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001.脆弱性という魅力

自分が感動してしまう事というのは、なんだろかと考えてみる。

深い愛情の共有だったり、驚愕の集中力の継続だったり、早熟過ぎるまでの審美眼だったり、見たことも聞いたことないようなリサーチ能力だったりする。

ドキッとするような魅力的過ぎる彼等が、その輝きを失っていく過程を何度も見て来たけれど(彼等の人生に「私」は関係がないのだから、実に身勝手な話だ)、その最大にして唯一の原因だと私が疑っているものは、「伴侶の選択ミス」である。

天才と言っても差し支えない程に魅力的な彼等が、徐々にステレオタイプな(どこかで聞いたような)話題を口にしはじめ(話題くらいどうでもいいと言われるかもしれないが、それこそが重要なのだ)、家のローンなんかを組み始め(借金する事自体は実にクリエイティブだと思うのだが)、「枠の中」での保身や出世を口にしはじめたら、「あぁ君も《そっち》に行っちゃったか」と思うのだ。

毎日のように生活を共にしている誰かが、あの懐かしくも旧式な装置(テレビ)を向いて配置されたソファに座って、「子供の養育費はどうするんだ」などと、詰め寄られているんだろうと想像してしまう。そうなってくると、彼等から創出されるアウトプットも、徐々に、しかし確実に、「凡庸なもの」になっていくから不思議である。

頭と手は連動しているのだ。

満たされない充足感や、欠落感や、不器用さやが、クリエイティビティと連動している事を、いつも痛感するのだ。飢餓感というか、「いまだ手にしていない何か」こそが、クリエイティブの源であるよ、と確信するのだ。

ある巨大組織事務所からアトリエに転職した経験を持つ友人が、面白い事を言っていた。曰く「本当の変人は巨大組織にしかいない」と。

本当の変人(つまり天才)は、極めて偏った思考をキープしているがゆえに天才なのであって、つまり極めて偏った思考をキープしたまま、少数精鋭なる環境では生きていけないのだろう。たしかに、我等が同胞の「転職した人びと」が一様に言うのは「あの巨大なる組織には、バケモノみたいな奴がいた」と。 今では転職した私も、懐かしくも前職での「バケモノ(級の天才)」を思い出すのだ。

私がいつも感激してしまうのは、集団就職とでもいうべき、ザルのようなセレクションを経て、奇跡的に巨大組織に侵入してきた「天才」に立ち会う時である。

しかし(実に身勝手な話なのだが)、最初はどれほど感激して魅力的だと思っても、やがて急速に《私が》興味を失っていく人と、《私にとって》輝きを保ちつづけている人との違いは、何だろうと考えてみる。

彼等の違いは、並走している「誰か」からの影響を受けているか、あるいは並走している「誰か」も同じくらいに天才なので(あるいは相手に興味を持たないか、放置しているか、そもそもいないか)影響を受けずに済んでいるかの違いでしかないのではないか、と私は確信しているのだ。

つまり彼等の魅力の源は、その脆弱性にあるのだ。脆弱性とは、(魅力があるがゆえに)いずれ祝福され、持ち上げられ、「鋭利な刃物を失っていく過程そのもの」にあるのかもしれない。

ごく稀に、信じられない程の魅力を保ちながら生きている「大人」に出逢う事があるが、彼等に共通することは「欠落性を保っていること」に過ぎないような気がしてならないのだ。別な言い方をすれば、それは「純粋性を保つ」というのかもしれない。

純粋なるものは脆弱なのだ。いつの時代も。

「あいつ」はいつまで魅力を保ち続けるだろうか?どうか失わないで欲しい。

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