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006.評価されるということ。

とある飲み会の席で
「人事評価権を持つ人の顔色を伺う人は多い」
という話を、ある人が語り始めた。

まぁ、よくある話だ。

ちなみに、私が所属する組織は「評価権を持つ人が至極限られている」のが特徴だと思う。(前職と比較した話題だから、他の組織がどうなのかは、よくわからない)。

「従って、若い人の中には、人事評価権を持たない”中間層”には目もくれない人も存在するんですよ」と話しはじめた。
「つまり、”評価権を持たないしづりんさん”に対しては、”そういう態度”で接している若手も
いるかもしれないって事ですよ」
「そして、僕に対しても」と、”評価権を持たないその人”は言った。

「へぇ、そんなもんですかねぇ。そんな事は感じたことはないですけどね」と、中途半端に相槌を打っていた。

しかしフトこの手の話題は、
あらゆる企業、
あらゆる学校、
あらゆる組織、
ありとあらゆる組織で、
日常的に、延々と、繰り広げられている出来事なんじゃなかろうかと思った。

それは、
幼稚園の連絡帳からはじまり、
小学校の通知表、
そして中学校の内申書、
大学受験の面接に、
社会人での人事評価に、
コンペの審査員とか、
ありとあらゆる世界の全てで。

人が人を評価する場の全てで起こりうる、
「評価されるかどうかの差により、態度を変えさせてしまう事を常態化させている世界」
があるということ。

これは一体全体、何を生み出して、どこに向かっているのだろうか、と。

そしてその世界は実に、「不確かで、非効率な世界」なのではないか、と。

不確かであるという理由は、これに尽きると私は思う。

つまり、
「どちらへの態度がホンモノなのか」
という事だ。

評価される相手に対しての態度がホンモノなのか、
評価しない相手に対する態度がホンモノなのか、
そのどちらの態度もホンモノなのか、
あるいはどちらの態度もニセモノなのか。

おそらく、それは
「本人さえわからないのではないか」
と、私は思うのだ。

評価される事をモチベーションすることは極めて危険であるのではないか。評価される事をモチベーションにした途端に、人間の本質的な「何か」が、失われてしまう気がしてならない。

いつもいつも、
たくさんの色とりどりの絵の具を
チューブから出しては、
ずっとずっと
日が暮れるまで、
絵を描いている
こどもがいた。

その絵を見た
「ある人」はひどく感激して、
おおいに褒めた。

するとこどもは、
ますます
絵を描くようになった。

そして、
まいにち毎日
絵を描いては
「その人」に見せに行った。

「その人」は、
まいにち毎日、
こどもの絵を
褒めてくれた。

ある時「その人」は、
頑張った仕事をコテンパンに
バカにされて、
疲れ果てて
帰って来た。

いつものように
こどもが絵を見せに来た。
その絵はいつにも増して、
素晴らしい出来だった。

こどものうちから
こんなに才能があるのに、
ボクときたら、
いつまで経っても
叱られてばかりだ。

「その人」は
むしゃくしゃして、
言ってしまった。

「いつも思っていたんだ。こんなものな落書きだ!」
と。

こどもは、
突然の事にびっくりして、
大粒の涙をポロポロこぼして、
帰っていった。

それから、
こどもの絵の具はカラカラに
乾いたままだ。

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