特に子供好きでもないド素人の初保育(助手)記録


この冬、保育施設を運営する知人から「手伝いに来てくれないか」と打診されたのを切っ掛けに、人生で初めて”子供の世話”というものを経験した。

そもそも私は子供があまり好きではない。保育士資格など当然持っていないし、未就学児の相手をする経験も殆ど皆無と言っていいズブの素人である。
保育助手などおよそ務まるとは思えなかったのだが、結論から言うと、1ヵ月限定の筈が結局ズルズルと4ヵ月近く通ったし、その間にちょっと狼狽えるほど子供達にも懐き倒された。

初対面ではギャン泣きだった乳児から自発的に“抱っこ”を要求されるようになったし、自閉症で人見知りが強く身体接触が苦手な幼児を寝かしつける事も出来るようにもなった。3月末の最終日など、わらわらと集まってきた子供らに揉みくちゃにされ、それはそれはもうベッタベタに甘え倒され、抱き上げてやった時の満足気な笑顔に、柄にも無くちょっと泣きそうになる自分に驚きさえした。

人生、本当に何があるか分からないものである。


事の発端

始まりは「12月の一ヵ月間限定で『レンタル何もしない人』をやってくれないか」という妙な依頼だった。

順を追って書こう。
昨春以降、我が本業の勤務先はコロナ禍の影響で絶不況に陥っており、家族経営の社内で唯一の雇われ正社員に当たる私は、上司命令で夏頃から休業に入っていた。所謂”雇用調整”というやつである。数ヶ月単位の長期休みで仕事はしないが、収入は助成金により賄われる。

要するに、私は暇していた。

夏から秋にかけては、副業の合間に大都市を避けつつ国内各地をレンタカーで一人旅など随分遊び回ったのだが、寒くなって感染拡大の傾向が顕著になり始めると流石に少々やりづらくなった。
旅先で何かと散財したし、暫くは普段の生活圏内でのんびり過ごそうかな…と考え始めた矢先の事だった。

世の中、常に何処かで誰かしらが人手不足に悩んでいる。

「どうやら礁が暇してるらしいぞ」と聞きつけた友人知人が「ちょっと顔貸してくれや(意訳)」と言ってくるケースが増え始め、そのうちの一つが今回の案件だった。
詳しく話を聞いてみると、おおよそ以下のような事情である。

思いがけず突然、新しい子どもの入所予定が増えた。
現行メンバーだけで現場は一応回るけれども、「保育士の配置基準」という問題がある。子ども何人に対して保育スタッフが何名必要か、という人数の基準が法令で定められているのだ。その基準値を割ってしまわぬよう、保育スタッフを一名増やす必要があるのだが、師走という多忙な時節柄もあって中々人が確保できない。仮にできたとしても、保育の有資格者を雇うにはそれなりの人件費がかかる。
今の人数でも仕事自体は回るし、補助員は無資格でも問題無い。できれば正式にプロを雇う(=時給が発生する)より、素人にボランティア(=少々の「謝礼」で済む)という形で来てもらう方が理想的だ。
有り体に言ってしまえば人数合わせ要員なので、無理に手伝ってくれる必要は無い。極端な話、保育中の現場に”居て”くれさえすればそれで良い。食事と心ばかりの謝礼くらいしか出せないが、その代わり、暇な時間はスタッフルームを好きに使って、内職でも読書でもして自由に過ごしてくれ。

レンタル何もしない礁。悪くない話だ。即決で快諾した。

私は基本、無償のボランティアなど死んでもやらない主義だが、働く必要が無いとなれば流石に話は別である。
もとより、この師走は篭ってのんびり過ごそうと思っていたのだ。自宅でゴロゴロしようが保育施設でゴロゴロしようが同じ事、何の問題もありはしない。それどころか、施設に居る間は自室の暖房代と食費が浮くと思えば得ですらある。立地的にも余裕で自転車圏内だ。

それに、知人の施設が資金繰りに苦労している事は以前から知っていた。知り合いが困っていたら極力助けになりたく思うのが人の性というものである。”暇な大人”が一匹、ただそこに居るだけで役に立つというのであれば、これほどお手軽な話もあるまい。

そんなこんなで、断る理由が特に無く、ド素人のぶっつけ本番保育助手生活が幕を開けた。



子守り初戦と後日の舌戦

助っ人初日、自分としては特にどうという事もなく、ただ頼まれた通り普通に行って帰ったつもりだったのだが、後から「予想外にやばい奴が来たぞ」と噂になっていたらしい事を知らされて随分と心外だった。

やや言い訳がましくなってしまうかもしれないが自己弁護を試みたい。

赤子は泣く生き物である。
そして素人に出来る事など、殆ど何も無い。



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いくら「ただ居てくれるだけでいい」とは言われても、本当に何もせず“ただ居るだけ”というのも退屈だし却って辛いものだ。
私は乳幼児との接し方など全く分からないし、気の利いた子守唄の一つも歌えやしないが、唯一、膂力だけなら多少はある。「赤子を抱えたり運んだりする程度の事は出来る(と思う)ので、必要があれば遠慮なく言い付けて下さい」と申し出た。

ベビーカーを押し、日課の外遊びに初めて同行した時の事である。

下は1歳から上は5歳まで、年齢も性別もバラバラの子供たちが各々自由に遊び回る中、まだ歩く事のできない0歳児がレジャーシートの上に座らされていた。
担当の保育士さんが「礁さんその子見てて~」と言い残し、他の子供らの所へ移動する。慣れたシッター役の背中が去っていくのを理解した赤子は、途端に大声でわあわあと泣き始めた。
ひとまず傍に屈み込んでみる。見慣れない謎の大人に接近され怯えているのか、より一層泣き声が大きくなった。朝っぱらから実に元気で結構な事だ。座った状態でこちらの膝下、人間というよりむしろ犬猫に近い身体のサイズ感で、よくまあこんな声量が出せるものだな…と感心していたら「抱いてあげて~」と声を掛けられた。なるほど。
「了解です」と返し、泣き喚く赤子の腋の下に両手を差し入れて身体を持ち上げる。片膝をついた姿勢から立ち上がり、抱えた子を高く掲げたり胸元に下ろしたり、横向きにしたり縦向きに直したりと色々やってみたが、泣き止む気配は無い。

何が気に食わないのだろう。矢張り俺だろうか。

つい30分ほど前に朝のおやつを食べていたから流石に空腹ではないだろうし、施設の建物を出る直前にオムツを替えられている所を見た記憶もある。冬なので外気温はそれなりに低いが、厚手のコートやら靴下やらでモコモコに着膨れている以上、号泣するほど寒いという事もあるまい。特別顔色が悪いとか、発熱しているとかいう風でも(少なくとも素人目には)なさそうだ。
とすると、あとは何だ。眠たいか、見知らぬ大人(=私)が嫌か、くらいしか無いのではないか。知らんけど。そして順当に考えれば普通に後者な気がする。
「まあ泣くわなァ」と赤子の眼を覗き込むと、ほんの一瞬真顔に戻ってまたワアワアやりだした。無理もあるまい。何せ初対面だし、ついでにこちとら生粋のド素人である。一切の知識も伎倆も持ち合わせてはいない。

お気に召さないのが自分の存在だとすると、最早こちらに打つ手は無い。「泣き止ませる」などという高等技能は一旦諦めて、最低限の安全確保だけに注力する事とした。

どうせもう、宥めてもすかしても泣くものは泣くのだ。呼吸不全など起こさない範囲で好きなだけ泣かせておけば良かろう。知らんけど。

赤子を抱いたまま手近なベンチに腰掛けた。そう言えば「眠たい」という可能性もあるんだよなと、膝の上に寝かせてみる。相変わらずギャン泣きだが、暴れる身体を制しやすくはなった。差し当たり怪我さえさせなければ構うまい。

それにしても子供のあやし方というものが全く分からない。
また追い追い教わるとして、まずは適当に一定のリズムで両脚を揺らしてみる。泣き方が若干マシになったようだ。

暇なので上着のポケットから文庫本を取り出して読んでいると、そのうち保育士さんが「お待たせ~」と来てくれた。
瞬殺で泣き止む赤子を見て「成程、矢張り私がNG要素だったか」と一人納得する。

「保育士さん、お子の持ち方を教えて下さい」と申し出たところ「あんまり『持ち方』って言い方はしないかなあ…別に良いけど…」と言われた。失敬。

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数ヵ月後、そんな初日の挙動がちょっとした伝説(?)として皆の語り草になっていると知らされた際の惨状たるや中々のものだった。

以下は共通の知人らの面前で、突然「今だから言うけどさぁ」と思い出し笑いを始めた保育士さんと、不意打ちの公開処刑を受けて斜め上へ開き直った私の応酬である。

「もうね聞いてよ~この礁さんの落ち着きようが初日から規格外でさあ!! 目の前で0歳のベイビーがこの世の終わりみたいに号泣してるのに、めっちゃ真顔で全然動じないの!! この距離でギャン泣きされたら、普通『よしよし』くらい言うでしょ? 普通にスルーして本とか読み始めたからね!?!!
いや勿論ね、初心者がいきなり上手にあやせる筈ないのは分かってたし、タダ同然で来てもらってる訳だし別に全然怒ったりもしてないんだけど、流石に有り得ないパターン過ぎて! 何あの謎の平常心、って皆もう色々びっくり通り越して笑っちゃうくらいで」

「いやいやいや仕方無いでしょ、だって生後1年そこらの赤ん坊ですよ!? 実の親でさえ確実に泣き止ませられるとも限らないのに、私みたいな保育経験皆無の初心者にそんな芸当できる訳無いでしょう!! 相手まだ日本語も通じねえし! 逆に『ただ抱える』以外の何が出来るって言うんですか!? こちとら全くの未経験者やぞ!?」

「未経験でも泣いてる事くらいは分かるでしょ!? 普通の人はね、目の前で赤ちゃんが泣いてたら、もっと焦ったり慌てたりするものなんだよ!!」

「何故です、赤子は泣く生き物でしょう!?『泣いてる』って事は100%生きてるじゃないですか!! 大丈夫じゃん!(?)
それに皆さんみたいなプロなら兎も角、私のようなただでさえ何も出来ないズブの素人がですよ、赤子が泣いてるからって慌ててみたところで、状況が悪化する可能性こそあれ改善する訳が無いでしょう!!」

「言ってる事はあながち間違ってないけど! 根本的にズレてるんだよ!!!」

「心外です!!!!!」



保育(助手)生活・越冬記録

未知の物事を新しく習得し、出来なかった事が出来るようになるのは、純粋に楽しく良い刺激になる。

初めのうちこそ“抱っこ”の一つもままならず、「オムツ濡れてるかどうか見てくれる?」と頼まれては「そそそんな難しい事を…!?」と狼狽えるような情けない有様だったが、プロの保育士さん達に一つ一つ教わりながら少しずつ習得していった。
私は元々、いきなり実地に出て“身体で覚える”のが比較的得意な方でもある。助っ人2日目には「赤ん坊の抱き方がこなれてきたね」と褒められ、半月も経つ頃には、着替えとオムツ交換、食事の補助、寝かしつけ程度の事はそこそこ手伝えるようになっていた。

私を呼びつけた張本人である知人には「気持ち程度の謝礼しか出せないのに、あまり働かせては悪い」としきりに恐縮されたが、”レンタルさん”としての稼働時間のうち、まともに助手らしい事をしているのは精々1~2割だ。「私ァ気が向いた時に気が向いた事しかやりませんから大丈夫ですよ」と言っておいた。
実際、動きたい気分の時はせっせと手伝うが(子供を抱えるのは良い筋トレになる)、やる気がしない時や手が足りている時は、スタッフルームで勝手に珈琲を淹れて読書や内職に勤しむ。他の副業の夜勤明けで眠たい日など、自前の毛布に包まって子供らと一緒に爆睡する事さえ普通にあった。

こんないい加減な保育(補助)スタッフが存在して良いのだろうかというくらいの気紛れっぷりである。

ついでに、元来さして子供好きでもない私は「愛想よく接する」とか「対子供用の言葉遣いで話す」という初歩的な事さえロクにやっていなかった訳だが、師走も半ばに差し掛かる頃、それにしては子供らの反応が想定と違う気がする…と思い始めた。いや、何せ人生で初めての事だし、普通の相場がどんなものかもよく分かっていないのだが。
曖昧な違和感を明確に言語化してくれたのは、そこの施設長に当たる保育士さんの台詞だった。

「礁さんってさ、意外と子どもに好かれるよね」

「…それに関しては私が一番面食らってますよ…」

「ねえ、この調子で来月以降も手伝いに来てくれたら良いんじゃない?」

「絶対言われると思ったんだよなァ」

言葉を交わす我々を眺めていた幼児が、会話の端々を聞きとがめて「礁しゃん? 来るの?」と足元に纏わり付いてくる。
すかさず施設長が「うん、礁さん来月もその先もず~っと来てくれるって~! やったねえ!」と、私の返答も待たず勝手に外堀を埋めにかかるのには弱った。ちょっと待って下さい、私まだ何も言ってない…と抗議する声を掻き消すように、いつの間にか集まってきた子供達が「来てくれるの!?」「やったあ〜!」と騒ぎ回るので更に弱った。
大人相手に仕事上の駆け引きでなら息をするようにハッタリをかます私も、流石に、縋るような目でこちらを見上げ「礁しゃん来るの?」と舌っ足らずに問うてくる3歳児に平気で噓を吐けるほど俗悪にはなれない。

「……前向きに検討させていただきます……」

苦虫を嚙み潰した顔で呻く私に、施設長は「そんな曖昧な言い方、子どもには通用しないからね~」と笑顔で正論を突き刺してくる。

「良いじゃん、折角こんなに子ども達も懐いてるんだしさ」
「そのようですね…不可解な事に…」
「あはは、何それ」

自分という人間を四半世紀少々もやってきて、流石にもう自分がどういう人間かくらいは全部把握していると思っていた。体質、価値観と性格、思考や行動の癖、能力その他諸々、すっかり自分で分かりきっている気でいたのだ。
それがここにきて突然、どうやら存外子供に懐かれやすい質であるらしいと知った私は少なからず戸惑った。四捨五入すれば30歳にもなる良い大人が今更こんな新事実に面食らうとは情けない話だが、しかし本当に想定外だったのだ。
下は0歳から上は5歳そこらの乳幼児を前に、当然普通に「保護対象」とは認識しているがそれだけだ。特別好きという程でもなければ保育の素養も全く持ち合わせていないのに、好かれる理由が分からない。

分からなくても子供達がひっ付いてくる事に変わりは無く、我が上司からの休業命令が解かれる気配もまた無かった。


頼まれたら断れない性格、という訳では決してない。実際、知り合いから依頼された仕事を「気が向きません」「怠いです」「早起き無理です」というクソみたいな理由で断る事も日常茶飯事だ。
しかしながら、昼寝や読書の片手間にガキのお守りをするだけでタダ飯が食え、礼金も貰え、他の予定がある日はそちらを優先してOK、という好条件揃いでは、中々どうして抗い難いものがある。
結局、保育士サイドと子供達サイドの両方から押し切られる形で、年度内いっぱいの稼働に承諾する運びとなった。


日常的に子守りをする、という、私の人生ではトップクラスに非日常な一冬を過ごした。

週に平均3~4日、午後の半日。
おおよそ以下のような調子で”助っ人”をやる。

子供達に昼飯を食わせる。歯磨きの介助をし、喧嘩を仲裁し、午睡用の布団を敷く。悪戯しようとするチビを手洗い場から引き剝がし、赤子のオムツを替え、鼻水を拭いてやり、調理場へ侵入を試みるチビを扉から引き剝がす。
寝かしつけは、子供のコンディションや運に依る所も多分にあるが、調子の良い時は施設長から「もう!?」と驚かれる程度には上手くなった。勿論プロの手腕には到底及ばないが、30分間で4人というのが自己最高記録である。
昼寝の後は赤子らのオムツを替え、手を洗わせ、悪戯坊主どもを牽制しながら三時のおやつを食べさせる。年齢別の組分けという概念は存在しない施設ながら、私は何となく主に0歳児・1歳児の担当という事になっており、おやつタイムには大概一人で同時に4~5人の面倒を見ていたのだがおよそ平和に終わる日など無かった。まず人数分のおやつと一緒に布巾と雑巾と無我の境地を用意し、後はまあ推して知るべしといった感じである。
その他、絵本を読んだり、せがまれるままに『鬼滅の刃』の登場人物の絵を描いてやったり(不慣れな割には好評で良かった)、学童保育と言うのだろうか、就学児童の勉強を見たりと、日によって結構色々な事をやった。



啓蟄を待つ

小さい子供達と一緒に居ると、目新しい出来事や初めての知見が多く、とても退屈する暇が無い。
「子供の成長はめざましい」と、知識としてただ知っているのと実際目の当たりにするのとでは、想像していたよりも遥かに大きな差があった。

初見時には”ハイハイ”さえ怪しかった赤子が掴まり立ちをし始め、先月まで私の姿を見ると泣いてばかりいた内気で怖がりの1歳児が、私の笑い声につられて笑顔を見せるようになる。
自閉症で人見知りが激しく身体的接触の苦手な幼児らが、大人しく私に抱えられて運ばれるようになり、或いは昼寝の時に自ら「礁しゃん背中ポンポンしてくやさい」と舌っ足らずに言いに来て、応じてやると私の空いている方の手を握りながら入眠する。


例を挙げ始めるとキリが無いが、最も鮮明に焼き付いているのは、初日に私に抱かれてギャン泣きしていた例の赤子だ。
「その子ウチで一番小さくて手がかかるのよ。まだ立てないし、抱くにも結構重いし。だから礁さん担当ね~ヨロシク!」と言われて一番よく世話を焼いていた事もあり、誰より目まぐるしい変化に最も間近で接した相手だった。

私に人見知りをして泣いていたのが、一週間も経たず平気になり、間も無く私の姿を見ると自ら両手を伸ばして”抱っこ”を要求するようになった。
ひどく泣き虫で、些細な事でも四六時中わあわあ喚いていたのが段々と落ち着き、常に誰かが構っていなくとも上機嫌でいる事が増えた。
夕方に迎えが来た時、たまたま丁度その子を抱いていた私が運んで行って手渡そうとするも「なんで?」と言いたげな顔で私の腕から離れようとせず、思わず破顔した母君が「まだ一緒に居たいかぁ、ここの人達みんな優しいこと分かってるもんね~!」と愉快そうに言った事もあった。
おやつのボーロやソフト煎餅を自分の手で掴んで食べる技術をようやっと習得したかと思えば、翌週には手に持った煎餅を私の口元へ「ん!」と突き出し、食べさせようとする仕草さえ見せるようになった。驚きのあまり半分フリーズしかけながら、辛うじて「おう、有難うよ」と返事をし頭を撫でてやると、にへへ!と嬉しそうにしたり顔で笑うのだった。


その子に初めて、”抱っこ”した状態のまま腕の中で眠られた時の事をよく覚えている。

初対面ギャン泣き事件(?)から一ヶ月と少々、ようやく互いに少しずつ慣れてきた頃。
晴れてはいるものの寒い日だった。

保護者の迎えを待つ自由時間、床に座って一人遊びをしていたが、唐突に飽きたらしい。周囲をきょろきょろ見回し、私の存在を視認するなり「う、う」と両手を伸ばして”抱っこ”を要求する。「はいよォ」と返事をして抱き上げると、赤子の方も慣れた様子で腕の中に収まった。
普段なら暫くそうしているうちに赤子の気が済む事も多いのだが、その日は何故か妙に甘えん坊だった。もう良い頃合かなと床へ下ろそうとすると、私が屈む気配を察するなり不満気にぐずり出す。
「え〜ごめんて…」

泣かれるか、泣かずに静かにしておいてもらうか。
選べるのであれば無論、後者の方が良い。

はいはいよしよし、と宥めすかしながら抱え直す。
ただ抱いたまま直立不動でいるより、歩き回るなり揺らすなりした方が良いという事くらいは私も学んでいた。適当に緩急を付けてゆらゆらと身体を揺すり、背中を軽く叩いてやる。

赤子は今にも泣き出しそうにグズグズ言っていて、子守唄の一つも歌ってやれれば良いのだろうが、困った事に歌のメロディーも詞も全く分からない。
仕方が無いので、自分が普段よく聴く曲の中で最も“子守唄っぽい”ものを脳内で検索する。そう言えば、何とかいう有名な子守唄の詞には「カナリヤ」というフレーズが入っていた気がするなあ、という拙い連想ゲームから安直に、米津玄師『カナリヤ』に辿り着いた。いつだったか、音楽配信サービスの無料トライアル期間中に人気曲のランダム再生でよく流れていた、スローテンポで落ち着いた雰囲気の曲だ。

ありふれた毎日が 懐かしくなるほど くすぶり沈む夜に揺れる 花を見つめていた 人いきれの中を あなたと歩いたこと 振り向きざまに 笑う顔を 何故か 思い出した
カナリヤが鳴きだす 四月の末の 誰もが忘れていく 白いプロムナード あなたの指先が震えていることを 覚えていたいと思う

身体を揺らしてやりながら、歌うと言うより、詞を一節ずつポツポツ読むように口遊む。

いやこれ全然子守唄ちゃうわ~~~すまねえ!! と内心で懺悔しつつ背中をポンポンやっていると、近くに居た保育士さんがこちらを見て「あらら」と笑った。

「凄いな、爆睡じゃん」
「へぁ」

思わず間の抜けた声が出る。恐る恐る胸元に視線を落とすと、本当に赤子が眠り込んでいるものだから驚いた。
簡単な子守唄一つさえ満足に歌えない私の腕に抱かれ、いつの間に寝落ちたのかスウスウと規則的な寝息を立てている。

待ってくれ。

喉の奥から変な息が漏れた。動揺で心臓が跳ねる。


まだ自力で立つ事すら出来ない幼子が、こんな自分なぞを相手に何の疑念も無く全身を委ね、あまつさえそのまま安心しきって眠っているという事実にとんでもなく狼狽した。

ふと、その子の母親の顔が脳裏を過ぎる。
迎えに来た夕刻の玄関口で、「良かったねえ、今日もいっぱい可愛がってもらったんだねえ」と、心底嬉しそうに笑う顔だ。


そう言えばいつだったか、その子の連絡帳を捲る担当の保育士さんに、書かれている内容を教えてもらった事もあった。

『お家では、いつもママに抱っこされて寝てるらしいからね~』
『末っ子だしねえ、お兄ちゃんお姉ちゃんにも可愛がられてるみたいよ』
『ウチ辞めるの寂しいって言ってくれててさぁ、有難いよね~。でも新年度からご兄弟と一緒の園が決まってるから、そりゃあその方が良いよ~』


優しく温かい親兄弟に囲まれ何不自由無く、愛情と慈しみを一身に受けて育つ無垢な赤子を、私は腕に抱いていた。


まさか自分が、こんな体験をする日が来るとは思わなかった。

こんな綺麗な、一点の曇りも無い幸福の象徴のような赤子の存在など、自分とは別世界の事象だと思っていたのだ。

私は家族やら家庭というものを忌避するように生きてきた人間だ。
つまらない話なので適当に読み飛ばしていただいて結構なのだが、例えば私の保護者は二人で2枚の精神障害者手帳(と、ついでに1枚の身体障害者手帳)を所持しており――と言っても勿論、障害の有無それ自体で一概に何が良いとか駄目とか決まる訳は断じて無く、単にたまたま私の保護者達が揃ってあんまり大丈夫じゃないタイプの人達だったというだけの話なのだが――それなりに心療内科はじめ各種医療機関やら自助グループやらへ通ったり、ちょくちょく警察や何かの世話にもなったりしながら暮らしていた。何せ二人して、躁鬱、DV加害、統合失調症、発達障害、アルコール依存症、あたりの豪華ラインナップを網羅していたのでまあ無理からぬ話である。尤も、時代の所為か知識不足ゆえか、上のような診断名が付いたのはかなり遅い段階になってからで、分かった時にはウーン何かもう今更…という感じだったが。
おまけに誰の伝手でどう知り合ったのか、突然仲良く揃って何ぞの新宗教にハマり、それまで長年熱心に拝んでいた(ように、少なくとも私には見えた)仏壇を取り壊すに至っては呆れを通り越して謎の感心さえ覚えたものだ。その宗教には当然の如く私も勧誘されたが、両名と最も親しいらしい信者と初対面時、たった一言「ああどうも。お気持ちだけ」と笑顔を返して以降ふっつりと声を掛けられなくなった。二人に聞いて私の電話番号くらいはご存知だろうに、一度たりとも迷惑な着信が入った事は無い。よってこの宗教に対し、私個人としては「おおむね無害」の判定を下しているのだが、周囲や世間の目がどうかというのは当然また別の話だ。
お陰で親類縁者とも年々疎遠になり、今や誰とも連絡が取れないどころか互いに生死さえ不明といった有様である。せめて兄弟の一人でも居れば…と思った事もあるし、実際、本当なら私の4つほど下に弟ないし妹が居た筈でもあったのだが、生きて産まれて来られなかったものは仕方が無い。
因みに、存外と頑丈に生まれついた私は毎年欠かさず皆勤賞を貰うほど元気だったが、高校生の頃、保護者達を担当していた精神科医から突然呼び出しを食らった事があった。診察室へ入ると「少し貴方の話を聞かせて下さい」と言われ、30分ほど会話をした後に「あのお二人のもとで、貴方よく今まで自殺未遂の一つもせずマトモな精神状態で生きてきましたね」と引き気味の褒め言葉(?)を頂戴した。どう答えるのが正解か分からず「はあ…まあ、死ぬよりは生きてたいですし…なんか結構丈夫にできてるっぽいので…」と頗る間抜けな返事をした記憶がある。 書いていて自分で恥ずかしくなってきた。何だこの台詞。ちょっと馬鹿っぽすぎないか。

ともあれ、何か大体そんな感じのアレで子供時代を過ごした事もあり、私はどうも”家族”とか”家庭”とかいうものに対してそこそこ強い苦手意識がある。他人様のご家族やご家庭については特段何とも思わないし、寧ろ他人事なりに喜ばしくも感じるのだが、こと自分が当事者になる場合を想定するのはどうにも駄目なのだ。肋骨の内側がぞわぞわしていけない。
物心ついた頃から今まで、「自分がいつか結婚する」などとは一度たりとも考えた事が無いあたり、我ながら清々しいまでの社会不適合者っぷりである。根本的に向いていないのだろう。人間誰しも向き不向きというものがある。
将来のビジョンとでも言うのか、所謂『人生のゴール』みたいなものが仮に存在するとして、私にとってのそれは昔から「家族や家庭から切り離された単身者になること」だった(なのでこれが叶った今やもう既に余生くらいの気分でいる)。

そんな訳なので、幸せな家庭だとか仲睦まじい家族だとか子供だとか、そういう類のものは全て、どこか自分が生きている場所とは別の世界の出来事のように思っていた。
遠巻きに眺めるだけの対象。存在している事は知っているが、自分自身が当事者として関わり合いになる事はない。この手で直接触れる資格など無いものと勝手に思い込んでいた。


それが今、すぐ目の前に、単に触れるどころか呼吸や心音さえ直に届く距離にあった。
それも真っさらなその子自身の意思で、血縁者でも何でもない自分の腕の中に抱かれている。

唐突に頬を張られたような衝撃だった。
私の人生に、こんな事が起こり得るのか。

もうすっかり抱き慣れた筈の重みが、小さな身体の温みが、何か特別な意味を持って懐へ沈み込んでくるようで、こそばゆくもあり意味不明に恐ろしくもあった。何だかよく分からないが、そんな資格など無いのに”許された”ような気がしたのだ。

1歳になるかならないかの赤ん坊から理屈抜きの幼気な信頼を向けられて、嬉しさよりも怯懦が先に立ち、子を抱えながら戸惑いを隠し切れない自分が、酷く稚拙で矮小な人間に思えた。



春の或る日の最終日

1月は行き、2月は逃げる。
子守りに遊びに副業にと目まぐるしい日々を送っているうち、あっという間に3月が来た。

施設には更に子どもが増え、育休中だった保育士さんが復帰し、ボランティアスタッフも新たに数名加わった。
「今月は何とかなりそうだから、礁さんは週一回くらいで良いよ!」と言ってもらって、他の仕事の依頼をガシガシ受けた。のほほんと緩く過ごせるのは施設での子守り業だが、金を稼げるのは他の副業の方である。

それまで週の半分ほど居た私が突如レアキャラと化した事で、子供達からは毎度それなりの追及を受ける羽目になった。

「「礁さんもう帰るの〜!? 明日も来る!?」」
「帰る! 明日は仕事だから来ない! また来週な! 風邪引くなよ!」


3月は去る。
あっという間に最終日となった。


昼過ぎ、普段通り「お早うございま〜す」と入っていくと奥の方から歓声が聞こえ、何事かと思う間も無く物凄い勢いで子供達に包囲された。
保育士の誰かが「礁さんに会えるのは今日が最後だよ」と言ったらしい。
いつにも増して「遊ぼう!」「抱っこ!」「おんぶ!」の圧が強く、少々面映ゆいながら悪い気はしなかった。(まあ最後だしなァ)のサービス精神で大人しく揉みくちゃにされる。子供というのは兎角に”抱っこ”が好きらしく、飛びついてくる連中を片っ端から抱えたり持ち上げたり振り回したりしてやると楽しそうにきゃあきゃあ笑っていた。

「礁さんは来月からもう来ないの?」と、育休明けで子連れ勤務中の保育士さんに訊かれた。
「さあ、どうでしょう…。『また頼むかも』とは言われてますが、具体的には全く白紙ですね」
「そっかあ、寂しくなるねえ。頼まれなくても遊びにおいでよ~」
「有難うございます。あ、そっち何か手伝いましょうか?」
「んー、あとはこの子(実子)寝かすくらいかな~。礁さんってお乳出たりする?」
「ちょっと生理学的に厳しいですかね…」

そうそう、いつも礁さんがお世話してたあの子、もう何にも掴まらずに自力で立てるようになったんだよ~。と、授乳を終え戻って来た保育士さんがさらりと言った。
「嘘、まじすか」
「ふふ、まじまじ。まだ見てないでしょ、礁さんここ一週間くらい居なかったもんね~」
「はい、ええ、? あいつが自力で、うわあ……そうかあ…」
「たった一週間で、って思った? 子どもの成長ってホント早いよね~」
こちらの胸の内を見透かしたように、あっはっはと笑われて思わず赤面する。
そりゃそうだ。四半世紀以上も生きてきた自分の一週間と、生まれてまだ1年そこらしか経たない赤子にとっての一週間とは、物理的には同量であっても天と地ほど重みが違う。当たり前の事実が目新しくて面白かった。

その赤子は、冬の間に1歳の誕生日を迎えたらしい。
そう考えればもう歩き始めてもおかしくない頃合だ。赤ん坊がいつまでも赤ん坊でいるように思うのは、愚昧な大人の犯しがちな認識違いである。

そりゃ自力で立つようにもなるかあ、成程ねえ…などと思いつつ、玩具を手にぽてぽて歩き回る他の一歳児ズを眺めていた時、不意に横から「うー!」と聞き慣れた声がした。「はいよォ」と生返事をし、振り向いて息を吞む。

保育士さんから聞かされた通りの光景がそこにあった。
周りに壁も何も無い場所で、赤子が一人で、自力で立っている。

あのチビが。初めに会った頃は“ハイハイ”さえも怪しく、最近ようやく掴まり立ちをするようになったと思っていたこいつが。

胡坐をかいたまま硬直している私に「んうう、お!」と喃語で何事かを訴えながら、手に持ったフェルト製の玩具を突き出してくる。

咄嗟に反応を返せなかった。事前に聞き知っていた事なのに情報の処理が追い付かず、意に反して声が詰まる。情けない話だ。

「…おお凄いなァ、自力で立てるようになったかあ!!」
パチパチと手を打って褒めそやすと、弾けるような満面の笑みを見せた。

一瞬、時間の流れが止まったように感じた。
その子の笑った顔など飽きるほど見てきた筈なのに、眩暈がするほど美しいと思った。

「もっと誉めてくれても良いんだぜ」と言わんばかりの誇らしげな様子に、恐る恐る頭へ手を伸ばす。頭を撫でる事自体はいつもやっているが、こうして立った状態では初めての動作だ。
柔らかい髪に手の平で触れる。玩具を握ったまま、両腕を目一杯ぐんと振り上げた赤子は、今までに見た事も無いような得意顔で「きひひ!」と嬉しそうに笑った。

ああ、世の中には、こんなにも健やかな幸福が在るのか。

喉の奥が熱くなる。周りに誰も居なかったら泣いてた、と思った。そう思った自分に自分が一番驚いた。


キャッキャッと無邪気に笑うたった1歳の子供に、その小さい体に満ち満ちたあまりにも普通の温かい幸福に、理屈も理由も無く救われる心地がした。


どういう訳か、その日の赤子はいつにも増してべったりと甘え倒してきた。

少しでも離れようとすると異様に大泣きするので、一度など本気で「こいつどこか具合悪いか、発熱でもしてるんじゃないでしょうか…」と保育士さんに助けを求めに行った程だ。
百戦錬磨のプロは怪訝そうな表情で赤子の全身を点検し、熱を測り、体温計の表示を確認して一つ頷くと「こりゃただ甘えてるだけだね!」と断定した。
「そんな事あるゥ…?」
「あるある。 ま、君が礁さんに会えるのは今日が最後だからね。今のうち甘やかしてもらっときなね~」

その言葉を理解できている筈も無かろうに、赤子はいつになく執拗に”抱っこ”を要求してきた。普段と違う謎の粘りを見せ、離れた位置にいる私の所へわざわざ這ってきてまで必死に強請ってくる。単純に不思議で、同時に少々こそばゆくもあった。
お望み通りに抱き上げて満足気な顔を覗き込み、お前さん初めて会った時はあんだけ散々泣いてた癖になァ? と言うと、何も分かっていない顔でにっぱり晴れやかに笑った。何だこいつ。

早くも桜が咲き始めた三月下旬、よく晴れて暖かい春の昼下がりだった。

散々遊んで動き回り、三時のおやつを完食し、ぽかぽか陽気の下で私に抱かれ眠くなったのだろう。「ううー」と小さく唸り、しきりに目をこすっては不愉快そうにむずがる。一応オムツを確認したが問題無さそうだ。
「寝ちまえば?」と言って屈もうとした途端この世の終わりみたいに大泣きするので、いい加減に私も諦めた。分かった分かった、今日はもうお前さんの気が済むまで抱いててやろう。

立って赤子を抱えたまま身体を揺らし、片手でポンポンと背中を叩いてやる。初めのうちこそ必死で睡魔に抗っている様子だったが、間もなく限界を迎えたようで眠りに落ちた。

「お休み~」

完全に寝落ちた赤子は小さく鼾をかきながら、決して離されまいと全身でしがみつくようにして、私の着ている服の襟元を握り締めていた。


不意に背後で「爆睡じゃん」と誰かの笑う声がして、振り返ると通りすがりの施設長がいた。
私の肩口にある赤子の寝顔を覗き込みながら、「○○ちゃん良いねえ、礁さんに抱っこしてもらって。あったかくて幸せだねえ」と目を細める。

「有難うね。その子まあまあ重たいのに、ずっと抱いてもらっちゃって」
「いえいえ、全然」
「ま、礁さんは鍛えてるし大丈夫かぁ」

事務所で今月分のお礼準備しておくからね~、と去っていく施設長に会釈を返した。
赤子は相変わらず深く寝入っており少々の事では起きそうにないのだが、いつの間に癖になってしまったのか、両脚でゆらゆらとリズムを取りいつまでも揺れっぱなしでいる自分に気付いて失笑する。

「『良いねえ』だってさァ」

その台詞はどうやら施設長の口癖で、特に深い意味があるかは兎も角、そして実際良いか悪いかも分からないが、互いに妙な縁だったなあとは思う。
一生のうちのたった4ヵ月。その中でもかなり不定期で断続的な日程だったし、私は半日しか居ない事が多かったので、実質的には精々30日弱といったところだろうか。仮に平均寿命まで生きるとして、そのうちの0.1%にも満たないような僅かな時間だ。

1歳を迎えたばかりのこの赤子には当然、記憶の片鱗さえ残りもしない。存在したという事実すら忘れ過去の彼方に喪失される一瞬間に過ぎないだろうが、私は一生、折に触れこの子の事を思い出しながら生きていくのだろうなという確信があった。

片手の掌に収まってしまう、心許ないほど小さな背中をぽむぽむと撫でる。
顔立ちや声や、もしかしたら名前すらいつかは忘れてしまうかもしれないが、それでも多分、この体温はずっと覚えている。こちらを覗き込む真っ直ぐな眼差しだとか、ふくふくとした身体の重み、それを抱きかかえる私の小指を、確かめるように握る小さな手の感触。腕の中で眠る無防備な信頼と、初めて目の前で立ってみせた時の、全身に溢れ返るような歓喜と。


赤子の世話に慣れてきた頃、抱き方やオムツの替え方を教えてくれた保育士さんから突然「赤ちゃん可愛く思えてきたでしょ?」と言われ、つい何とも煮え切らない返事をしてしまった事があった。

可愛くない、などという含意ではない。
「可愛い」云々のずっと以前に、ただただ喜ばしくて嬉しかったのだ。


一点の曇りもない純真な幸福の象徴が、思わずたじろいでしまうほど美しく、眩しくて嬉しかった。訳もなく何度も救われた心地がした。

そんな事をこの子は一生知らずに、私の存在など綺麗さっぱり忘れたまま生きていくのだろう。私にはその非相互性が寧ろ喜ばしく、人生の僅か0.1%を共有したに過ぎない奇縁がしみじみと愉快だった。


やがて赤子の母親が迎えに来た。寝起きでふにゃふにゃの所を手渡す。
話の流れで「今日で最後なんです」と言うと、思ったよりも驚かれた上に残念がられるのでいたく恐縮した。私はどうにも足りない所ばかりで、決して良い保育スタッフではなかった筈だ。親御さんに対しては本当に申し訳無く思う。が、良くも悪くも、もうこれが最後だ。
寝惚け眼に西日が沁みるのか、母親の胸で目をパチパチと瞬かせる赤子の頬を指の背で撫でた。

「元気でな。たっぷり真っ直ぐ愛されて大きくなるこった」


一人また一人、子供達が迎えの保護者に連れられて、「バイバイ」と手を振りながら帰っていく。

その誰もが今後ずっと無事で元気で、いつまでも限りなく幸福であってくれれば良いと思った。この世に完璧な人生というものは存在しないかも知れないが、願うのはこちらの勝手である。




一冬を共に過ごした子供らに感謝を。
君達の存在は確かに私の幸福でした。

この先どこへ行こうとも、どうか達者で。

諸君の洋々たる前途に幸多かれ!


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