#花粉症

 私は幼少の頃からアレルギー体質だった。

 最初は、アレルギーが皮膚に出てアトピーに。

 3歳まではお腹をずっと掻きむしって血だらけになっていた。

 それが終わってからは喘息を発症した。普通に呼吸をすることができずに幼稚園の3分の1は休んだ。

 小学校に入ってからも、アレルギー体質はあらゆるところに出た。

 ホコリのあるところに行くと、鼻水や咳が止まらなくなる。修学旅行ではいつも咳をして、目を真っ赤にしていた。枕投げなどもってのほかだった。咳と鼻水で眠れなくなってしまうからだ。

  もちろん、花粉症も私の抱えていたアレルギーの一つだった。2月後半ぐらいから鼻がむず痒くなり、3月4月はくしゃみが止まらず、加えて喘息も併発していた。

  見兼ねた母親が、小学校4年生の時に、私を新橋にある、とあるアレルギーで有名なクリニックに連れて行った。

 アレルギーテストを行うため、ダニ、花粉、ハウスダスト、等いろいろな菌の入った液体を、左腕の内側に少しずつ注射した。

 私の左腕に打たれた10個程の小さな針の穴を中心に、たくさんの輪ができた。そしてその輪はみるみるうちに真っ赤になり、各々の輪同士がベン図ができるぐらいにまで膨張した。

「こんなに反応する子は見たことがないなぁ」と先生は半ば残念そうにため息をついた。

 そして、「とりあえず、しばらく通って治療をして様子を見ましょう。」と言った。

 そこから、私の定期的な新橋通いが始まった。小学校が終わって母親が迎えに来て、電車に乗って1時間半掛けてクリニックまで行く。

 私は神奈川県出身であるが、隣の東京都に行くというのはちょっとしたイベントである。多摩川を越える時の緊張感は今でも忘れないし、そして、都内に住んでいる今でも電車で多摩川を越える時は、やはり緊張してしまう。

 既に30年も前のことなので、記憶は定かでないが、治療の内容は減感療法と言われるものだったように思う。少しずつ、アレルギーの元となった成分が入った液体を注射で体内に入れ、免疫を付ける、というもの。アレルギーの種類ごとに少しずつ、体内に入れて行く。

 効果があったのかなかったのか、それも覚えていないが、いつの間にか両親の意向で新橋通いはなくなり、私は中学生になった。

 そして、ホルモンのバランスが変わったのか、体育会系のブラスバンド部で1日2,3km走って肺活量を上げたのが良かったのか、原因は不明であるが、中学2年生の時点で、喘息もアレルギーも治ってしまった。

 その翌年、私は肉離れをこじらせて外傷を患い、7時間にもわたる手術を受けた。1ヶ月にわたって入院し、またしても病院にお世話になる日々を送ることになってしまったのであった、、

 私の父は、仕事柄海外にいることが多く、アトピーの治療方針を含めた病院通いは、両親が話し合いの上決め、そして実行するのは母親だった。

 手術の時も、父親は、医師の先生に「放っておいたらガンになるかもしれない。すぐに入院して手術を受けて下さい」と宣告された時は日本にいた。

 しかし、案の定、手術を含む入院期間中はずっと、中東に行っていた。

 父は、一言、「頑張ってね」と私に言い残して日本を去った。そして、「最後まで泣かなかったのはえらい」と。

 母親は「この大事な時に。」と病室で溜息をついた。

 退院後、高校受験を経て私は高校生になった。

 高校に入ってからは、激しい部活も禁じられ、患部の血行を良くする、ということで、またも放課後にマッサージに通うような日々が続いた。

 同級生がグラウンドや体育館で汗を掻いている間、私はパジャマ下とTシャツを持って、通学途中の駅で降り、マッサージを受けた。そして、血行を良くし、骨盤を矯正する、という名目で制服のスカートの下に腰バンドを着けていた。

 マッサージを高校2年生になる時に卒業した。そしてその直後の秋に、1つ上の「彼氏」ができた。

 高校生の恋愛なんて他愛もないものかもしれないが、彼は、私のきれいな肌が好きだ、と時折、真剣に言っていた。彼はアトピー性の皮膚炎に悩まされていた。私はそのことをさして気にしたことはなかったが。

 いつしかその彼ともさよならすることになり、私は大人になった。

 手術をした外傷は、所詮外傷なので、患部付近の感覚が鈍くなってしまったことを除いては、今は何の支障もなく日常生活を送っている。

 

 花粉症の時期になると、アレルギーに悩まされていた頃を思い出す。

 思い出すのは、世界が遠くなる感覚と両親の不安そうな様子。

 掻きむしっては赤くなるお腹。仰向きでは呼吸できず、うつ伏せになったところで眠れない夜。

 大学生になってすっかり遊び呆けている私を見て、両親は、「この子はアレルギーが抜けてから、バカになっちゃったのよ」と言って笑った。

 確かにそうかもしれない、と思った。

 喘息等でベッドに寝ている時間が多かった幼少期はひたすら本を読んでいた。その流れで中高時代も「本がお友達」の時代が続いた。

 自分の目の前だけが世界であり、かつ、病気とも無縁で輝いている「今」を過ごす周りに馴染めなかった。

 しかし、健康体になった後は、あらゆることに鈍感になった。そして、高校生までの時間を取り戻すように人と関わるようになった。

 

 父親は4年と少し前の2月半ばに他界した。ステージ4のガンが発覚してから1年半、私が手術を経験した20年と半年後、あっという間の出来事だった。

 私はかつての父が私にしてくれたように、1年半の間、あらゆる手立てを使って、病院廻りをした。そして、その時間は健康体になって鈍感になった自分が、かつてアレルギーに悩まされていた頃や入院期間を思い出すものだった。

 世界は何の問題もなく、みんな健康でハッピーなんだな、という感覚。

 その頃は久しぶりに本もたくさん読んだ。待合室の時間で読む。医師の先生に話を伺って読む。電車の中でまた、というように。

 そして、何をやったら治るのか、それとも治らないのか、病院を訪ねるごとに苛立った。

 自分の身に起こる病は自分が我慢すれば良いが、身内の病は辛い。どれぐらい痛くてどれぐらい不快かがわからないからだ。

 苛立ちを感じながらも、幼少の頃、父は同じ気持ちを味わっていたのだ、と思った。

 父親が他界してから約1ヶ月後、東日本大震災が起きた。

 不謹慎かもしれないが、震災前に亡くなってもらって良かった、と安堵した。

 抗がん剤が効かなくなっていた父は、為す術もなく自宅にいた。

 母親はどこかで買ってきた本に書いてあった通りに、大量に野菜を買い込み、ひたすら野菜ジュースを作って父親に飲ませていた。

 がん患者は体温が低くなるので部屋を暖かくしないといけない。停電になった数日間、父親が生きていたら、ジューサーも使えないし、部屋を暖めることもできない。これでは、母親の神経が持たなかっただろうな、と心底思った。

 

 あれからわずか4年しか経っていないが、花粉症のシーズンになるとアレルギーに悩まされていた頃を少しだけ思い出す。

 眠れない記憶。世界が遠くなる感覚。

 と同時に、その状態をケアしてくれた父と母の愛情。

 私は一人っ子だったので、中学2年生までの家庭での話題は「いかにしたらこの子のアレルギーが治るか」に集中していたように思う。

 そして、アレルギーを経験していなかったら、年に半分は海外にいた父親との関係はもっと薄いものに感じられたのかもしれない。

 父親がなくなる1年半の間、私は自分の感覚を通してであるが、父が抱いていたであろう不安や身内を虞る気持ちを経験することができた。

 そして、大人になった今でも、「病弱であった時よりはラク」という自己肯定感を持つことは、何らか仕事の上でも役になっているような気がしている。

 また、書くべきことではないのかもしれないが、ほんの少しだけ、自分より「弱い立場にいる人」に対してシンパシーを感じられるような気がしている。

 世界には色々な人がいる。今なお戦時下にいる人も、被災から立ち直っていない人も。

 お子さんがアレルギーで悩んでおられる親御さんは今でも数多くおられると推察する。先日もFacebookである治療院にお世話になった親御さん同士のやり取りを見掛けた。

 すごく辛いのだろうし、できることなら変わってあげたい、という気持ちなのだと思う。やはり、アレルギー自体はやはりとても辛かった。そして、術後の傷跡は今でも残り、患部の感覚の鈍さは20年以上も続いている。

 しかし、そういう感覚を通してしかわからないこともあるし、そしてその身体的な感覚が何らかそのお子さんにとってプラスに働く場合もあるかもしれない-。

 未だ人の親になっていないので、あくまで推測の域を出ないけれども。

 

 花粉症とは直接関係のない内容になってしまいましたが、Facebookでお子さんのアレルギーに悩む親御さん同士のやり取りを拝見して、書いてみました。

 あくまで、私の拙い経験を元に、ですが。

 全てのこの世の中に存在する子どもたちが健やかに育ちますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?