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自分の武器と弱点がまじで表裏一体だった話 文章書く時、何考えてる?

前回の気づき(下記参照)から半年が経ちました。

とりあえずその後をね、書こうと思います。
文章のあれこれがXでバズったり(下記参照)

なんやかんやあったわけですが、すぐさま変えようとしても、そうすぐには変わらないわけです。
ここで、まだわかってない……?と拳を握りしめた人は一旦手を開いておろしていただいて、とりあえず私の自己弁護を聞いてください。ちゃんと最後には改心してるから……たぶん

文章書くのに慣れてない人・普段漫画書いてる人が文章書くならこうしたら良いかも!というポストがバズったんですけれども、思わぬ副産物として「全く見知らぬ人々からの褒め」がたくさん得られました。
表現の例とか作例あった方がわかりやすいかなと、相手がウマ娘のオタクだったのでちょっとそっち寄せでいくつか出したところ、その作例を褒めてもらえていて嬉しかったです。
まあもちろん、作例は私が自分で得意とする部分を書いてはいるんですが、全く知らない人たちに純粋な文章だけを褒められると「これでいいんだ」という免罪符のように感じられるなと思いました。
褒めと真逆の意見もないわけではなかったんですが、「pixivに読みに行ったら好きじゃない系統だった」的なやつだったので好悪の問題はまあそらあるよね〜ぐらいのもんでした。
見られる範囲での話ですが。

よく言われていたのが「わかりやすい」ということで、これは説明の仕方が間違ってなかったんだなーというのと、私が文章を書く時に一番気にしているのが「わかりやすさ」なので、そこがちゃんと意図した通りに出来ているんだなと嬉しかったです。

「自分がやろうとしていることが間違いではない」という他人からの承認は、何かをしようとしている時に必須ではないけれど、あれば心強く、先行きを照らすというより護身用の道具のように思います。
まあそんなわけでね、「ああこれでいいんだな」とは感じました。挙げたことが出来てるかはまた別の問題ですが、やろうとしていることが間違いではない(正解と言っているわけではないです)のは嬉しいことです。

何かの理解に詰まった時、状況を把握するのと言葉の定義を確認することから始めるんですけれども、そもそも「文章が上手い」とはなんぞや?という話なんですよね。
漠然と言いがちですが、ここの理解なくしては進めないというか、むしろ言葉の指すところが広く、また、基準が人によって様々だから余計に頭を悩ませているように思うわけです。

「文章が上手い」という言葉があまりに多くの意味を内包しすぎていて、どの範囲を指してその言葉を使っているのか、人によって違うせいでさらなる違和感を生んでいるんじゃないかな?と思ったということです。

私が思うに「文章」の上手さには段階があって、概ね
・文法的に正しい一文が書ける
→文法的に正しい文章を組み合わせることが出来る
といったもので、それとは別枠で
・文法を理解した上で表現豊かな文章が書ける
・構成(物語)を作ることが出来る
があり、これらにもそれぞれ段階があります。
文章を書く目的によってこういった要素が複雑に絡んでくることで、文章が上手いという意味に曖昧さが生まれてくるのではないかなと思います。

私はここで言う「表現豊かな文章」が非常に苦手で、何年ものあいだ言い続ける程度にはコンプレックスがあります。
というのも、文法的に正しい文章を書くのは訓練でなんとかなる部分であり、その訓練をしてきました。
構成は、何かを書きたい・書いている=まず構成(内容、物語)ありきなため、ごちゃごちゃ考えて作ってはいなくとも無意識にでも出来るものなのかなと思います。出来るということは意識して考えるだとか、凝れるという意味ではありません。
また、構成も学ぼうと思えばその手の指南ページや指南本がネットにも本屋にもあります。
表現豊かな文章は感性によるところが大きく、訓練で身につけるのが難しいんじゃないかな?と個人的に思っています。

これらを具体的に例えると、
料理のレシピを書くとして
・文法的に正しい文章を書ける
→作業内容が伝わる文が書ける
・構成(物語)を作ることが出来る
→作業工程を書く順番を考えられる
・文法を理解した上で表現豊かな文章が書ける
→そのレシピで出来る料理の味を巧みに表現出来る
というふうに捉えていて、最後だけ様子がおかしいですね。

定型があるものに関しては学ぶことが出来ますが、表現は必ずしもそうではないと感じているのでとにかく苦手意識があります。
まあ〜〜〜〜〜〜これが数年もののコンプレックスで、私が書く文章はとにかく味が薄いんですね。
良く言うと、私はバロックが好きなんだけど、書けるものはモダニズム建築、みたいな。
その味気なさ、シンプルさを良いようにとってもらうことはあるんですが、コンプレックスってのは本人の気の持ちよう如何なので、そうなかなか消えたりはしませんでした。

前回も書いたように、「どうも自己認識と他者からの認識に差があるな……」とはなんとなく感じていて、前回はその差がどこから生まれているのかについて考えていました。
今回考えていたのは「そもそも文章が上手いって何だろう?私は何が取り柄なの?」というところで、
・文法的に正しい一文が書ける
この点に関しては、まあそこそこ出来ている自覚があります。
というか散々練習してきましたし、先生、教授、その他色々、他人の文章を読むことに慣れた人たちにお墨付きをもらっているので、たぶん出来てるんだろうなといったところです。
ただ、誤用がないとは言いません。

・構成(物語)を作ることが出来る
これも論文のみならず、色々書いてきてたくさんの方に読んで頂いたので、わりと出来ている方だと思います。
小説に関して言うと、個人的に自分の文章の“売り”はここで、展開の持って行き方なんかを楽しんでもらっているのかなと思っているところです。

・文法を理解した上で表現豊かな文章が書ける
だからこれが苦手なんですけれども……。と思いはしつつ、度々褒めてもらっているのも事実で、ここまでの流れからまあまず自分の認識に対して「本当にそうなのか?」と疑いの目を向けることから始めようと思い、しばらくじっと考えていました。
一つ誤解して欲しくないのが、私が言う「表現豊かな文章」というのは、決して「語彙が豊富である」と同じでないということです。
語彙力があるにこしたことはないものの、ある一定のレベルにさえあればそれでいいと思っています。伝わらなければ意味がなく、ハイパーインテリとインテリインテリした話を楽しみたいわけではないので……。
雰囲気づくりにおいて語彙を意図的に選んだり偏らせるのはまた別ですが。

そんなわけで、自分の「良さ」をちゃんと認識することから始めようと、過去に頂いた感想を読み返したり、過去に書いてきたものたちを振り返ることにしました。
有り難いことに、これまでにたくさん感想を頂きました。
ここで「まあ長いこと、大量に書いてますからね……」と言いたくなるのをグッとこらえ……られなかったので書いてしまいました。すみません。自分を下げるな。はい。
私は量産するタイプなのに加えて「感想が欲しいです!!もらえると嬉しいです!!」とはっきり主張するのも影響しているかもしれません。
しかしさすがに、何かしら人に「刺さる」ものが書けているのかなあとは思います。
さらに、どうやら私はハイパーハチャメチャものすごくポジティブ人間らしいので、感想がもらえなかったら、もらえなかったこと自体を都合良く忘れるので自動的に感想をもらえる確率が100%になるんですね〜〜なんとも便利な性格です。

頂いた感想は折に触れ、読み返してはいるのですが、改めて違った見方で読み返しました。
冷静になって考えてみる、というか感想を頂くと「読んでもらえたやったー!うれしー!」という気持ちでいっぱいになってポンコツになるのと、前回の通り「趣味を同じくする同好の士を得られてうれし〜〜」「全てを好悪の問題で片付けがち」になってしまうので、もう一度しっかり読もうと思いながら読みました。
それによって気づいたのが「ちゃんと伝わってんだよな」ということです。

そう、ちゃんと伝わってんですよ。
私が気合い入れて書いたところも、ここ!!ここが書きたいんや!!というシーンも、登場人物の感情のゆれも、緊張感を……と思いながら書いた空気感も、伝わってるんですよ。
これらをね、今までは「同じ趣味の人がいてうれしい〜〜」で受け取ってたんですが、「待てよ……これ……つまり“書けている”のでは……?」という新たな気づきを得ました。
「書きたい」という自己満足でしかないものが「伝えたいこと」としてちゃんと成立して「伝わっている」のでは……!?という気づきで、大前提からひっくり返りました。
同時に自己認識と他者からのものに差がある理由が新たに浮かび上がります。

根本的に私は「書きてーもんを書く!!」というところから出発していて、そこを変える気はさらさらないと前回お話しました。
また、私は自分が書く物語を頑なに「文章」と読呼んでいて、「小説」と呼称するのに抵抗がありました。これは小説として成立しているものを書けている自信がなかったからです。近年はあまり頑ななのもどうかと多少態度を軟化させていましたが、考え方自体が変わったわけではありません。
小学生が先生見て見て!!とする要領で「自分なりに頑張ったので読んでもらえると嬉しいです!」と言っていたわけです。今思えば、ここには既に自分を下げる意識が紛れています。
「書きてーもんを書く!!」という気持ちだけで書いていて、私があれこれ考えながら書くのは「努力すること自体が趣味だから」に過ぎません。(この件に関しては別記事にて)
努力が必ず成果につながるわけではないとも知っているので、努力に結果が伴うとは思っておらず、とにかく「自分なりに頑張ったので、同好の士に読んでもらえると嬉しい!」の気持ちだけでやってきました。

いや……ちゃんと伝わっとるやん!?
何かを眼指すとき、必ず誰かの意図が混ざり込みます。写真や映像でさえ、世界のどこをどう切り取るかという、制作者の考え、美意識、技量が反映されています。
小説や漫画などはそれが顕著で、何をどう伝えるか、全てが作者の無意識と意図で構成されています。
「特に何が伝わって欲しいか」が恐らく明確に書けていて、そして伝わっているようなのですが、そもそも私が二次創作を読む時に好きな話かどうかを重視しているせいでその辺りがよくわかっていなかったということです。

ここで自分が書いたものに立ち返りました。
感想を頂いた箇所、自分で気合を入れて書いた箇所を読み返して、そこでまた新たな気づきを得ました。
私が書く文章の癖として、密度の差がある。
文章の密度を変えて緩急をつけたり、軽重をつけているようなのですが、感覚的にはここぞというところで描写を増やしてスローモーションにしたり、言葉選びを変えて重みを作るといったものです。これはなんとなくこういうのが好きだな、得意だなと思いはしても、自覚的にやっているわけではないので目からうろこでした。
というのも、これらはつまりベースが薄味で密度が低いからこそ成立するもので、全てが緻密に、美しく、華やかに整えられた文章でないから出来ているのでは?これまでずっとコンプレックスだった味気ない文章だからこそなのでは!?と気づいたからです。
人生の伏線回収……!!

わかりやすさと出来るだけベースを低く薄味に保つことを両立させつつ、緩急と軽重を付与するのが私が書く小説の良いところらしい、とわかって、急に肩の荷が下りたというか、そんなに肩肘張らなくていいんだなと許されたような気になりました。華やかな、豊かな、美しい文章が書けないと苦しんでいたのが、ああこれはこれでいいんだな、と力が抜けた感じです。

随分と長い間迷走してきました。
あーこれでいいんだ、とようやく一息つけたような気持ちです。
改めて振り返って、本当にこれまでたくさんの感想を頂けて嬉しいな、ありがたいなと思います。おかげさまで自分が書くものの良いところに気づけました。
同時に、「こいつ褒めてもわかってないな…」と度々思われていたようなので申し訳ないとも思います。
今後はもう少し短絡的な発想を改めます。

私はよく「私は好きで好きな時間に書いているので、読んでくれる人がいるのは嬉しい」といったことを言うのですが、特に小説は、ながら読みが難しいですし読む時間もかかります。読んでもらえるだけでも嬉しい、ともよく言っているのはそういうことです。
そこから感想を書いて頂くのはさらに手間と時間を要することで、本当に嬉しいことだとずっと思ってきました。それがいまいち受け取れきれていなかったのは申し訳ないなと思います。
そして、私が書いたものを読んでもらえるのも、読んで何かしら感じてもらえるのも、感想を書いていただけるのも本当に嬉しいです。
今回こうして気づきを得られたのも伝えてくださった方々のおかげで、ありがたいことです。

時折、「買ってすぐ4時間かけて読みました」「5時間かかって読みました」と言っていただくことがあり、正直なところ嬉しいと同時に不安もありました。そこまでしてもらうほどのものになったか、最後まで読んで後悔しなかったか、まあとにかく自信がなかったんですね。
私は理想として毎晩寝る前に少しずつ読んで眠くなったら寝る、という風に読んでもらえればな〜と長らく思っており、それもまた贅沢な話ではあるのですが、眠くなるまで読む本という立ち位置で生活に寄り添えると嬉しいなという感覚でした。ほんの少し日々を楽しくするというか、「何があるわけでもないけど、今日も晴れててよかったな」ぐらいのものというか。
手にしてすぐ読んでもらえるのは嬉しくも、そんなに楽しみにしてもらえるほどのものに出来たのか、どうにも不安が拭えずにいました。
これからはもう少し素直に、そんなに楽しみにしてもらえて嬉しいなと受け止められるんじゃないかなと思います。

基本的には「文章書くの楽しいな〜」で全て済ませてしまうので、散々苦しんだり悩んだりしててもそれは楽しいからしていることで、まあいくら苦しもうが悩もうが所詮好きでしているいつでもやめられることでしかないんですが、その好きでやっていることを、これからも一緒に面白がって楽しんでもらえると幸いです。
また私が書いたものを読んだり、感想を頂けると嬉しいです。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!

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