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005.職場に一体感がない?

「職場に一体感がない人へ」という広告がタイムラインに流れてきて、思わず笑ってしまった。なぜなら今、私が働く組織には「一体感」がないから笑。

「かなり仲良し」だった、かつての職場から転職してきた私には、「職場の一体感がイマイチ」であることに、かなりの衝撃を受けつつもやがて、実は良い面もあるという事に気付くことになる。

今日はそのおはなし。

「職場に一体感がある」ということは、つまり「仲良し」ということである。

かねてより私は、どういうわけか「ファミリー」的だったり、「アットホーム」的な集団が苦手だった。もっといえば「同期」とか「同窓会」とかも苦手だった。

たまたまそこで遭遇しただけの同期とか同級生とかが、同い年だからという理由だけで、仲良くなれる必然性はどこにもないだろ?というのがその理由だった。

私は、大勢の人の中から、「ふと気づけばいつも隣にいるよね」みたいな人と、ゆるく一緒にいられる環境がずっと好みだった。

あるグループで、ひとたび誰かが「うちらって、ファミリーだよね!」とか言いだしたら、その場所の居心地が悪くなる兆した。1.誰かと誰かが仲良くなりすぎた結果、2.誰かが仲良くない誰かの悪口を言い出し、3.ほどなくしてイザコザが起こり、4.「ファミリー」は無惨に崩壊する。

お決まりのパターンだ。

こうして、いつも仲良くしていた人達(通称ファミリー)が、突然仲違いする様子を、私は幾度となく見てきた。きっと誰もが一度や二度、似たような出来事に遭遇したことがあるはずだ。
「そんなにイチャイチャしてたら、飽きるのも早いんだよ!」と。
その構図たるや、まるで恋愛と一緒だ。


無論、「仲良し」であることに越したことはない。互いに気にかけて、ときに冗談を言い合い、助け合い、励まし合う。自分が死んだときには、涙を流してくれる人のひとりやふたりいて欲しいと思う。クリスマスキャロルの改心する前の、スクルージじいさんのようには誰もなりたくないだろう。

しかし「仲良くなること」と、「他人の領域に土足で入り込む」ことは別である。「気にかける」ことと、「詮索する」ことは別である。なかなかどうして、人とひとの距離は難しい。

というわけで、ようやく本題である。

「一体感がない職場」では、外部からの人がどれだけ入って来ようとも、まるで問題ナシである。つまり、「一体感がない」ということは、「疎外感もないもない」ということなのだ。「仲間ではない」ということは、「仲間ハズレもない」ということだ。

そうすると「職場に一体感がない」ことが、果たして悪なのかも、わからなくなってくるではないか。

結果、この職場では、総じてオペレータースタッフの在籍率も長い。そして、みんなニコニコと感じはいい。しかし、特別に仲が良いわけでもなさそうなのが興味深い。

さらに驚くべきは、ここでは「喧嘩」を一度も見たことがない。30年勤めている部長でさえ、「二回しか見たことがない」というのだから驚きだ。(「金持ち喧嘩せず」とは、よく言ったものである)

「一体感はないが、仲間はずれや喧嘩もない環境」と、「一体感はあるが、仲間はずれも存在する環境」とでは、果たしてどちらが居心地がよいのだろうか?

「喧嘩しない距離感を保った組織」においても「一体感の醸成」は可能なのであろうか?

そんなわけで、昨年末から、「一体感をブーストする実験」を始めてみた。果たしてうまくいくのだろうか?

その実験結果は、またどこかで。


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