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ダークソウルと金枝 番外編 ―蛇の知恵持つ龍樹―

ダークソウルの世界がいわゆる二元論の世界、乱暴に言ってしまえば”光と闇のファンタジー”であることは、まあ頷くことの出来る事実でしょう。

この世界の主要な神であるグウィンは「太陽の光の王」を名乗り、竜たちを征し秩序ある火の時代を築き上げます。彼の偉業を継ぎその火の時代の延命を図ろうとする主人公たちは不死の英雄であり、一種の闇の力を駆使して戦います。

ただ、一方の見方ではこれら火の時代の秩序とは神々のかした枷であり、人の本来の姿に戻ろうとする不死たちは、薪の王を討つことでこの偽りの世界を破壊しようとすることもできます。

これら二つの道筋に分かれたダークソウルのストーリーは、おおむねヒロイックなファンタジーか、グノーシス的な堕落した宇宙観のどちらかであり、いわゆる”光と闇”という二元論を脱したわけではありません。

しかしこれら両義をどちらの解釈でも成立させ、その善悪も上下も最終的に決定しないダークソウルのメタ的な世界観は、これら二元論を超越した視点を持っているかのようにも思えます。まるでこの世界の始まりにあった、生命の超越者たる古い竜たちのようです。

竜と悟りの道

ダークソウル3に登場したこれら竜信仰をイメージしたであろう「古竜の頂」とよばれるステージが、道を求める仏教的な雰囲気を帯びていることはたびたび指摘されてきました。

ステージの建物は中東風ではありますが、インドかパキスタンあたりにあっても違和感はなく、禅を組んだような竜体の何者かのミイラがそこかしこに並んでいます。また、古竜たちが「生命の超越者」だとはシリーズにおいて度々アイテムテキストに書かれていることで、そうした”生と死”や人間の不死たちのような復活を繰り返す”輪廻”から離れた存在という表現は、この世界の竜の表現としてよく見られるものです。

このような輪廻や生死から離れること、解脱や涅槃の境地をめざすことは仏教の一つの目標であり、上記のような禅やインド風のロケーションはそれを裏付ける描写のように思われます。

無名の王が眠っていたと思われるドームを持つ廟。
賽の河原を思わせる積み石や、アスタリスクにも似た信仰ステータスのシンボルが刻まれた皿など、このステージにはなにかの信仰があった描写が数多く配されている。

この「ダークソウルと金枝」シリーズの番外編の前回「なぜ岩と大樹なのか」にも、竜たちがそのような”死と生”を超越した存在であることを、岩石と植物のモチーフから考察しました。

では現実の仏教の教えと、このダークソウルの古竜を比べることで何が見えてくるのでしょうか。

龍樹と知恵の経

現在、日本人の多くは大乗仏教の宗派にも属しているとされており、もちろんそうでなかったり、他に神道などを信じているという場合も多いのですが、とにかく身近な宗教であることは間違いありません。

日本で主に仏教の経典として親しまれている「般若心経」。このお経が一般にイメージされる、日本の仏教の思想を表したものと言ってもよいでしょう。

「般若経」とよばれる経はいくつかあるようですが、今回はその中でも日本で特に親しまれている「玄奘訳」とされるものをウィキソースより引用させていただきます。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罜礙。無罜礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

小林正盛 編「真言宗聖典」、森江書店、大正15年、p 114
句点の打ち方を独自に修正した。また誤植を修正した。
(Wikisourceより。なお上記の”修正”とはWikisource側でなされたものです。)

「仏説魔訶般若波羅蜜多心経」とは、仏=ブッダ自身による偉大なる”般若波羅蜜”つまり知恵の完成に至るためのお経というような意味ですが、この通りあの「西遊記」の玄奘三蔵によって中国へ渡り漢訳されて今に届いているという、伝説中の伝説の経典です。本当に仏陀が説いたのかと言われると不明らしいのですが、とにかく仏教初期から語り継がれているありがたいお経です。

私自身も今回この記事のために調べて、特に詳しいわけではないという事を断っておきますが、簡単に解説しますと

(PCで書いていますが、環境が違って行数が変わっていたらすみません)
二行目「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。」の部分がこの説教の説かれた時の説明であり、即ち、仏陀自身が深い行の最中に”完成された知恵”を体験している時、”五蘊”はみな”空(くう)”であると照見し、一切の苦厄を度してしまわれた、という次第です。

”五蘊”とは仏教の中で語られる人間自身の精神を五つの要素(あるいは段階)によって分け説明したものです。つまり「五蘊皆空」とは人間自身の意識や存在、”魂”と呼ばれるものは”空”であるということで、簡単にイメージされる仏教の悟りのような、自我への執着から離れたことを表しています。

次に、三行目「舎利子。色不異空。」~七行目の途中「無智亦無得。以無所得故。」までの部分。

これらは、この経に代表される大乗仏教の”空の思想”が表される箇所であり「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。」のとおり、人間が”色”として受け取るこの世界の風景は”空”にことならず、”空”もまた”色”にことならない。色即ち空であり、空即ち色である。と説明します。

これらは”舎利子(シャーリプトラ)”と呼ばれる当時の仏陀の弟子に、仏陀自身から呼びかける形で語られ、先ほど言った五蘊や人間の六感、果てや老いること死ぬこと、仏の道を知らない事”無明”さえ、実際にはみな無でありその本質は”空”であると語られます。

七行目途中「菩提薩埵。依般若波羅蜜多故」~九行目までは、この”空”を理解できる「知恵」によって”菩提薩埵”=仏を目指すものたちや、三世諸仏=過去、現在、未来のあらゆる仏自身も悟りに至れるのであり、「知恵」あるゆえに恐れなく、夢想に顛倒せず、究極の涅槃に至れるというような意味です。

以下十行目からは、つまりこのような「知恵」こそが嘘偽りなき真実であり、そのありがたい”知恵への真言”を唱えて曰く「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。(サンスクリット語の祈りの音写)」となり、これが般若心経ですと締めくくられます。

だいぶ端折ったり適当に解説していますが、私の理解に重大な間違いがなければ、ツッコミはご容赦ください。

これらをこのように読んでみて、やはり理解できない部分……というか、「言いたいことは分からなくもないが、感覚的に納得できないような部分」があるのではないでしょうか?

仏教の教えの中で世の中が”空”だと言われることは否定はしないまでも、やはり自分自身や感じている世界が空虚なものだとはとても思えないはずです。もしそうであれば、今読んでいるこの「般若心経」の教え自体も、虚しいものとなってしまうのでは? という考えも、当然浮かんでくるでしょう。

このような”空の思想”をより論理的なもの、考えやすいものにしよう、という考えは当然このような教えが広まった当時からあったはずで、その論理を説明した代表と言える存在が、龍樹とよばれる人物です。彼の伝説はとても面白いものですが、詳細に語っては長くなりすぎてしまうのでご容赦を。

SEKIROに登場するボス、桜竜。
西国からわたり葦名に根付いたと言われるが、詳細は不明。
フロムソフトウェア作品と龍樹とを結びつける考えは、このボスのデザインからの連想だが、竜と樹木の関連性はダークソウルの頃からあったものと思われる。

南インドのバラモンの家系に生まれた彼は類まれなる才をもち、王の後宮に忍び込んで殺されそうになるなど、紆余曲折あって出家し様々な教えを学びました。しかし若くしてそれらの教えを学んだ龍樹は慢心し、その驕りを哀れんだ大龍菩薩(マハーナーガ)なる存在によって海底の竜宮に呼ばれ、そこでさらに深遠な教えを学び今日の仏教の基礎ともいうような理論を建てました。

この伝説的なエピソードに説明されるように、彼は蛇(あるいは転じて龍)の称号を得、ナーガールジュナと呼ばれます。

彼の著書として有名なものが、先に挙げた「般若心経」に言うような、この世の様々な事象の”空”=無自性を説いた「中論(根本中頌)」という書であり、その中で特に気になって今回紹介したく思った箇所が第十章「火と薪の考察」です。

竜と仏教。また竜と樹木。火と薪。そして、生死の超越的思想。
なんとなく、今回この「ダークソウルと金枝 番外編」に、仏教の話を持ってきた意味が分かってもらえると思います。

竜と火と

この”空”であるという事、つまり自性が無いとされることは、今日の大乗仏教の根本的理論です。

この世の一切は自ずから生ずることなく、他者との縁によって存在している=縁起によるのだと説明されます。しかも、この「中論」の中ではこの”縁”そのものや原因と結果のような他者との関係性の現象そのもの”因果”も、また自性は無い(? すみませんが、このあたりは流石に私自身理解が浅く、すこしわかっていないかも)ように論じられています。

先に挙げた、第十章「火と薪の考察」においてはおそらくこれを例えとして、人間と、その心の作用である”五蘊”や”我”のような現象が”空”であることを証明しています。

もし火と薪が、それぞれそれ”そのもの”として存在する場合、燃料としての薪なしに火そのものが生じたり、逆にまったく火を上げないのに、しばらくすると黒く炭になって痩せていく木片が存在することになってしまいます。

しかも、もしどこかから火を持って来て着火する場合でさえ、火と薪とは互いの存在がどのように触れあい、また作用しあえば実際に火がつくのでしょう。そこに至るまでの過程に「アキレスと亀」のような無限の段階があるように、また火に近づいた時点、実際に火が薪についた時点を切り取って眺めてみても、ゼノンの「飛ぶ矢」のパラドクスのように、どの時点においてもただ木と上る火炎があるのみで、火と薪とは無関係のようにさえ見えます。

もちろん化学的な現象としての原理を知れば、さらに段階的にこの現象を説明づけられます。ただその場合でも、化学変化とは、原子の結合と分子である事とは、というようなさらに細かい現象とその成り立ちは完全には説明できません。

つまり私たちが思う”火”も”薪”も、本来それそのものとしては存在しえないのです。

そのように繋がってはいないが存在して見えるものの例えとして、実際の道のりから浮いて近づいたように見える陽炎や、一点の火が暗闇で輪のように回るファイヤーダンス、旋火輪のようだと例え、物事の”空性”を示します。

不死の徴、ダークリング。
この輪が現れることによって、不死人は篝火での輪廻に囚われてしまう。しかしよく見るとこの火の輪はつながっておらず、完全な円ではない。

このように徹底的に事物の実体を否定する「中論」ですが、そのような思想ではでは”何かがある”事を示せませんし、世の中の一切を否定する虚無主義に陥ってしまうかのようにも思えます。なぜこのような理論が、宗教としての大乗仏教の根本となれたのでしょう。

竜と灰の世界

しかし翻って考えてみるに、先の仏説とされる「般若心経」でさえ、そのように一切の否定はなされています。龍樹の「中論」はむしろそれを追認し説明を試みる内容です。仏教とはそもそも虚無的な宗教なのでしょうか。

「般若心経」で、この”空”を説くパートと、般若(知恵)の功徳を説くパートのつなぎはこのようになっています。

「無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。」

苦、集、滅、道(の悟りに至る段階)は無く。智も無く、また得ることもなし。よって所得も無い故。菩提薩埵(悟りを求める衆生たち)。般若波羅蜜に依る(またその故に……)。

……となります。
一見して滅茶苦茶なことを言っていて、他の仏の教えを完全否定しているようにも思える暴論です。また所得がないとは、世の無職の方に対するヘイトスピーチのようにさえ聞こえます。単なる煽りです。

何かを得ることがない故に、般若波羅蜜によって、悟りを得る。

意味が分からないと思いますが、しかしおそらくはこの関係が「般若心経」や「中論」ひいては大乗仏教の思想です。”般若波羅蜜”(完成された知恵)というものが、本来所有の出来ないはずの人間に、悟りをもたらすのです。

じゃあ悟りってなんだよ、という話になりますが、”悟った状態”つまり”涅槃”という語はニルヴァーナ(消える)という意味の言葉で、よく「煩悩の火がかき消された状態」と説明されます。

このような状態に至るにおいて、様々な事象、世界の”色”が”空”であることを悟ることは重要です。この世界が”空”であることを知れば人間はそのようなものに囚われず、”涅槃”がそこに生じたように一切の苦を忘れます。

ただし、このように世界が単に意味のないかのように教えては、人間は虚無主義に陥ったり、逆に反感を覚えて世の中に執着します。

システムの輝度設定の項目。
果たして竜のような、生命の超越はありうるのか。輝度を最大まで明るくしてみたが、竜のシンボルはモニターを正面から覗いてもうっすらと死か見ることが出来ない。頑張ってみても、王のソウルをシンボルとする炎だけがくっきりと見えるのみ。

世界というものが意味があるのか、無意味なのか。苦であるのか、いや、楽しみも存在するのか。我々は常にこのどちらかの二元論、二項対立の世界に囚われて、その中に何かを見続けることしかできません。しかもそのような説明の仕方によってしか仏教の教えすら語れないのですから、救いは無いように思えます。

事実、「般若心境」も「中論」も「何々では無い」「何々にはあら不」というような、始めに何かを立てそれを否定することによってしか”空”を語ることは出来ていません。どこまでもこの二元論から離れて何かを語ることは出来ず、”空”そのものは語り得ません。

”火”と”薪”が厳密には成立していない架空の存在だと説明を受け、よしんばそれを理解できたとて、実際に目の前にある篝火に触れれば熱いものは熱いですし、火傷もします。

竜と彼岸

しかし、このような語り得ないものを信仰し、その知恵を得ようという考えは東洋の仏教だけのものではありません。

おそらくこれも、『ダークソウル』の世界観に影響しているであろう考え方。西洋哲学の礎とも言えるプラトン主義では、「洞窟の譬え」というものがあります。

イデア論とも呼ばれるそれら思想の寓話によると、通常の人々は洞窟の壁に鎖で縛られたようなものであり、ただもう一方の壁に映された移り変わる影を見てそれを現実だと思い込んでいます。

ある種の英雄的人物はその鎖を脱し、洞窟の篝火を越えて真の光の世界、太陽のもとに出ることでこの世の真理を知ることが出来ます。しかしそのような光の世界を知った人間は、もはや影の世界を真実と思い込む人々には訳の分からない話をする狂人です。しかし人を正しく導く王たちは、その両の世界観を上手くおり合わせ、この世の真理を説いていかなければならないと、プラトンの語るソクラテスは語ります(ガバ知識)。

初期のプラトン主義では単純に人の善性を目指し、この真の世界、イデアの世界へ関心を寄せていたようですが、後の時代では様々な宗教や思想と融合し、本来の人間の知覚では知り得ないイデアの根源のような存在との合一を目指したそうです。

ウラシールと深淵をつなぐ、鎖のぶら下がった牢。
青ニート、ソラール、グンダ等。繋ぐ鎖やチェインメイルは、火に囚われた存在の一つのモチーフとして使われている節がある。しかしこの深淵の側か太陽の方か、どちらがこのダークソウル世界の真実の姿かは語られていない。

なんのこっちゃという感想もあるでしょうが、この通常知覚できない存在や知識に触れること、神秘に見える”神秘主義”と呼ばれる思想は、この二元的世界から離れる一つの解です。

もしも自分自身ではたどり着け得ない答えに触れたければ、答えの方がやって来てくれればいいわけです。あらかじめ答えを知っていれば、後知恵であってもそこから何かを学べるかもしれません。

先ほどは人間の言語能力やそれに依存する知的活動では、二元論から離れられないことを示しました。このような二元論による思考、感覚そのものが”火”と”薪”のように実体がないものだとは、「中論」に書いてある通りです。

しかし同時に、人間の考え得ない”空”というものを、知った存在がいることも事実です。事実とされています。

龍樹自身もまたその一人だとされ、「般若心経」に描かれる仏の姿「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。」とは、まさにその時の事を説明しています。

我々は、知ること得ることがなく、何かを持つこともないので。
無智亦無得。以無所得故。

菩提を目指す衆生は、般若波羅蜜によるがゆえに。
菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。

心に障りなし。障りなきがゆえに。恐怖もある事なし。一切の顛倒や夢想を離れ、究極の涅槃あり。
心無罜礙。無罜礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。

諸仏はすべからく、般若波羅蜜によるがゆえ、無上の悟りを得たり。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

故に知られる通り、般若波羅蜜は、これ大いなる神の真言。これ大いなる光明の真言。これ無上の真言。これ比類なき真言なり。
故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。

一切の苦を除くに能う、嘘偽りなき真実ゆえ、この般若波羅蜜を唱え説きましょう。
能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。

即ち、唱え説いて曰く。「行け行け彼岸へ行け。彼岸へ行き悟り得るもの、幸いあれ。」完成された知恵の神髄の経なり。
即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経。

この通り、最後には祈りの句でしめられており、どのようにその悟りに至るのかは説明されません。ただ、完成された知恵は存在する、そのような知恵を知った仏という存在がいた、という事を説明する文書であり、祈りの経です。

完成された知恵がある、修行者はむしろその知恵によって悟りへ導かれ得る。その知恵の光明によって、世俗での知識や所有によらず誰しもが悟りに至れ得るということが、すべての人が出家しなくとも救われるとする大乗仏教の理論です。

「般若心経」にはそのような理論が十全に説かれ、龍樹の「中論」ではそれら”涅槃”=”彼岸”というものを、”空”による断絶によってはっきりと描いているのです。

古竜の頂から、さらに向かいの峰に眠る巨大な竜。
イルシールの地下牢から、古龍の頂。そしてこの頂から、向かいの峰へ。古竜への道は度々断絶によって隔てられている。しかしその場でただ祈ることによって、プレイヤーは導かれてそこに至る。おそらくはこの眠る竜だけが、ダークソウル3の時代に残った、唯一生命の超越者の深い境地にある姿であろう。

2022/2/24

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