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村上は無類の女好き

僕は女性が好きです。

簡単に性別で分けたとしたら、38歳の現時点で僕は男性より女性の方が好きです。僅差ではあると思いますが。どちらかと問われたら。
では、どういう類いで女性が好きなのかと自分なりに解析してみると、分かりやすく性の対象だから動物としてやはり抜本的に好むということだけではなく、女性という生き物のことが様々な興味の対象として好きなんだと自覚してます。
その分かりやすい1つの表れとして、普段僕は生業としてコントを書いたり演じたりするわけですが、時として無性に女性の役を能動的に書きたかったり演じたかったりする自分がいるのです。女性のこのシチュエーションを表現してみたい、この台詞を吐いてみたい、みたいに。
僕には池田というコンビの相方(彼も自身でコントを書き、演じます)がいるんですが、僕が見受ける限り、彼にはそのような衝動はないように感じます。一番近くにいる人間にその傾向がないということは、少なくとも、比較的に僕は女性に知的好奇心を抱いていると思う訳です。
では、女性の何が僕はそんなに好きで、何を描き浮き彫りにさせたいのでしょう。ここから改めてですが、今回の題材に対して自問自答になりそうです。
とりあえず、今僕の頭にある女性の好きと思える部分、その一発目に浮かんだものは“憂い”です。女性の持つ、放つ“憂い”のパワーってとんでもなくて。男が悲しんでいる姿より、女性から溢れる切なさみたいなものの方が吸引力というかなんというか引き込まれる、モノが違うと感じていまして。じゃあ、それは一体どういったものかと言われたら、分かりやすくまず以下の一例があります。

「ただいま~ …って誰もいない部屋に向かって何言ってんだ、私は」

独り暮らしの1Kのアパートに帰ってきた女子の“憂い”から来るこの小さな叫び。これ、男性が同じようなことを言ったとしても女性に比べ深みに欠ける気がするんです。とりあえず、今の時点でこの世界観わかんないよとなってる読者の方がいらしたら、本当にすみません。世代とか趣向とかそこらへんによるものですかね。すみませんが、このまま行きますね。
少し話が逸れましたが、こういったシーンや台詞を書いてたり演じるのが僕は特に好きなんです。本当になんでなんだろう。もうこうなったら、ここ最近の僕の作ったコント、女役を振り返りながら考えさせてください。

「せっかく冷めたごはんが可哀想だよ…」

これは僕が書いたコントの1つの台詞なんですが、マセた小学生女子が新しくお父さんになるかもしれない男に、モゴモゴしているので痺れを切らして放った言葉です。“可哀想な冷めたごはん”とよりリンクするのって、僕の中では女性だったんですよ。男性ではなかったんです。

「主婦の、最後の、意地のひと手間ぁ~」

こちらも僕が作ったコントの中の台詞です。登場人物である奥さんが旦那に作った料理に何気ないアクセントを加えたことをアピールをする一言なんですが。これは、できるだけねっとり話すことを心がけました。女性が見せるたっぷりとした“間”ってずっと見てられるんです、個人的に。別に貧しいとかではないんですが、この決して満たされてる感じではない部分に何か色々想像してしまったものでした。

すみません、ここでビックリさせてしまう報告がありまして、今紹介した2つの台詞はコント中にボケとして使われていたとか、ウケた一言とかでは全くないということです。そうです、笑いという目的のためには全くもって不必要なものだったんです。
でも、僕は絶対に演じたかったし表したかったんです。しなくてもいいことをわざわざするってのは、一番したいもの、好きなものなんだって思うんです。
もしかしたら、僕はコントや作品という場を借りて、女性の言動における新しい実験をしているのかもしれません。こんなことしなくてもいいってわかってるはずなんですが、好きだからこそ、その行動が止まらないのかもしれません。女性がこんなこと言うかもな、言ったら面白いな、言ってそうだな、言わないってわかってるけど言ってもおかしくないんだよな…など、その思いは止まりません。コントでの女役の一言をもう1つ紹介させてください。

「チェだよ、チェ…」

こうやって、自己顕示欲の塊みたいな女子の一言を書いたこともありました。これは「夜道に一人裸足でハイヒール両手にぶら下げて、車のヘッドライトに照らされる中、こんなこと言ってる女子が見たい!」という欲求から、こんな女子にはなかなか出会えないので、もう自分で演じてしまいまったものです。
この辺りで流石に読む気が失せていたら、ごめんなさい。
でも、そのくらい女性が好きなんですね、僕。そして、それは一体どのくらいなんでしょう、果たして。
支離滅裂ですみません、“憂い”の話をしていましたよね。“憂い”とはまた別に、女性から感じるのは男より“物事を受け入れてる感”、男より“何かとわかってる感”なんです。特に母親に育てられた、姉がいるなどの背景があるからかもしれませんが、僕には女性の“男性より達観してる感じ”がとても魅力的に映ります。これは単純に母性とか、包容力なんでしょうか。ただ、そこは女性も勿論人間です。神みたいな力はないわけですから、キャパオーバーだったり、歪みなどが生まれますよね。
もしかしたら、そこから“憂い”みたいなものが生まれているのでしょうか。これは、結局はみんな大好き、いわゆるギャップなのかもしれません。『母なる大地』という言葉があるくらい、歴史的に見ても、生殖システム的に見ても、男よりも女性の方が大きな存在ということは明白だと思います。そんな大きくて尊い者が見せる“隙”や“不完全さ”みたいなものがとても愛おしいのかもしれません。
母が、母となりうるデカすぎる人間が、化粧台の鏡に映る自分に向かって

「バーカ」

とか自分に言うんですよ。愛しくて仕方ないじゃないですか。
美しくいようと化粧したり(逆にしなかったり)、お洒落したりしてるのに、疲れすぎちゃって電車の座席に座りながら大きく口を開けて寝てしまって後頭部を窓に叩きつけてしまったりするんですよ、可愛いが止まらないじゃないですか。深みや振り幅が、男のそれと雲泥の差なんです。僕からしたら。
本当、すみません。
今日のnote、ここまで散らかってまとまりのないものになるとは思いませんでした。
今考えたら、女性のことを1つの記事として書きまとめられるわけがないんです。何故かそう思って書き始めてしまった僕の愚かさたるやです。
もう思いきってここらで結論やら何やら投げ出して本投稿は終わりにしたいと思います。
失礼する前に、本当に個人的に大好きな女性の台詞を紹介させてください。

TBS系ドラマ『カルテット』第2話より。

「わたしもずるいし、別府くんもずるい。でも、寒い朝ベランダでサッポロ一番食べたら美味しかった。それがわたしと君のクライマックスでいいんじゃない?」

男とついさっき体を重ねた女性の言葉です。
九條さんのこの地に足についた言葉、と覚悟。もしかしたら、強がって堪えているのかもしれませんが、男にはそれすらできない気がするんです。そして、この台詞の行間に漂う“憂い”って言ったら濃霧レベルじゃないですか。九條さんの包み込む力がとんでもない、僕の女性の好きなところが詰まりまくった大好きなシーンです。

ということで、これからも僕は女性を好きでい続けるのでしょう。
その言葉に耳を傾き続けるのでしょう。
女性のあれやこれやの思惑、台詞を勝手に想像するのでしょう。
最後まで、皆さんの中の母性にあぐらをかいたまま、男のワガママみたいな文章で失礼しました。
それでは。

※追記
こちらの記事を更新したすぐ後、スマホのシャッフル再生で次の曲に流れたのはCharaさんの「やさしい気持ち」でした。
やっぱり、女子には敵わないですよ。

あなたのお心をもし本当に気が向いたらでいいのでお与えください! そしたら、また自分の言葉に責任を持って皆さんに発信できます! ここを僕の生活の一部にして行きたいと思っておりますので!