負けられない戦いは続いている。

高校時代、俺は早稲田の一文を目指していた。一番の理由は、シナリオライターになりたかったからだ。早稲田の一文は作家輩出数が日本一であり、早稲田の自由な校風も自分に合っていると勝手に思い込んでいた。
俺の通っていた高校は、地方の自称進学校にありがちな、「国公立大至上主義」であった。そんな中、自分の周りで一人だけ「早稲田至上主義」を掲げていたのだ。
早稲田に入ってもいないのに、周りの友達に早稲田の素晴らしさを勝手に説いて回っていた。今にして思うと、自分はあの時期が一番早稲田が好きだったと思う。
しかし、模試の成績はいつもE判定。たまにD判定が出るくらい。
11月の進路相談で、ついに担任から「もう早稲田は無理だから諦めて」と言われてしまった。
しかし、「受験するのは自由だし、自分は絶対に本番で奇跡が起こって受かるから大丈夫だ」と言って信念を曲げなかった。
「浅川君は国語の成績がいいので、広島大学文学部の推薦出せるよ?」と言われても、
「別にいらない。早稲田の一文しか行きたくない」と言って突っぱねた。
担任は、わけのわからない僕の意地がかんに障ったのか、
「実は、浅川君の他にもう一人、早稲田の一文にしか行くつもりないって言っている生徒がいます。」と言ってきた。
「誰なんですか?」と聞くと、
「応用クラスの木津君です。」
木津という奴だった。
高校の同級生だが、中学も違うし、同じクラスにもなったことはない。話したこともない奴だった。
しかし、その存在は知っていた。
俺は高校1年の秋までサッカー部に所属していたのだが、早稲田を目指して勉強に専念したいから辞めたのだ。
俺が辞めたタイミングで入れ違いで1年の秋にサッカー部に入ってきたのが木津だった。
木津はサッカー部でエースだった。3年の夏まで部活を続けながらも、テストでは常に学年で5番以内には入っていた。
担任はこう言った。
「浅川君は早稲田には受からないと思うけど、木津君は受かると思います」
その発言を聞いた瞬間俺は、心の中でその担任との縁を切った。こんな人は担任でもなんでもないと思ったのだ。
「こいつはもう絶対に信用しないし、あと、木津には絶対に負けない」
そう心に誓ったのだ。

そして受験期を迎えることとなる。
俺の受験校は、早稲田の一文、二文、教育、慶応の文、青学の文、東海大学の文だった。
早稲田至上主義なのに慶応や青学や東海大学を受けてるのは、「慣らし」と日程の都合。
一番最初に受けた東海大学は受かったけど、行くつもりはなかった。
そして青学、慶応も不合格。まあしょうがない。
最後に早稲田の連戦。一文、教育、二文。一文はダメでも教育なら望みあるか。そして、夜間の二文でも受かったら行こうと思っていた。
受験を終え、実家に帰ってきて電話での合否案内を聞いた。
早稲田の一文、落ちていた。
まあ、模試がE判定ばっかりだったんだから、落ちていて当然なのだが、
「他は全部落ちようと、早稲田の一文だけは奇跡が起こって受かる」と信じ切っていた(その根拠は全くない!)ので、相当ショックだった。
何より、担任の言うとおりの結果になってしまったのが悔しかった。

3月1日、高校の卒業式に行った。
友達みんなが「早稲田受かったか?」と聞いてきた。あれだけ周りに早稲田早稲田言いまくっていたので当然だ。
俺は「まだ結果は出てない」
と言った。
嘘ではない。二文の合格発表が3月3日だったのだ。二文の合否がまだ出てなかったのが、唯一の救いだった。
そこで、一人の友達がこう言った。
「おかしいな。応用クラスの木津君は早稲田に受かったって言ってたぞ。」
そうなのだ。木津は早稲田に受かっていたのだ!しかも、第一志望の一文には落ちたらしいのだが、一文より更に難しい看板学部の政治経済学部政治学科に合格したというのだ。

そして、後日俺は二文の不合格を受け(もうズタボロだ!)、代々木ゼミナールに行くことになった。
これを期に志望学部も一文から、政治経済学部政治学科に変えた。

1年後、なんやかんやあって(長いので省略!)、俺は早稲田大学社会科学部に入学した。木津と同じ政治経済学部政治学科に行きたかったけど、また落ちたからだ。

入学してすぐ、徳島県出身の学生が集まる「徳島学生稲門会」に入った。そこに行けば木津がいるかもと思ったからだ。
しかし、そこに木津はいなかった。
吉尾がいた。

木津は大学に入ってすぐ映画研究会に入り、大学二年で監督した映画が、なんか映画祭で賞を取っていた。
木津には会えなかったが、噂だけは色々聞こえてくる。
木津にとっては早稲田入学は通過点。早稲田に入り映画研究会に入り、映画監督という夢に向かって邁進し続けていたのだ。

あれから20年の時が流れた。

俺は、芸人になっていた。木津を探そうと入った徳島学生稲門会で出会った男とコンビを組み、漫才師を目指すがその男と死別。それでもよく分からないまま何とか芸人を続けている。
この20年の中で、色んな奴らが夢破れて東京から地元に帰るのを目にしてきた。
バンドをやってたアイツも、小説家を目指してたアイツも、今ではみんな辞めてしまった。
それは何も恥ずべきことではない。自然なことなのだ。

しかし、奴は、まだ続けていた。

あの木津が、また映画監督を続けていて、「早稲田の映画人」として早稲田学報に載っていた。是枝裕和監督や吉田大八監督と並んで!
初志を貫徹していたのだ。

「木津には絶対に負けない」
高校3年の時誓ったこの思いは、20年経った今でも続いている。

そして、将来的にはどこかで交わるんじゃないかと思っている。

2回くらいしか話したことないけど。

ルサンチマン浅川と申します。