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[Column] 文系と理系の境界

文理選択

文系か理系かというのは、二者択一の分類において、男と女、西と東などと同じくらい一般的なものであろうと思われる。いわゆる5教科のなかでの得手・不得手によって、文科系か理科系かを区別し、その後の授業選択、進路選択を決定づける。これが文理選択である。

一般に数学と理科があわせて理系に分類され、社会科と国語、そして英語が文系教科とされているのだが、こと英語に関しては、その内容がきわめて実践的・技術的な性格を有しているがゆえに、文系・理系といった区分からは外れるような気もするのだが、その是非については一旦わきに置いておこう。


数学ができるか、できないか

文理選択時、よく自分の「得意」な分野をもとに方向を定める。
いわく「理科が好きだから理系」、またいわく「暗記が得意だから文系」などなど。

一見すると当たり前のようだが、実はこれに関して言うと、文理選択の実態は決して“好き”とか“得意”とかいった感覚が、主たる理由となっているるわけではない。これはもっと否応のない選択であって、ありていに言えば、数学ができるか、できないか、その一点に尽きるのである。

[筆者注]
理科ができるだけでは理系とは言えません。
理科は学問的に上級になればなるほど数学的側面が強くなるので、小学校・中学校程度で理科が得意であることが、そのままその人物を理系と認定する要素とはなりません。


理系かそれ以外か

理系を選択した人に、なぜ理系を選んだのかと理由を尋ねると、こんな答えが返ってくることがある。

「いやァ、わたしは英語が全然だめで、少しでも英語に触れる機会を減らせる理系にしたのですが、結局、大学の研究で英語の論文を読まなきゃいけなかったりして往生しましたよ、ハッハッハ」

理系を選んだのは英語が嫌いだから、というきわめて消極的な理由であったけれど、理系の研究というのは、海外での先行研究や並行的な研究を参照しなければならないし、論文は基本的に英語で発表されるので、ひょっとすると文系の人間よりも英語に触れる機会は多いかもしれない。そして、苦手と言いつつ結果的にこなしてしまっているのだから、やってできないことはないのである(なるべく避けたいだけで)。

世の中で理系に分類される人は、基本的に5教科どれもオールマイティにこなすことができる人であって、文系というのは、数学が不得意な人が、理系でないのならこちらだろう、ということで文系を名乗っているにすぎない。


“本物の”文系

筆者自身、文系であるので、好き・得意の要素よりも、“できない”要素のほうが勝っていた消極的二者択一であったのは否定のしようもないのだが、このままでは世の文系に“役立たず”の烙印を押しかねないので、ここからは少し前向きな話をしよう。

文系の名乗る人の多くは、さきほどから言っているとおり、数学が不得意であることにより、否応なく文系の道を選んでいるわけだが、そのなかでまれに、“本物の文系”と出くわすことがある。

“本物の文系”とはなにか。これはまさに理系の正反対である。

つまり、筆者が思う理系とは、5教科をオールラウンドにこなし、中でも特に数学的能力に優れた人のことだが、本物の文系とは、5教科を平均的にある程度こなすことができて、かつ国語に特異な能力を発揮する人のことである。言うなれば「言語センス」に優れた人こそが、本物の文系であると言える。

「言語センス」とは筆者が勝手に使っている言葉だが、これは単語を何万語も暗記しているとか、漢検1級に合格できるとか、ただ単に知識が豊富なだけではない。

もちろん、そういったベースとなるものも必要ではあるのだが、何より語感、「てにをは」の正確性、状況に応じた語句の使い分け、リズム感など、それらが他人から指摘されるまでもなく、自然と感覚でできる人である。

これは感性に属するたぐいの力で、文系を名乗る人の中でも、ごくわずかしかいないのが現実であり、世の理系よりも希少であると思うのである。

理系の人材はIT革命以降、常に市場に必要とされてきたことから、就職に有利だという理由で、いまや大学から人文科学系の学部・学科が消滅しそうになってしまっている。

だが、スマホの普及でSNSが急速に広まり、誰もが発信者となれることで、Web上に文章が洪水のごとく氾濫する時代となった今こそ、言語のセンス、言葉の正しさを感覚的につかめる人材が求められる。そこに、文系の生き残る道があると思うのだ。

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