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アメリカと音楽の間に(宮内悠介『アメリカ最後の実験』)

「それは悲劇でもあり、祝福ともなった。」


1. アメリカの風景(少しジャーナリスティックな話など)

1-1. アメリカ(1976年)の風景 −暗い砂漠の高速道路上で−

colitas(コリタス)
砂漠の花であるが、マリワナの意味でもある。
dark desert highway
ハイウェイはアメリカの車社会(経済成長)の発展の象徴。同時代に誕生した「ロックンロール」のことを意味し、暗い砂漠とは人種差別のことだと思われる。
her mind is Tiffany-twisted, she got a lot Mercedes Bends
Mercedes Benzのもじりと同時にジャニス・ジョップリンのことを指す。
we haven’t had that spirit here since nineteen sixty-nine
「そのようなスピリッツのワイン(ワインは蒸留酒ではない)は1969年以降のここには置いていません」ここで言う蒸留酒は魂(ロック)。1969年は「ウッドストック」開催の年。ヘルス・エンジェルスによる「オルタモントの悲劇」も起こった年でもあります。さらに、1969年から1971年にかけて、27才の偉大なロックスター4人がこの世を去った。俗に言う”27クラブ”です。
the beast(野獣)
音楽業界のことを指す。
steely knives (複数の鉄製のナイフ)
スティーリー・ダンを持ってしても、商業主義の音楽業界に立ち向かえなかったという揶揄。『ホテル・カリフォルニア』がリリースされる以前に、スティーリー・ダンは自らの曲中に「イーグルスのうるさい音楽をかけろ」と揶揄したことがあったため、それに対する当てつけとの説も。
checkout
死の意(北米口語では自殺の意味で使われる)

これはアメリカ建国200年を祝した1976年に大ヒットを飛ばしたアメリカウエストコーストのロックバンドの一曲の歌詞に出てくる語句を抜き出したもの。言わずと知れたイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」である。一般的には「(反骨精神としての)ロックの終焉」を歌ったとされる作品であり、その後高度資本主義と手を取り合い産業ロックに向かうようになる彼ら自身の音楽と時代背景から、この曲の歌詞を確かにそのように読み取ることは難しくはない。

たとえば、ヴェトナム戦争への反対。たとえば、公民権運動。アメリカ社会の「メインストリーム(主流派)」が進める政治に、大いなる「NO」を叩きつけたのが、この時代のポップ文化だった。そこから、70年代以降のロックのみならず、ソウル音楽が、ファンクが花開き、ヒップホップにまでつながっていく道筋が形作られていった。このとき初めて、60年代においてようやく、ポップ音楽は大人になったとも言える。「アメリカの」大人に。
それは60年代のビーチボーイズに代表される「若者達の夢」「アメリカン・ドリーム」であり、「ウッドストック」に象徴される幻想。光溢れる夢の地カリフォルニアに憧れて、多くの若者が地方から出てきた。イーグルスのメンバーもそんな若者達の中の一人であったはず。ところが、夢の地などどこにもありやしない。カリフォルニアという幻想麻薬に侵され、自分自身の中の野獣が育っていく。現実に戻らなければ…と気付いた時はもう遅い。決して逃げ出すことのできないこの状況を打破するためには、素直に現実を受け入れるか、自殺するかしかない、という世界観。

しかし、この作品が持っている射程は「(ロックという)青春の終焉」と簡単に纏めてしまえるほどそんなに浅はかなものでもない。アルバムジャケットの制作過程をもう一度振りかえってみる。

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そんなKoshがあの夕暮れ時のビバリーヒルズ・ホテル(通称、ピンク・パレス)を使った秀逸なデザインのアルバムを世に放つ時が訪れます!それが架空のホテル”Hotel California”であります。イギリス出身のコッシュは70年代のウエスト・コーストのダサさに惹かれ、その象徴でもあるヤシの木やネオンを使い、ロックフロンティアの終焉を表現するために、栄華の象徴である高級ホテルに夕日が沈むというアイデアを思いつきます。この絵を実現するために、Koshはハリウッド大通りに三脚を立てて、交通渋滞を引き起こしてまで粘りに粘り、納得のいく写真が撮れるまで撮影を止めなかったそうです。ダブルジャケットを開くと、寂れたホテルのロビーが現れます。夢と現実の落差を表現するために、敢えてここではビバリーヒルズ・ホテルより数段ランクが劣る、リド・ホテルを使っています。(現在は安アパートとして存在)そのリド・ホテルのロビーにしらけ顔のスタッフや友人などを沢山集めて、イーグルスのメンバーを中心に、喧噪と虚空に満ちた猥雑なパーティーシーンを演出しているのです。

「アメリカは国内に小さなアメリカを持ちやすい神経症を病んでいる。というフラクタリックな論法」を持ち出すまでもなく、「ロック」という一時代の青春の終焉について数々の固有名詞と暗喩を循環するコード(Bm-F#m7-A-E7-G-D-Em7-F#m7)に散りばめてその諧謔を歌い上げながら、同時に建国200年目を迎えるアメリカという国そのものが持たざるをえない歴史としての「閉塞感」を「ホテルに閉じ込められる」というメタファーとしてしまうという周りくどい手法自体はあまり深刻に顧みられることなく、しかしだからこそ潜在的に大衆に届いたこともあるのか、この曲は皮肉にもバンドのアンセムとも言える代表曲となり、数度の活動休止(「一度も解散はしていない、長い休暇をとっていただけだ」というのはドン・ヘンリーの言葉)と再結成を挟んで2015年まで40年近く歌い継がれることになった(しかしながら、彼らの長い旅も2016年1月にオリジナルメンバーの一人、グレン・フライの死を持って終わりを迎えたしまったことは無念。晩年のライブはホイットマン/ヘンリー・ソローの境地に片足を突っ込んでいたという)。


1-2.  アメリカ(2016年)の風景 −スリント・トランプ・セッション

ホテルカリフォルニアが建てられてからちょうど40年、大統領選に沸く2016年初頭のアメリカで、冗談としか言いようもない茶番が繰り広げられている。

たとえば、アメリカ英語で「キャンペーン・ソング(Campaign Song)」というと、第一義的に「選挙戦で用いられる宣伝用の歌」という意味になることを、ご存知だろうか? 日本だと、カタカナ語の「キャンペーン」は、広告用語なども含め多種多様に使われる。派生語として、キャンギャル、ネガキャン、そのほかいろいろある。しかしアメリカでは、そもそもの単語の語義のなかの「選挙活動」という意味に沿ったものこそがまず「Campaign Song」なのだ。つまりそれほどまでに、アメリカの大統領選とポピュラー・ソングとは、切っても切れない関係がある。しかも、昔から。
今回の選挙戦でも、各候補がそれぞれの「キャンペーン・ソング」を選び、集会や演説会で流したり、宣伝動画で使ったりしている。「歌詞と曲想によって」、あるいはときには、その曲の歌手のイメージまで「込み」で、選挙戦でのプラス効果を狙うことが普通だ。だからキャンペーン・ソングとはつまり、その候補の「テーマ・ソング」ともなり得る。音楽家のほうでも、「自分の楽曲がキャンペーン・ソングに使われる」ということは、とても大きな意味を持つ。「だれの」キャンペーン・ソングとなるのか、ここが最も重要な点だ。

さて、古くはレーガン大統領がB・スプリングスティーンの「Born in the USA」をキャンペーンソングに使ったという笑い話のような騒動に連なる「キャンペーン・ソング」の借用を巡るいざこざが、今回トランプとあるアーティストの間でも起こったと報道されているのだ。話はこういうことだ。

あろうことか、"反骨ロック"のアンセムといってもいいニール・ヤングの代表曲「Rockin' in the Free World」をトランプが無断でキャンペーンソングに使ったところ、案の定ニール・ヤングにキレられたというのだ。一方で話しをややこしくしているのは、「ヤングはヤングで自らのハイレゾ音楽配信システム事業「Pono」へのビジネス面での協力をトランプに求めていた」という経緯があるらしい。

さらに話をややこしくしているのは、「どうやら真剣にトランプはニール・ヤングのファンだった様子なのだ(芸能活動も盛んだったトランプ、ああ見えて選曲」の勘も悪くない)」ということ。最後の極め付けにニール・ヤングは元々カナダ人でアメリカで選挙権を持っていない。何だこれ。ここには、皮肉とも笑い話としても笑い飛ばしきれないような、アメリカと音楽と政治を語る居心地の悪さだけが残る。

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そんなトランプ氏だが、現在(2016年4月時点)保守や中道や革新といった政治的な立ち位置を超え、女性、ラテン系、イスラム教徒、その他マイノリティーを標的にした憎悪と暴言をよりどころに、共和党の指名争いでトップを走っている。なぜこんなことになってしまったのか(当のトランプ本人も頭を抱えているのではないか)、誰も予想しえなかったトランプ躍進の背景を背景をノーム・チョムスキーがこのように推察している。

チョムスキーは、先の「キャンペーン・ソング炎上騒動」というマッチポンプ式扇動手法や「マイノリティーを標的にした憎悪と暴言」というキャッチーな釣り餌の効果以上に、もっと現実的な力学が働いている可能性もあると指摘する。

「(トランプの票田の)ターゲットはおそらく、戦争や大災害ではない理由で死者が増えている集団です」
一般的に、平均余命は、安定して伸びてきた。そして健康保険の普及で、世界中の多くの人々がより長く生きられるようになった。もちろん、例外はある。たとえば戦争や大災害などだ。しかし今のアメリカで起きていることは、チョムスキー氏によると「かなり異なる」という。
人々は豊かになり、医療も進歩したのに、アメリカは他の国より平均余命が短い。そして「平均」余命は最近になって上昇しているが、その恩恵は平等に行き渡っていない。アメリカ人は金持ちが長生きし、貧しい者は長生きできないのだ。
「戦争も大災害もなくなったことが、この層の死亡率を高めたのです。特定の世代に怒り、絶望、不満を残した政策の影響で、彼らは自らを傷つける行動に走っているのです」
「トランプ氏は明らかに、恐れ、不満、失望といった感情の深い部分に訴えています。」
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トランプの潜在的な票田となるべくしてなってしまった「アメリカの貧しい庶民」たち。先進的な東海岸の諸都市でも開放的な西海岸の諸都市でもない、ただだだっ広いだけのアメリカの平原の中央に住む彼らはどんな音楽を奏でていたのだろうか。1990年代初頭に一部でカルト的人気を呼んだオルタナバンド「Slint」の場合。ケンタッキー州ルイスヴィル。

80年代頃のアメリカの主要なオルタナティヴバンドは、例えばソニック・ユースやピクシーズ等、メンバーの多くがそこそこいいとこの家庭出身で頭脳優秀で大学卒業後に本腰いれて始めたようなイメージが強い。だからスリントも、情報がなかった頃は大卒の働くも生きるのも面倒くさくなったインテリが最後の手段として始めたバンドだと思っていた。
11歳の時からバンドをやっているスリントの「子供達」はまだまだあどけないごくごく普通の地方で元気に育った青年だった。こいつらが、この変に悟ったようなじめじめとして辛気くさいアンチクライマックスの音楽をやっていたという事実に、背筋が凍りそうになる。
このガキ達が何故ここまで音楽を通して表現しなければならない「何か」特別な感情を持たなければならなかったのか。

彼らの奏でる音楽自体に「恐ろしさ」があるのではなく、ごくごく普通の地方都市で育った子供たちがそのような音楽を通して表現をしなければならない「何か特別な感情」を持たなければならなかったことの背景に、本当の「恐ろしさ」がある。「何か特別な感情」というのは、恐らく2016年になって急に世の中に現れたのではない。それはこのような形でアメリカの深部にずっとあったのだ。それをはからずもトランプが分かりやすい形で炙り出し、チョムスキーが「恐れ、不満、失望といった感情の深い部分」と明示したということなのだろう。

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そしてこの「恐れ、不満、失望」という「特別な感情」は、「憎悪や呪詛の空間的な充満がインターネットによって必要以上に可視化された現代」、瞬く間に世界に広がっている。

「怒りよりも「恐怖」と「憎悪」を刺激する、マーケットリサーチばっちりの現代駄菓子で民が甘やかされて怯えながら生きている現代社会の中で、ついつい喰ってしまう様に出来ている」

と切り捨てる『セッション』(2015年公開された映画。ドラマーになる夢を抱く音楽学校の生徒と鬼教師との戦いを描き話題を博した)が、世界中でこれほど評価されるのは、

「こうした予期不安とフラッシュバックが蔓延している世界の欲望に、見事に応えたから」で、「平和ボケと戦争不安の日本も、戦争依存症で後遺症まみれのアメリカも、求めている物は鏡面的に同じです」。「素人が制作した、脱法ハーブ改め危険ドラッグのような、粗悪なペニシリンが早急に必要な世界が、ソマリアやガザの外側に広がっている」

という菊地成孔の映画評が、トランプの台頭以前に書かれたとはとても思えないほど、「恐れ、不満、失望」はアメリカの深部を蝕んでいたということなのだろう。


2. アメリカの原型

2-1. 地平線のさらに向こうへ

今日のアメリカを形作ってきてものの起源には様々なものがあるが(政治・科学技術・軍隊・重工業・エンターメント産業)、その起源の一つに鉄道会社がある。言わずと知れたアメリカ最大の鉄道会社「ユニオン・パシフィック鉄道(本社はネブラスカ州オマハ)」。ピンチョンが暗示するまでもなく、広大な国土を持つ国では(少なくともIT革命前の時代では)その国内の物流・交通インフラを制したものが経済発展と富の蓄積の鍵を握る。南北戦争中の連邦の維持の目的でエイブラハム・リンカーンによって承認された太平洋鉄道法を受けて、(有名な奴隷開放宣言と同年)1862年年7月にユニオン・パシフィック鉄道は設立された。

1492年コロンブスの北米大陸上陸を経て1620年ピルグリムファーザーズの集団移住以降、1622年には移住者と先住民の最初の諍いからインディアン戦争が勃発(1890年まで各地でジェノサイド・民族浄化が繰り広げられる。この途上で1790年最初の先住民"保留地"が制定される)、かたやインディアンを駆逐しながら、彼らを上手く利用し1776年から独立戦争を戦った合衆国は、遂に1783年パリ条約で宗主国イギリスからの完全な独立を果たす(このとき大陸13州が完全に独立、ミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得)。

アメリカの国土発展の歴史とは、その途上で先住民ネイティブアメリカンや近隣の国家を駆逐しながら、プロテスタントの白人の領土に変えていった過程にほかならない(以下、ウィキペディアの抜粋続く)。

1840年代ゴールドラッシュから西部開拓が本格化、1848年、米墨戦争に勝利しメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1858年にさらにメキシコ北部を買収。国内市場の拡大とともに。1830年代から1850年代までに北東部を中心に重工業化、すなわち産業革命が進んだ(同時にこの時代に今日の「共和党」「民主党」の二党政治の起源となる民主政治と資本主義が発達)。国内の貧富の差の拡大(南北問題)に起因する南北対立から始まった南北戦争(1861年~1865年)と太平洋への進出("黒船来航")を経て、1869年ついにアイオワ州カウンシルブラフスから西へ延びた路線はユタ州オグデンの西53マイルにあるプロモントリーサミットで5月10日に繋がり、北アメリカ最初の大陸横断鉄道が開通した。

アメリカ政府はこの鉄道を使って官製ツアーを募り、「窓からバッファローが撃ち放題」と宣伝した。こうして列車で押し寄せる白人は、面白半分に窓からバッファローを射殺し、インディアンたちをさらに怒らせた。さらにこのバッファロー撃ちには「インディアン掃討」の意味も加わり、彼らの食料を奪うべく、組織的なバッファローの虐殺のために鉄道が援用された。

1890年ウーンデッド・ニーの虐殺を最後に「開拓に邪魔なインディアンの掃討作戦は終了した」として、合衆国は同年「フロンティアの消滅」を宣言。大陸横断鉄道が整備され大西洋岸と太平洋岸が一つに繋がってから21年を経て、アメリカは言葉通りの意味での国内の統一を果たした。


2-2. アメリカの三人の父親

フロンティア消滅以後の20世紀初頭アメリカに、三人の「現代アメリカ」の父親たちが生を受ける。

ウォルト・ディズニー、ベンジャミン・"バグジー"・シーゲル、そしてL・ロン・ハンバート。

アメリカが中国進出に本格的に舵を切った1901年、ウォルト・ディズニーは前述のユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員イライアス・ディズニー(アイルランド系移民)の第一子としてシカゴに生まれた。

幼いときから絵を描くことと鉄道に乗ることが好きだったウォルトが選んだ道を知らないものは、この地球上に一人もいないだろう。1920年、カンザスシティーの漫画スタジオから独立してハリウッドへ移住、1923年に「ウォルト・ディズニー・カンパニー」を設立以後伝説的なアニメ映画を作り続け(1928年『飛行機狂』(原題"Plane Crazy")がミッキー・マウスが登場する最初に製作された作品)、第二次世界大戦と赤狩りを挟んで、1955年、遂に幼いときからの夢を実現する。カリフォルニア州アナハイムの150エーカーの土地に世界初の総合遊園地を開園、通称"夢の国"「ディズニーランド」である。

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ウォルトは「夢の遊園地」の開園だけに飽き足らず、都市をまるごとデザインするという野望を持ちフロリダの広大な土地に「エプコット」という名の「夢の実験都市」を作り始める(あのバックミンスター・フラーの「ジオデシック・ドーム」がシンボルとして有名)。ウォルトは完成を見ぬまま亡くなったが、この地はエプコット、ディズニーランド、ホテル等を丸ごと取り込んだ総合観光地区「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート」として1971年に開園(それ以降のディズニー事業の世界展開は駆け足で)。ロサンゼルスオリンピックの前年、1983年にオリエンタルランドとの合弁で東京ディズニーランドが開園。2016年には共産主義国家初のディズニーランドが上海浦東に開園する予定。反共主義者として生きたウォルトが誕生する前年、「門戸開放・機会平等・領土保全」の三原則を清に突きつけてから116年、アメリカは遂にその夢を果たした)。

二人目の父親、ベンジャミン・"バグジー"・シーゲルは1906年、ニューヨークのブルックリン・ウィリアムズバーグにウクライナ・キエフ出身のユダヤ系移民の子として生を受ける(18年前同じ街ウィリアムズバーグでマンハッタンから越してきたヘンリー・ミラーが幼少期を過ごしている。あとから登場するアブラハム・ハロルド・マズローもバグジーの誕生から僅か2年後に同じブルックリン・ウィリアムズバーグに生を受けた。この三人がブルックリン・ウィリアムズバーグの交差点ですれ違っていることを想像すると頭がおかしくなる)。

ヘルズキッチンで札付きの悪ガキとして育ったバグジーは、1920年(ウォルト・ディズニーが独立しハリウッドに移住した年)、禁酒方時代(1920年〜1933年)のシカゴ・ニューヨークで酒の密売トラックの護衛を請け負いから密輸業経営を経て、アル・カポネらマフィアとうまく立ち回り、数々の汚れ仕事を引き受けながらイタリア系・ユダヤ系のマフィア社会のフィクサーにのし上がる(彼らと政財界の金がエンターメント産業に流れ込み、所謂"ロアーリング20s"−バブルを引き起こし、一方でこの恩恵を受けてシカゴ・ニューヨークが独自のジャズ文化を発展させる礎を築くことにもなった)。1930年代からはニューヨークマンハッタンの高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」(アメリカ屈指の大富豪アスター家のドイツの出身地に由来。アイゼンハワー、マッカーサーからマリリン・モンロー、パリス・ヒルトン一家も一時期自邸として使用。中国の保険会社「安邦保険集団」に買収されて以降、盗聴を恐れるアメリカ国務省はこのホテルの行事利用を止めている)に居を構え、アメリカ東海岸を制圧したバグジーは、1937年西海岸に進出する。(ウォルトに遅れること17年)ハリウッドに移住し大手映画会社から金を巻き上げながら西海岸に地盤を築いたバグジーは、ハリウッドを足掛かりに、遂に誰もまだ手をつけていなかったネバダ州の片田舎の街に進出する。この街こそが「現代のソドムとゴモラ」として今日知られるようになるラスベガスであった。

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元々ラスベガスは1840年代末のゴールドラッシュ期にカリフォルニアに向かう砂漠の中の貴重な中継地点として労働者が住み着いたところに起源を持ち、1905年、ユニオン・パシフィック鉄道の開通に伴いダウンタウンが整備された。1929年の大恐慌後、1931年にフーバーダムが着工され、ルーズベルト大統領のニューディール政策下、1936年に完成。その後、労働者の流入と安価な電力の供給で、街は大きく発展し、1940年代に入るとダムから得られる豊富な電力を利用して、第二次世界大戦中にはネバダ砂漠に核実験場が続々と建設され、アメリカのインフラを支える街として発展した歴史を持つ。

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資金不足で建設を中断していたホテルに目をつけていたバグジーは、1945年、カジノとエンターテイメントを合わせた巨大ホテル構想の実現に着手する。商売敵やFBIの妨害を受けながらも、ようやく1946年12月26日に「フラミンゴホテル」が開業、しかしホテルの成功とその後のラスベガスの驚異的発展を見届ける前に、1947年6月20日、ヒットマンに狙撃されたバグジーは41歳の短い生涯に終わり遂げた。バグジー亡き後、ニューヨークマフィア配下の経営体制に移行したフラミンゴホテルは、それまでのカジノの主流だった高級志向を捨てて大衆的な低価格路線を打ち出し、これが戦時中の配給制で禁欲を強いられたアメリカ市民の娯楽欲求に火をつけ、全米から客が大挙して押し寄せる大ブームとなり、その後のラスベガスの繁栄のきっかけを作った。ラスベガスに君臨したバグジーの面影は、今でも「バックトゥザフューチャーⅡ」の悪役「ビフ・タネン」の姿から思い起こすことができる。一方でこのように成功したカジノのビジネスモデルは、1979年以降、先住民の保留地に建てられた"インディアン・カジノ"に受け継がれる。

アメリカは国内に小さなアメリカを持ちやすい神経症を病んでいる。というフラクタリックな論法も(中略)成り立つ中で、ここでは何らかの形でそれが戦争と密接に結びついている。ということに注目したい。特にバグジー、ディズニー、ヘフナーは、第二次世界大戦という巨大な破壊と殺戮の果てに夢と快楽の殿堂を作り上げた。「戦後」であること。元は砂漠であったこと。そこには必ずボールルームが置かれ、音楽が演奏されたこと。

もう一つの「夢の国」を創設した最後の父親、L・ロン・ハバードは(ウォルトの誕生から10年後、バグジーの誕生から遅れること5年)1911年にネブラスカ州の片田舎ティルデンに海軍に務めるハリー・ロス・ハバードの子として生まれた。青年時代、豊かな祖父からの経済的支援によってアジア中を旅し、中国北部、インド、そしてチベットで聖人と学んだ、と自らの自伝には書かれている。ジョージ・ワシントン大学の土木工学科を落第になった後、1941年、海軍に入隊、海軍中尉として潜水艦を任せれたハバートだったが、数々の任務の失敗の責を問われ、海軍を除隊(興味深いのはこのとき多くの批判と同じくらい同僚の賞賛も勝ち取っていたと言われることだ)。その後、SF作家として知られるようになる(実際は1933年から1938年の間、ハバードは138のSFをパルプフィクション紙に書き送っており、そのいくつかは発表もされていた)。

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1950年にハバートは最初の理論的著作「ダイアネティクス」という自己啓発書を書き上げると、全米で15万部を売り上るベストセラーになる(書評のほぼすべては非科学的で衒学的だとの冷淡なものだったが、『スラン (SLAN)』『非Aの世界』の作者A・E・ヴァン・ヴォークトら一部のSF作家からは熱烈な支持を受けた)。その後、「宗教か精神医学の手法を発明することは金儲けのための有力な方法だ」「これから金儲けのために宗教を始めるつもりだ」という思いつきから、自前の宗教を作り上げる構想を始める。1952年3月、アリゾナ州フェニックスに移住したハバードは1953年12月、ついにニュージャージー州カムデンに「サイエントロジー教会」を設立した。当局の介入を嫌ったハバートは協会の執行役員職を辞し、1960年代後半〜1970年代前半のほとんどをギリシャ近海の地中海で小型船隊の「海軍准将」として船上で過ごした(1969年にギリシャ政府の取り調べを受けたのは、あのリュック・フェラーリが「ほとんどないもない」を録音したコルキュラ島からほど近いアドリア海に浮かぶケルキラ島であったという)。

1976年、カリフォルニアの牧場に移り住みSFの執筆へと戻ったハバードは1982年『バトルフィールド・アース』(サイエントロジー信者であるジョン・トラボルタが私財を投げ打って製作しそのキャリアに取り返しのつかないほどの傷跡を残し大失敗に終わった2000年公開の映画の原作)などサイエントロジーの教えを下敷きにした作品を書き、1986年、脳卒中により牧場で74歳で亡くなった。

サイエントロジーだけでなく、それまでの伝統的な宗教・哲学・科学を更新しようとする試みの多くが戦後のアメリカ郊外で勃興したということは興味深い。この起源は色々なところに求めることができるが、人間性心理学の最も重要な生みの親とされているアブラハム・マズロー(バグジー誕生から僅か2年後にポグロムを逃れてアメリカに移住したユダヤ系ロシア人移民の長男としてバグジーと同じブルックリン・ウィリアムズバーグに生を受けた)の提唱した「自己実現理論(有名な「欲求のピラミッド」)」や1960年代にアメリカの心理学分野において生じた「人間性回復運動(Human Potential Movement、通称"HPM")」などが下世話な成功哲学、マルチ商法と混然一体となり、1960年代後半のフラワームーブメント(LSDをはじめとしたサイケデリック・ドラッグ・カルチャーやヒッピー/コミューン文化)やヨーロッパから流入したオカルト崇拝(占星術師であり『法の書』の作者アレイスター・クロウリー)や文化人類学(カルロス・カスタネダ)などとも合わさって、精神世界の探求が戦後アメリカで独自の発展を遂げたのではなかろうか。

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持つものにとってはマネーロンダリングシステムの歯車として、持たざるものにとっては従来の神の代替品として、カルト宗教は現代まで生き延び、もう一方は宗教臭を消し去り「自己啓発」や更にマイルドな「ライフハック」として形を変えビジネス・教育の世界に根付いている(自己啓発セミナーも元々は帰還兵隊のためのセラピー、薬物リハビリの分野から始まったという、いかにも伊藤計劃/宮内悠介的な話もある)。戦後アメリカで冷戦という目に見えない緊張を潜在的に強いられたアメリカの大衆の心に空いた穴を埋めたのは、やはり「自己実現」という夢の国であったとも言えないだろうか。


2-3. 呪いの地層

建国1776年から数えて140年の歴史の呪い。18世紀以前から最初の数世代が先住民の血で地面を固め切り開いてきた土地に、19世紀末その後の世代が鉄道レールを敷き、さらに20世紀初頭生まれのその後の世代が、夢の国を打ち立てる。そのようにミルフィーユのように何層もの呪いで塗り固められた地面の上に立っている同時代のアメリカ人(戦後アメリカの子ども/孫の世代)が「恐れ、不満、失望といった感情の深い部分」をどうして無傷のまま守り通していられようか。「恐れ、不満、失望」を忘れ平静を保とうとすればするほど、人は何かにすがってしまう。

それがウォルトの築いた健康的な夢の国でも、バグジーの築いた退廃的な娯楽の夢の国でも、或いはハバートの築いた「自己実現」の夢の国でも結局は同じことだ。ディズニーランドのポップさと、ラスベガスのキッチュさと、新興宗教/自己啓発のグロテスクさはほんの紙一重の差しかない。

3. 『アメリカ最後の実験』の風景

さてここまで来てようやく『アメリカ最後の実験』を今まで切り開いてきた地平におくことができる。何が見えてくるか?聞こえてくるか?

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さしあたり言っておきたいことは三つある。


3-1. 現実とフィクションの交錯点

一つは、われわれはみな戦後アメリカの子どもたちであるということ。そして本人が望む望まないに関わらず、呪われた国に否応なく生まれ落ちてしまったということ。

本書を再読して、時代を特定・類推できる固有名詞(ゲータレードからバブリシャスガムから始まりはっきり明示されないがそうとしか当てはまらないものを含めれば3DSかiphoneで終わる)、実在の人物(ハービー・ハンコック、ロバート・ジョンソン、ジョン・コルトレーン、チック・コリア、ジョン・ケージ、ジョン・ハンフリー・ノイズ、ホイットマン、フロイト、チャールズ・マンソン、ブラインド・ウィリー・ジョンソン)から本書の舞台を類推してみても、おそらく2014年〜2015年、つまり「現代」であるということはほぼ間違いないであろう。架空の現代を舞台に描かれるフィクションとすんなり認めてしまいそうなところに、しかし一つだけ驚くべき落とし穴がある。

最初一読した際は、現代アメリカを舞台に新しい音楽のあり方が描かれているな、そしてそのことには漠然とした現代性がある(トランプなんかとどこかで交わる問題があるような気が何となくする)というまあ月並みな感想しか持たなかったのだが、上に挙げたような固有名詞や人名を舐め回すような少しいやらしい読み方をしていて驚くべきことに直面したのだ。

本書に出てくる架空の登場人物と歴史上の人物たちの中で、例外的に、生身の人間、つまりわれわれが生きるこの世界で今この瞬間にも息をして偶にTVにも映ったりする人物が、架空の登場人物と会話を交わしている場面がひとつだけあるのだ。

彼の名は「テッド・ハガード」。グレッグ音楽院の創設者であり、幻視の音楽家とも呼ばれたヨハン・シュリンクが、若い頃に新興宗教教会のお抱え演奏家として誘われる場面。話の流れからまさかとは思ったが、一応ググってみると出てくるではないか。「New Life Church was founded in 1984 by Ted Haggard.」(因みにこのWikipediaのページに日本語版がないことと、2007年ニューライフ教会で起こった無差別乱射事件との間に連関はあるのだろうか)。そしてこのことから、恐るべき事実が明らかになる。

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「信者の獲得は、市場での自由競争と変わらない」とやや大袈裟とともに身振り手振りともにテッド・ハガードが語り、コロラド州コロラドスプリング郊外のショッピングモールに最初の教会を設立したのは1984年のこと。「年齢はヨハンより10歳近く下」ということは1956年インディアナ生まれのテッドに対して、ヨハンは1946年(前後)生まれということになる。

そして、ヨハンが礼拝後の演奏の最中、脳炎で倒れたのは「ディズニーワールド(おそらくフロリダの方を指しているのだろう)が15周年を迎えた年」すなわち1971年+15年=1986年のことであったということ。だとすれば、まだ幻視の音楽家としての耳をもっていた頃、最後にレコーディングされた音源は1980年代前半にあたり、つまりDonald Fagenの"Nightfly"と同時代の音楽であったということになる(SF! 気になる方は第二回を読んでほしい)。

驚くベきことはそれだけではない。テッドが「三人の父親たち」の子供の世代にあたるのと同じようにヨハンは1946年生まれと類推され、彼もまた戦後生まれの第一世代であることが分かるが、同じ年に生まれた有名人が現実の世界にもう一人いる、そうドナルド・トランプ(1946年6月14日生まれ)だ(だからなんだと言われそうだが)。

宮内悠介の作品が主題を変えてもいつも「SF」であるということは、やはりこの作品にも当てはまる。音楽演奏の技法的新しさが「SF」っぽいという意味や架空の近未来のアメリカを描いたから「SF」っぽいというのではなく、「サイエンス」と「フィクション」が出会う所という、言葉通りの意味で、本書は紛れもない「SF」小説なのだ。


3-2. 地獄と落とし前

二つめに、登場人物たち一人一人が迷い込んだ地獄と彼らの落とし前のつけ方。

家族を築くという、たったそれだけの当たり前のことが、どうして実験的になってしまうのか。ラジオのDJが毎度の台詞を繰り返した。
−直感に耳を傾けるのです。
何が直感だと脩は思う。直感的に上手くいかない国で、直感的に上手くいかない恋をしている。誰だって似たようなものではないか。
いわば、アメリカの一つの潰えた夢。
アメリカ人はなぜ作りものを好むのか。それは家族が作りものだからだ。

主人公脩だけではない、登場人物はみな二重写しの「家族」/「アメリカ」に囚われている。脩の父親俊一は渡米後、音楽の死んだ街という地獄に囚われたまま帰ってこれなくなる。

性も暴力も、ときには金すらもが人を動かさない老いた世界において、ありうべき新たな時代の商品とは、いったい何なのか。
それを見通すためには、シミュレーションしてみればいい。あの保留地の街は、来るべき終末世界の、市場調査の場として選ばれたんだ。アメリカ最後の実験とは、そのプロジェクト全般の名前さ。

その呪いに抗うために、俊一はその街を「サウンドスケープ」の観点からデザイン仕直し街に音楽を蘇らせようとしたのだが、その試みはどうやら上手くいっていない。結局、「呪い」に「理想主義や(科学的)良識」では打ち勝てないのだ(レーモンド・マリー・シェーファーの提唱する「サウンドスケープ」という概念に薄々感じていた胡散臭もこのへんにある)。

一方、父親の渡米と失踪/アメリカの音楽との(幸福か/或いは不幸な)出会い(父親の弾く"It's a small world"の記憶と、団地の商店街のワゴンセールに並び子供自体の脩がそうと知らずに手に取ることになる「幻視の音楽家のレコード」)という地獄を抱えた脩の落とし前は、決勝戦でのピアノ演奏("It's a small world")ではなかった。それは唐突にやってくる。

先住民保留地のタウンホールで唐突に歌われる先住民の歌。リューイの「声」に導かれるようにだんだんと広がっていく歌声。一人の声から複数の歌へ、あと少し傾いたら「暴力」と「集団暗示」のベクトルに向かってしまいそうな危ういバランスを保ちながらタウンホールを震わせる歌(冷静に考えるとこのシーンはぎりぎりちょっとしたホラーだ)、脩はそこに「未来」を見る。

過去の呪縛を解く呪文としての「声」。重苦しい話の最後に一筋の光が差すように見えてほっとする(だけど同時に集合としての「歌/声」は一抹の不安も残す。良質なホラー映画のように)。


3-3. アメリカと日本

三つめに、著者宮内悠介について。アメリカとアメリカに纏わる音楽を描いた数ある小説やノンフィクションの中で、これほどまでにアメリカのグロテスクさを肌で感じるほど描ききった作品を他に知らない。われわれが普段見聞きする外面のアメリカの肌をぺろりとはがして見えて来る、湯気の立った内臓のようにグロテスクなアメリカの姿。何でもないふとした時に肌で難じる、あの吐き気を催す/或いは鳥肌のたつようなような何ともいえない肌触りと空気の匂い。ある種の音楽にはスピーカー越しにその感覚が一瞬だけ伝わってくるときがある。

本書は、否応なくアメリカという国で幼年時代を過ごしてしまい、そしてアメリカの影の下、日本という国で青年時代を送ってしまった人間としての、ある種の落とし前として読むことも出来るのではないか。(了)

【参考文献・ウェブサイト】

「棚からアート」No.05 EAGLES 『HOTEL CALIFORNIA』(1976 Elektra / Asylum / Nonesuch Records A Warner Communications)(弓削匠)

http://con-trast.jp/Column/12

「トランプよ、俺の歌を使うな! ニール・ヤングもR.E.M.も大激怒……お騒がせ男の「炎上選曲」が止まらない」(「現代ビジネス」川﨑大助)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48314#

「トランプ氏の人気を支えるアメリカ社会の「格差と貧困」 ノーム・チョムスキー氏に聞く」(「The Huffington Post」Matt Ferner)

http://www.huffingtonpost.jp/2016/02/28/donald-trump-noam-chomsky-white-mortality_n_9343538.html

「オルタなロックの楽屋の裏で−スリントという伝説」(ひよこ)

http://blog.livedoor.jp/rockhiyoko/

「DCPRGに関する三番目の企画書 GO FUCKIN' WEST」(菊地成孔『スペインの宇宙食』所収)

「バンド・スタイルの変遷から見るジャズ史」(大谷能生『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く」所収)



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