『ダーリンは70歳』他雑感


西原理恵子 『ダーリンは70歳』がやっと届いた。20年以上サイバラ先生のファンを続けているが、最近はマメに新刊を買う、ということはなくなっていた。ゴロウデラックスからの、の流れである。

と同時に以前から気になっていたはあちゅうさんの『半径5メートルの野望』『わたしは、なぜタダで70日間世界一周できたのか?』『無所属女子の外交術』と壇蜜嬢の『壇蜜日記』『壇蜜日記2』も購入し、三連休の中日の昨日、一気読みした次第。

これらを読んで、改めて女性の欲望とは何か、について考えてみた。

現代において、自分の心情を吐露して作家業をしていう女性、というと、林真理子、西原理恵子、が真っ先に思い浮かぶ。次は作家ではないが壇蜜。他には、はあちゅう、小島慶子、甘糟りり子(それぞれ敬称略・以下同じ)なのでは。
前3人と後3人は熱量の質が違う気がする。

そして、それは『ダーリンは70歳』と『半径5メートルの野望』他はあちゅう本の差であるとも感じる。

まずは『半径5メートルの野望』の感想から。
正直、普段のゆるふわ的なコメントの印象からかけ離れたものだった。この人の賞味期限はいつまでなのか、みたいな感じで捉えていた
が、非常に真っ当で強い意志を感じた。

若いのに良くできた人だ、とも。

故に、なぜはあちゅうが嫌われる(実のところはわからないがそういうことになっている)のかが、ピンとこなかった。林真理子が同じことを書いたら違っていただろう。

やはり、はあちゅうは賢くかわいい。

一歩譲って外見は評価が分かれるのかもしれないが、賢さは文章からしても経歴からしても間違いないだろう。

にもかかわらず、の自虐が皆カチンと来るのだろうか。

作家デビューのきっかけになった『さきっちょ&はあちゅう 恋の悪あが記』のブログも見たが、かわいくて面白い。
凄まじい行動力と晒し振りであるが、10代のあどけなさが残る写真がたまらない。

しかし、やはりかわいい、が先に来てしまうのは40過ぎという私の経年もあるのかもしれない、と思った。

リアルタイムで恋愛に奮闘している男子女子たちにとってはウザかったのかも。
ブログにしている時点で余裕あるな、と。

一方、彼女が大ファンだという帯コメントを書いた林先生は、田舎から出てきて就職も決まらず、作家として大成したが、やはり未だ形状が「美しい」とは言い難い。

林先生が同じことを書けば圧倒的に受けたのかもしれない。才能は非凡でも、出発点や見た目が高くないので、親近感が増してしまうのだ。故にバッシングされにくい。

私は神奈川県の出身だが、はあちゅうのような女性は周りに結構いる。帰国子女とのことなので、おそらく中の上以上の家庭に生まれ、高学歴を経て大企業へ。
なぜ有名になりたい、彼氏が欲しい、結婚したい、などと若くして強烈に思う必要があったのか。

特に「有名になりたい」欲。「有名になりたい」なんて、かなりの逆境にある人が人を見返したいと思う時に、最初に思い付くことのような気がするが、なぜそのように思う必要があったのか。この本からはわからない。

人間関係に悩んだ、とあったのでひょっとしたらいじめにあっていたのかもしれない。もしくは、純粋に本が好きで作家になる、というゴールから逆算してコツコツと努力したのか。これなら合点が行くが、作家になりたい、の源がわからない。

著者の心の穴の有無が見えるか見えないかは作品の価値とは関係ないが、自虐エピソードを読むと、やはり気になってしまう。

この「心の穴の見えなさ具合」が、炎上の原因か。多くの人々は自分と同じところに降りて来てくれないと気に入らないのかもしれない。

ところで、この本のメッセージは「自分の行動を変えることで全ては変わる」というものである。彼女は実際にそうして着実にステップアップして来たので、その姿勢を伝えたかったのだろう。「みんな上に行きたいと思ってるのにどうして私と同じことしないの?」と。

自らの今の半径5メートルを変えなければ自分の未来は変えられない。
分かっているがすごい根性とアウトプット量だ。アウトプット量は全盛期の村上龍や中谷彰宏並みかと。しかも、趣はそれぞれに異なる。まだ3冊しか読んでいないが他も読みたいと思った。

イケダハヤト氏が「はあちゅうは事業家として超一級」と書いていたが同感。
物書きで出て来たが、今は、サロンをやったりテレビに出たりとはあちゅう業をやっている感じ。
本に書いてあることは至極真っ当なので、彼女はファンを獲得し続けるのであろう。

作家として、というよりも彼女は起業家のような立ち位置で成功しているのかもしれない。

入社した日本を代表する広告代理店を経て活動の幅を広げるために独立へ。作家になりたかった(もちろんそれもあるのだろうが)、というよりこちらの起業家的な筋の方が納得できる。ハイスペック理系男子の起業の文系女子バージョンなのかも。

イケハヤの言う通り、彼女に対する批判はやはり嫉妬だろう。才能故に共感が得られないというのは非常に残念である。おじさんおばさんならともかく、若年層が叩くのはやはり日本社会はまだ狭量ということなのか。

いっそのこと今のスタイルの文筆業は続けつつ、硬派な報道キャスターや誌上の経済インタビューみたいなのをやってもいいんじゃないかと思う。小谷真生子さんや大江麻理子さんはオヤジ殺し(と見せ掛けて鋭く斬るのだろうが)感が拭えないが、はあちゅう女史の場合は真っ向勝負になるのではないか。

いずれにせよ、世を活性化させ若い女子を勇気付ける存在として頑張って欲しいと思った。

人は心の穴に共鳴する。

この成功事例が林真理子や西原理恵子であろう。ある意味壇蜜もそうかもしれない。壇蜜嬢は不幸な生い立ちなど語ってはないが、何かあるんじゃないか、と思わざるを得ないものがある。葬儀屋で遺体衛生保全士をしていたことや銀座のクラブ勤めのエピソードを見るたび、やはり紆余曲折あって今があるのだろう、という気になる。きわどいグラビアや過激な映画で出て来たが、今となっては全てを晒さない感じが彼女の魅力。

ちなみに、西原理恵子と壇蜜は『幸せはカネで買えるか』という対談集を出している 。壇蜜は最後に左に天秤のイラストを披露しているが、これがまた秀逸である。

左に「仕事」「社会とのつながり」「猫」「給与で食べるウナギ」、右に「男がくれた幸せのようなモノ」「モテ」。
天秤は左に大きく傾き、「重い方を選んだだけさ」とのコメント。

物書きとしての壇蜜の本に彼女の裸はない。『はじしらず』は表紙の裏面がヌードだが、表紙はお線香箱のようだ。壇蜜日記もしかり。
最新刊『どうしよう』は未読だが、やはり表紙に裸はない。

しかしながら、焼肉食べてホテル行って、お寿司食べて行ってホテル行って、の赤裸々な1行で十分に想像力は掻き立てられる。
そして、食事とセックス以外に男性と時間を共にすることのない恋愛をする女性の心をわし摑みにする。

壇蜜もはあちゅうと同じくブログがきっかけで文筆業を始めた人であるが、コツコツとブログを続けている。エッチなお姉さんで登場した頃から現在のスタイルは見えていたのだろう。

天秤の左にあるものは全て「半径5メートル以内の欲望」である。日々の努力と卓抜した自己プロデュース能力で文筆業へ。
壇蜜もはあちゅうも実にあっぱれである。

女性の野望ならぬ欲望は、美やブランドバックそのものではなく、誰に支配されるでもなくそれを自分で手に入れる、というところまで来ている。
つまり、男性は相変わらずモテたがっているが、女性はもはやモテたがってなどいない。

ある程度経済力のある女性は、自分が心地良く過ごせる唯一のパートナーを求めて彷徨っている。専業主婦の業界誌だったVERYすら共働き特集を読み「ありがとうという前にトイレットペーパーを買ってこよう」という始末である。

要するに子作り以外のシーンで男性が要らなくなって来てしまっているのだ。西原理恵子も壇蜜との対談で、一番男性からもらったものでありがたかったのは精子、と言っている。

女性の社会進出が可能になった今、男性が「誰が食わせてやってるんだ」などと言って、月々数十万で、30年以上食欲と性欲を満たすためだけの存在を支配し続けることは不可能に等しい。
才能と美しさを合わせ持つはあちゅうや壇蜜の出現は、女性の欲望が進化していることの証左である。

林真理子や西原理恵子に根強い人気があるのは、ノンフィクションの作家性の高さにある。矢沢永吉の往年のファンが、永ちゃんがいるから商売を続けられる、というのにも似た感がある。逆境を経て光輝く。有名クリエイターでなくとも、誰の人生にもある人生の高低である。

ファンは作品のみならずその存在に励まされて頑張れるのである。西原理恵子の『ダーリンは70歳』は矢沢永吉の『アー・ユー・ハッピー?』にも似ている。『成りあがり』を経た後の世界。両者の内容は異なるが、自立することの大切さ、他人を尊重することの重要性が伝わって来る。

という訳で『ダーリンは70歳』の感想。1000円出して幸福のお裾分けに預かった、という感じ。当たり前だが、『鳥頭紀行』とは全く違う。過酷な世界に自らを置き、世界を相対化して描く。それがサイバラ先生のお家芸だが、今は特殊な環境に身を置かなくとも、終始書きたいことが溢れるのだろう。

作中の「人は欠損に恋をする」という高須先生のフレーズを読んでふと「心の穴」という言葉を思い出した。

西原理恵子は周知の通り、気合いの入ったダメんずウォーカーである。母親は自分がお腹にいる時に離婚、かわいがってくれた義理の父はギャンブルに失敗して自殺。
自分のダメんず振りは、母親の血を受け継いでいる、との一節をどこかで読んだことがある。

しかしそれはDNAというよりも、自らの壮絶な過去の傷を共有できるのは、何かに傷付けられ、未だ立ち直れない立場にいる弱い男しかいなかった、ということなのかもしれない。

恋愛には差別が伴い、どちらかが、相手を支配し支配される(追い、追われるとも言う)関係の中でしか成り立たない。男女が家族になれば役割分担ができパートナーシップ、という名の対等な関係が生まれるのが理想か。

心の穴をつつき合う恋愛段階の男女において、支配/被支配の程良い均衡が崩れると、男性はモラハラ化し、女性はメンヘラ化する。男性がヤリチンだともっと厄介なことになる。

しかしながら、未だ熱愛中のサイバラ&高須先生の二人には支配や主従関係を感じない。故に失礼だが全くエロスも感じない。

しかし、二人は幸せそうだ。

高須先生は「自分だけが弱さや未熟さ(=欠損)の理解者であると思い、それを本能で補おうするのが恋」と語る。

西原理恵子は自らの心の穴と向き合うことで、多くの人々を救ってきた。つまり、多くの人の心の穴に触れて来た。ちなみに、叙情派の代表作である『はれた日には学校を休んで』が好きだ。

一方、高須先生は美容整形の施術で多くの人々の心の穴と向き合い、その穴を埋めようとしてきた。と同時に欠損は悪なのか?という疑問もあったのかもしれない。欠損は人を輝かせるために必要なものなのではないかと。

自分の容姿のある部分が醜い、修正したい、と思う気持ちが、女性らしさなのではないか。誰からも好かれたいと思わなければ、施術を施してまで自分の外見を変えたいと思わない。
「人は欠損に恋をする」とい言いつつも医師として施術を続ける高須先生の心中はわからないが、患者さんが自信を持つ、ということが一番大事だと思っているのかもしれない。

高須先生は「欠損を埋める」とは言っていない。「理解し補おうとする」という極めて抑制的な表現を使っている。他人の欠損を埋めることなどできない、ということは、外見の美を医師として追求して来た高須先生が一番良く分かっている。

そして、その諦めがサイバラ先生にとっては心地良いのだろう。

今日、たまたまネットの記事で起業家の佐藤航陽氏と竹中平蔵氏の記事を読んだ。
佐藤氏は、「優秀な経営者は間違いなく心の穴があいている」と言っていた。これには同感で心の穴に裏付けられたパブリックマインドがあると、事業はブレイクするような気がしている。

心の穴はルサンチマンとは違う。ルサンチマンが動機のビジネスは長期的な利益を生まない。これはクリエイターも同じではないかと。
自らの辛い経験を昇華させて世に還元する。その過程には消費者や読者が想像することのできない苦悩があるのだろう。

やはり、心の穴は欲望の根源であり自らと向き合うためのトリガーなのだ。

西原理恵子は「人様が喜んで下さるなら何でも書いて売る」と言ってはばからない。
現に『ダーリンは70歳』は、自らの食欲と性欲についてあますところなく被見している。
いわゆるのろけ本的な趣もあるが、読者あっての作家業、という姿勢を貫き通しているのだ。

決して幸福ではない幼年時代を送った西原理恵子と高須先生は今、足して120歳で「心の穴」を度外視したユートピアを満喫している。

その才能を持って多くの人々の「心の穴」と向き合い、精神や身体を救って来た二人が辿り着いた先は「相手を支配しない」という程良い距離感を保った関係である。

二人がこのような関係を継続できるのは、才能があり経済力があり、何より互いに職業人としての尊敬があるからだろう。

西原理恵子は深夜番組で高須先生からの手紙に涙していた。
その姿は私が書くのもおこがましいが、文句なく美しいのである。

「保育園落ちた死ね」で大騒ぎの日本社会でこのようなカップルの姿を再び見ることは難しいであろう。


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