない。気の向くままに各地を放浪する。
今回は人生初の福島県に遊んでいた。
最終チェックインの18時にさえ間に合えば良し、という程度の認識で適当に車を走らせ、夕暮れ時に猪苗代湖の北部を通過した。
広く綺麗な湖だった。別名「天鏡湖」とも呼ばれるらしい。空と雲、湖畔の山や木々が全てそのまま、よく澄んだ水面に鏡写しになっていた。
運転しながら、思いがけず狼狽える程に美しい夕景だった。公園の駐車場を見付けて車を停める。
空気の色が違った。視界全体が仄淡い薄紫色をしている。現実の風景というより、東山魁夷の絵画でも見ているかのような朧気な色彩だった。
上空と湖面は浅いターコイズブルー、雲は沈みかけの西日に薄っすらと染まり、対岸では山々が夕靄に煙る。そこここを滑るように水鳥が泳いでいた。
東日本の山間にある土地は日没が早い。16時半頃には早くも太陽が沈んだ。
一分毎に空気の青さが増していく。やがて遠い稜線の上方に真っ新な白色の三日月が浮かび、あっという間に夜が来た。
予約した宿は猪苗代湖から北東へ20kmほどの場所にある。真っ暗な田舎道をヘッドライトで照らしながら走った。そのうちに人家は絶え、信号やガードレールやあらゆる人工物が消え、木ばかりが鬱蒼と茂る山道となった。
本当にこんな道の先に人が寝泊まりできる場所があるのか、鹿か猪でも飛び出してきやしないか、と不安になるような一本道を延々進んだ先に沼尻温泉が現れる。
一泊2食付き、GoToトラベルキャンペーン適用後価格で税込9千円弱。2千円分の地域共通クーポン付き。
これが実に良い宿であった。
車を駐めて中へ入るとロマンスグレーのフロント係が出迎えてくれる。宿帳を記入した後、食事処と風呂場と客室を案内された。
建物自体は決して新しくない。寧ろそこそこ古い部類に入る筈だ。しかし十分に小綺麗で清潔感があり、よく手を入れられているのが分かる。
汚れたり壊れたりと、悪くなってしまった部分はマメに手直しをしているのだろう。片田舎の古い旅館にありがちな劣化やガタつきの類が、無い訳ではないが、意外なほど目に付かない。客室も広くて綺麗だった。
お食事はこちらで、と案内された食事処は、共同の大広間ではなく10前後の個室の集まりだった。客数に応じた広さの部屋が宛てがわれるらしい。
清掃が行き届いた掘り炬燵の和室に、真新しいふかふかの座布団。暖房がよく効いていて足元も暖かい。
指定の時間に下りていくと食事はどれも作りたてで、鍋物には丁度火が入れられたところだった。「冷たいものは冷たいまま、温かいものは温かく」が、ごく当たり前にきちんと徹底された膳が嬉しい。
季節ものの小皿と冷菜が何品か、生春巻き、川魚の刺身と餡掛けの唐揚げ、キノコ鍋、ビーフシチュー、山菜の釜飯、山葡萄のムース。
際立って派手な献立ではないが、思わず感心するほど一品一品に妥協が無い。
そう言えば給仕はチェックイン時のフロントと同一人物で、その夜は他にスタッフが居る気配が全く無かった。全て一人で賄っているのだろうか、とふと思う。
多分だが(そして平日とは言え恐ろしい話だが)、宿泊客も自分を除いて他に一人くらいしか居ない風であった。
夕食後、少し休んでから風呂へ向かう。メインの大浴場と露天風呂付き浴場とで2箇所あり、後者の方へ入った。
これがまた良かった。客が少なすぎて貸切状態である事を差し引いても、だ。
浴場へ向かう通路には年季を感じるが、扉を開けると脱衣所は広く小綺麗である。床の敷物や簀子、棚、衣装カゴ、どれもきちんと手入れがされていて快適だ。
浴室内も同様だった。歴史の古い温泉では往々にして、洗い場の鏡やシャワーの水栓回りが(多かれ少なかれ)傷んだり汚れたりしているものだが、不思議とそれが一切無い。椅子や盥、シャンプー類も全て新しく清潔だった。
公衆浴場の備品なぞ多少老朽化していたところで別段気にはしないが、どうせ使うなら古いよりは新しい方が気分が良いに決まっている。
いや、もっと正確に言うならば、物の新旧それ自体というより「劣化した物をそのままにせず、改善するコストを厭わない」スタンスが好ましい。
気持ちの良い宿だなと素直に思った。
温泉の湯船は、室内に洗い場と併設されて1つ、扉を隔てて屋外に露天が1つの合計2箇所。いずれも掛け流しだ。
湯は一見した感じでは無色透明に思えたが、入ってみて違う事に気付いた。浴槽の底に大量の湯の花が、真っ白い泥状になって沈殿している。手に取ると硫黄の匂いがした。厚さ数センチの塊を足で踏んでみる、ぬろりと柔らかく沈み込む感触がして、沸き返るように湯の花が広がる。混ぜてやると透明だった湯船が甘酒に似た白濁色に変わった。
湯の手触りはサラサラ系だ。決してぬるくなく熱過ぎない温度が丁度良い。
晩秋の山奥、夜間の外気温はかなり低い。ある程度身体が暖まってから戸を開け、外の露天風呂へ移った。
木の温みを感じる板張りの床。大人が脚を伸ばして入れる大きな浴槽が据え付けられている。それを独り占めにして悠々と浸かる。良い湯である。
周囲に何も無い森の中、人の気配もせず至って静閑だ。夜風と木のざわめきと、あとは掛け流しの湯の音だけが耳元で聞こえている。
ああ、これは、と思わず溜め息が出た。
浴槽の縁に両肘を掛け、仰ぎ見ると満天の星空であった。
建物の外壁と男女浴場を仕切る壁、頭上を覆う雨除けの屋根と、外に生い茂る木々に切り取られた中に見える夜空には、無数の星がひしめき合うようにして皓々と瞬いていた。
周囲に光源がない為、本来は比較的暗い筈の星まで冴え冴えと輝いて見える。眩しく光る星が多すぎて、最早どれがどの星座だか分からないくらいだ。苦心しつつ何とかカシオペアと北斗七星らしきものを特定した、と思うのだが、ひょっとしたら違っていたかもしれない。
その夜空と温泉が貸切である。
何たる贅沢か。
湯船で一頻りとろけたところで風呂を上がった。ぱりっと糊の利いた浴衣を着て部屋へ戻り、歯を磨いて眠る。
一度しか入らずに帰るのは勿体無い上等な湯だ。翌朝、起き抜けにまた朝風呂を浴びた。
朝食の膳もおよそ非の打ちどころが無かった。
ほかほかの白飯、焼き魚に納豆、漬物、海苔と温泉玉子、小鉢が幾つか、野菜サラダ、自家製豆富、しじみの味噌汁。焼き鮭の切り身はふっくらと上質で、豆富はキメが細かく、野菜はどれも驚くほど新鮮で瑞々しい。勿論、温かいものは温かいまま、冷たいものはきちんと冷たく。
夜型人間の私が朝っぱらからこんなに食えるだろうかと初めは思ったが、美味しくて存外あっさりと平らげてしまった。
焙じ茶を2杯ほど啜ってから部屋に戻り、浴衣を脱いで私服に着替えた。歯を磨き、荷物をまとめる。
もう少し長居をしたい気もしたが、レンタカーの返却期限が迫っている。夕方までには福島県を出る必要があった。
フロントへ下りると、前夜には居なかった係員が立っていた。部屋の鍵を渡す。精算を済ませて玄関を出た。
表へ出ると朝陽が眩しい。やや雲がちだが晴天だ。外の空気は思ったほど冷たくはなかった。
相棒の軽四に荷物と、脱いだジャケットを放り込んだ。車のキーを捻る。来た道を戻る格好で宿を後にした。
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