対案という本物の病

初めまして、国会を日々ウォッチされている憂国の士の皆さんを後ろから凄いなーと思いながら眺めつつ、新しい野党像を考えていこうとしているシタサンです。
言いたいことを書いていきます。何かの参考になったら望外です。

スポーツでルールを知らないまま観戦するってのはあんまりない。知らない場合は調べるか誰かに解説してもらうか、マイナースポーツの中継であれば実況解説がルールを説明してくれることもある。
ただ、国会のルールって殆どの人が知らない。「公民の授業でやらなかった?」という人がいるかもしれないが、あれは国会という仕組みのルールであり、その内部での討議に関してのルールは誰も教えない。なのに当然のように国会中継はニュースで流れる。
 だから多くの人はディベートと勘違いする。ディベートなら学校の授業でやったことも多いだろうし、イメージしやすい。しかし、実際はディベートとはかけ離れている。そもそも仕組みとしてお互い案を出して高め合うことが出来ないわけであり、それを理解していない人が多いから「野党は反対ばかり」という論調になる。極論、国会の仕組みで言えば野党は反対する為にいるわけで賛成ばかりの野党なんて必要ないのだ。
 と言っても実際見ていないと分からないし、見ても分からないことが多い。そして選手(=この場合議員や政党)が直接ルールの説明をするスポーツなんてないし、公平な立場でルールを説明する必要がある。ただ、このルールは多くの場合不文律みたいなもので、永田町の常識とか言われている。そしてこれを知っている者が玄人という風潮も一部であり、中々ちゃんと伝えようと動きにはならない。
 そしてルールを破る人たちが永田町の常識にとらわれないとか言い出して改革者ぶる現状があって、ルールを知らないというのはこれは大きな問題となってくる。
 なので現状メディアでそういった動きがないので、政治はショーでしかなくなっている。それでは困るという人が増えたらいいんだけど、消費することにしか興味がない人が多いからこういった細かいけど知っておかないといけないことを中々伝える動きが出てこない。
 
 ただ、少し考えれば複雑なことを知らなくても分かることは多い。例えば、対案というのは現状を改革する必要があると双方認められるときのみだす必要があって、現状維持でいいと一方が理解する場合は対案なんて出しようがないし出さないことが既に対案である。
 ただ、無責任な対案要求に一方が折れてしまうと、対案を出すこと自体現状肯定からは外れてしまうため意見が変容してしまう。そして、それはもう一方からすれば相手の意見が変わり「現状変更の必要性をみとめる」という箇所で一致すれば議論は有利に進めることが出来る。(現状変更の必要性に対しての議論を行わずに済むから)
そしてもっと言えば、対案を出しても政府案でなければ殆どの場合審議されない。
 もっともっと言えば、対案を出すということを売りにしている某政党は選挙のたびに支持を減らしている。
 なので、対案を要求する層なんて言ってしまえば与党支持層か与党寄りの無党派であり、そう言うことにより野党は無能=与党しかないという論調にもっていけるのでそう主張しているわけだ。そして多くの無党派層はその意見がパッと見て分かりやすいので乗せられるということになる。
 また、メディアが与党批判するときに、公平性という名のバランスを取るために野党批判をしなければならないと思っている節があって、その時に一番簡単に言いやすいのが「対案を出せ 反対するな」という論調なので、広まった側面もあろう。
 とにかく、対案を出せ、っていう主張は一見的を射てるように見えて全くの筋違いであり、そこは多くの人に理解してもらう必要があると思う。もし本気で政治をよくしようと考えている方で対案を出せ!と主張されている方がいらっしゃるのなら、それはまさしく対案という名の病にかかっているといえるだろう。
最後に、国民民主党は支持率増加のために模索を続け、その結果として参院での対案提出という考えに至ったのだろう。その努力を否定する気はことさらないが、対案を出した所で無党派層が食いつくことは考えにくく、票を奪えるとすれば維新支持層くらいのものだろう。しかもその維新支持層が一番嫌っているのは旧民進系である。
 しか今回の対案提出に従い「野党に乱れ」という報道がなされ、正しく法案の危険さを伝えるのに割くべき報道時間が野党の「内紛」に割かれ、国民に「また野党か」と思われてしまうことになる。国民が嫌うのは強行ではなく内紛だということを学ばなければならない。
 正しいことは正しい手段でなければ伝わらないものだ。

 



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