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002.何を見なかったか

私は昔から『何かをやれなかったということは、別な何かをやっていたということだ』と言ってる。

これは子育て中のママが、あるいは数年に渡る巨大ビルの常駐者が、強迫観念にも似た「参加できないもどかしさ」を感じることへの慰め(というか真実)でもあり、昼寝をし過ぎて貴重な休日を無駄にしてしまった日の自分への慰め(というか真実)でもある。

SNS時代の弊害なのだろうか、「他人のことばかり気になって、目の前の恵まれた環境に集中出来ない病気(的なもの)」が蔓延している気がする。ムカつくけどチラ見してはムキーっとなる、アンビバレンスなあの感じは「病気」といって差し支えないと思う。

仕事には守秘義務というやつがあって、「真実」は載せられないから、結果、遊びとか、見たものとか、食べ物とかの、「実にどうでもよいもの」がSNSに溢れることになる。みな、その構造的な事実を知ってるはずなのに「ムキー!また美味そうなものを食って」と、脊髄的に反応するのだ。自分もほぼ同じような投稿をしてるというのに。

その「実にどうでもよいもの」をもってして、嫉妬心を煽るくらいなら、「何をやらなかったか」の方にフィーチャーしていく方が健康的だし、かえって面白い。「あの人はちょっと人とは違うよね」っていわれるゆえんが、「知らない(みてない、行ってない、参加してない)」ことが他人と異なるだけなのかもしれない。ていうかたぶんそうだ。

「えー?そんな事も知らないの」っていう、たかが「知ってる」だけでマウントポジションを取ろうとするあの人びとが、絶滅するかもしれない。

人生の記録は「後から引き算する事」が不可能なわけだからして、「経験しなかったことの価値」は計り知れない。(「なかったことにする」のは、また別の話)

《評論家やマニアは、「何を観ているか」と同時に、「何を観ていないか」を表明する時代じゃないかと思います。(略)あれも見たこれも知ってる。こんなにコレクションがある」といった、20世紀的なペダンチックで加算式の履歴(これは、コンピューターによるアーカイヴ作成能力の高さと手を結んでいます)、つまり「攻める/誇るプロフィール」という、強度一辺倒で情報過多的な自己披瀝の蔓延による、慢性疲労を快癒してくれるし、他にも様々な可能性を感じる》

菊地成孔

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